専門コラム「指揮官の決断」
第92回No.092 自衛隊式訓練法
地獄の特訓
大学院生だった頃、渋谷の駅前で不思議な光景を目にしたことがあります。
当時の渋谷駅前は今と相当景色が異なるのですが、大きな歩道橋が何本もありました。
その歩道橋のうちの一つの真ん中ほどで、30代半ばと思しきスーツ姿のがっちりした体格の男性が、頭に鉢巻を巻いて気を付けの姿勢をして、何かを大声で叫んでいるのです。
その後ろを通り過ぎる時に聞き取れたのは、自分が入社以来、いかに自分のことしか考えず、上司の意図を理解せず、部下の気持ちに思いを致さずに自分勝手な勤務を続けてきたかということを自己批判でした。
当時流行っていた「地獄の特訓〇×日間」という奴だな、と気づいた私は、反対側に渡ってしばらく見ていました。
10分以上大声を出し続けた男性は、さすがに声がかすれ、それ以上無理をすると気管の血管を破るのではないかと心配になるような状況になったところで急に静かになり、よく見ると泣き出していました。
すると何処からか40代前後のやせ型のサングラスをした男が現れ、その男性の肩を叩いて「よくやった」というような動作をしたかと思うと、どこかへ連れて行ってしまいました。
たしかに「地獄の云々」トレーニングには違いなく、これをしっかりとやっていた男性の根性には恐れ入るばかりです。それくらいの根性や気迫がないと営業などはできないのかもしれないと、営業部長を経験した今になって思うことがあります。
当時はインターネットなどというものが無かったので、大学に戻っていろいろと調べ、いろいろなビジネスマン向けの雑誌で紹介されているそれらの訓練法について調べてみました。パンフレットを送ってくれるものについてはその手続きをしてパンフレットを入手しました。私は組織論を専攻しており、リーダーシップ論や教育訓練法などについて大きな関心を持っていたのです。
当時はこの種のマネージャー向け訓練が流行っていたようで、たちどころに10社以上の資料が集まりました。
気が付いたのは「軍隊式訓練法」というような表現が使われていることが多いことでした。
当時、ビジネスマンや経営者向けの雑誌には「海軍式マネジメント」などの特集が多く、山本五十六の指揮法や連合艦隊のマネジメントなどという特集がよく組まれていたようです。
その翌年、私は大学院の博士前期課程を修了し、後期課程へ進むことをせずに海上自衛隊に入隊しました。
文字通り、軍隊式訓練を受けることになったのです。
軍隊式訓練法の実態
そこで気付いたことがありました。
渋谷駅前の歩道橋で行われていた軍隊式訓練法は基本的に軍隊式ではないということです。
私は自衛隊をはじめとして米海軍、米海兵隊、英国海軍、韓国海軍などの訓練方法に着目していろいろと調べてきました。人を育てるということがどういうことなのかを研究していたのです。
そして、共通していることがいくつかあることに気が付きました。
中でもとても重要なことは、軍隊では自尊心をかなぐり捨てるような訓練は一切しないということです。
どのような厳しい訓練でも、常にその試練に臨んでいる自分に誇りを持つよう指導していくのです。
訓練で徹底的に叩き込まれるのは「敵に負けること」の恐ろしさではなく、「己に負けること」の恐ろしさなのです。
訓練における最大の敵は「自分自身」なのです。
先輩たちが通ってきた道、同期生たちが横で頑張っている同じ訓練に弱音を吐いてしまう自分との闘いが訓練なのです。
そして、その闘いに敗れた時、どれだけ惨めな思いをしなければならないかを徹底的に叩き込むのが訓練であり、それはつまるところ自尊心との闘いに他ならないのです。
軍隊式訓練?
任官して10数年たったある年、私は初めての指揮官配置で東北の小さな部隊で指揮を執っていました。
休日、単身赴任だった私は隊員から誘われるままキャンプに出掛けるのが常でした。
ある時、大きな川の河原でキャンプをしていると、周りが騒がしくなりました。
見ると、戦闘服装に身を包んだ数十人のグループが近くに集まっています。
しかし雰囲気からして自衛隊ではないとすぐに分かったので、何が起こるのかと皆で見ていたのですが、右翼団体の合宿のようなのです。
たしかにその前日、基地の正門前に街宣車が乗り付け、「自衛隊の同士諸君、毎日の隊務ご苦労さん。我々も今日から数日間、当地に留まり、国家緊急時において諸君と一緒に行動できるよう訓練を行う。街であったら声を掛けてくれ。一緒に飲もう。」とやかましかった連中がいたことはいたのですが、この連中に「同士諸君!」と呼びかけられても困るなぁと聞き流していたところでした。
面白そうなので、キャンプの準備をしながらチラチラと眺めていたら、河原でサバイバルゲームが始まりました。
数十人が二手に分かれて川上と川下からお互いに攻撃し合うのですが、3人ほど戦闘服を着用せず、スーツを着て長い棒を持っている男性がいました。
一様にサングラスをかけています。
サバイバルゲームが始まったのを見ていて私たちは吹き出してしまいました。
基礎がまったくできていないので、所作が可笑しくてしょうがないのです。
そのうちに彼らの戦場がだんだん私たちのキャンプ地に近づいてきて、声をはっきり聞こえるようになってきました。
サングラスをかけたスーツ姿の男性が指導をしているようで、その指導がよくきこえるのですが、「そんなことでこの国が守れると思っているのか!」と激が飛んでいるようです。
