専門コラム「指揮官の決断」
第13回国旗の扱いを誤ると・・・・・
元旦やその他の祝日に日章旗を掲げるお宅は少なくなりつつありますが、昭和の時代には多くの家で掲げられていました。
私は米国での駐在勤務を2回経験していますが、米国では祝日に限らず、玄関先に星条旗を掲げている家がたくさんあります。特に私たちが最初の駐在勤務で住んでいたペンシルヴァニア州の田舎は保守的な街だったので、もともと国旗を掲げる家が多かったのですが、赴任後しばらくして湾岸戦争が始まり、町中が星条旗に埋め尽くされるくらいに掲げられていくのをある種の驚きをもって