どうも攻撃側と守備側に分かれて陣取り合戦をしているようなのですが、そもそもこの指導をしている連中が陸戦をまったく理解していません。
匍匐前進をさせたと思うと走らせ、また匍匐前進に移らせています。
敵が守りを固めている陣地を攻撃する場合、敵の小銃の射程入るまでは立って進みますが、射程に入ると姿勢を低くします。匍匐前進には3つの方法があり、半身を起こして進むものから段々に姿勢を低くしていき、最後は完全に地面に全身を付けて腕を引き寄せる動作のみで前進するところまで姿勢を低くします。
そこで進めるところまで進み、砲や爆撃による援護を要請し、最終弾とともに煙幕を張ってもらい、一挙に突撃に移るのが定石であり、匍匐したり走ったりを繰り返すということはありません。匍匐は突撃の直前の最後の詰めの前進手段なのです。
つまり、この指導にあたっているスーツ姿の男性たちは少なくとも自衛隊で陸戦訓練を受けたことがないことは明らかであり、映画などで観たシーンしか知らないのでしょう。
このサングラスの男が、かつて渋谷で見た地獄の特訓を指導していたスーツ姿の男性とそっくりだったのが印象的でした。
軍隊式マネジメントに対する誤解
どうも世の中には誤解があるように思います。
軍隊式訓練、自衛隊式トレーニングというとやたら厳しくすればいいと思われているようなのです。
軍隊には厳格な階級制度があり、厳しい規律が維持されています。
様々な所作や言葉遣いも独特で、節度ある動きや物言いが求められます。
また訓練も、いざとなれば命懸けの戦いに臨むための訓練ですので半端なものではありません。
それらをドキュメンタリーや映画で観ると、確かにおそろしい厳しさが目につきます。
軍隊式規律の実態は・・
しかし、軍隊における訓練は厳しいだけではないのです。
海上自衛隊の船では、朝、乗員が帰艦時刻までに戻ってこないと、直属の上官たちから「あいつはあのスナックで飲み潰れて2階で寝かされているに違いないから、ママさんに電話して起こしてもらえ」などと指示が出ますが、それほどよく部下の身上を把握しています。
湾岸戦争の際、私は米国に駐在していたので、帰還した海兵隊の士官たちに戦場に臨むにあたってどのような覚悟をしていったのかを聞いて回ったことがあります。大尉から少佐くらいの連中でした。
彼らが一応に答えたのは、「戦場には自分が一番最初に足を降ろす。そして引き上げる時は自分が一番最後に引き上げる。部下は戦場にはただの一人も置き去りにはしない。生きていようと死んでいようと全員を連れて戻る。」という覚悟でした。
陸上自衛隊の中隊長では、演習中に怪我をした隊員を背負って戻ってきたなどというのは別に珍しくも何ともありません。私と同期相当期の陸上自衛官などは連隊長の時にそれをやって腰を痛めたと苦笑していましたが、連隊長というのは約1000人の隊員を束ねる指揮官ですので、ヘタな上場企業の社長より大きな組織を引っ張る配置です。
私も新入隊員を教育する部隊の司令を勤めていた際、遠泳の訓練で脱落した新入隊員を見つけ、飛び込んで伴泳し、完泳させたことがあります。私が特別なことをしたのではありません。それが普通なのです。
民間は軍隊より厳しい?
自衛隊を退官してビジネスの世界に移ったとき、最初に感じたのはビジネスの世界の厳しさでした。
上司が部下を見る目が自衛隊よりも遥かに厳しいのです。
厳しいと言えば聞こえがいいかもしれません。
私に言わせれば、部下に対する愛情のひとかけらも感じられなかったのです。
たしかに自衛隊に比べて言葉遣いなどは優しいのですが、プライバシーに関与しないことを言い訳として身上把握をせず、パワハラになることを恐れて肝心な指導もしない、部下がうつ病になるほどメンタルダウンしているにも関わらず気付かない、そのような管理職ばかりが目につきました。
何と寒々しい組織かと思いました。
軍隊は確かに厳しい組織です。しかし、ビジネスの世界より遥かに暖かさに満ちた組織です。
上官と部下の絆の太さは民間のそれとは比較にすらなりません。
そうでなければ、そのような厳しさや規律は維持できません。昔ならいざ知らず、平成の軍隊は恐怖では維持できないのです。
危機管理のできる組織になるためには
私は当コラムでもそうですがコンサルティングにあたって「軍隊式マネジメント」や「自衛隊式訓練法」などを説くことはありません。拙著でもその旨を明言しています。
何故でしょうか。
失礼な言い方をあえてさせて頂きますが、ビジネスの世界の皆様にはそれが「できない」からです。
部下との間に命懸けの太い絆を維持していけなければ軍隊式マネジメントなどは実施できません。
たかが300人程度の会社の全社員の名前も知らない社長に「自衛隊式〇×」は無理なのです。
部下の一人一人を実存的存在として認識して対応していく覚悟のない経営者に「軍隊式〇×」は私に言わせれば百年早いということになります。
指揮官には「覚悟」が必要なのです。
そして、その覚悟を持たない経営者は、機会を得れば大きな業績を伸ばすことは可能かもしれませんが、危機管理上の事態に際し、組織が一丸となって対応することを期待することはできません。
厳しさにはそれに倍する暖かさが必要です。
それがないマネジメントは一見和気あいあいに見えますが、実はぬるま湯であり、しかしその人間関係は氷のように冷え冷えとしています。
危機管理のできない組織の典型がこれです。
危機管理のできる組織を作るために必要なのは、上司と部下のおそろしいほど太い絆なのです。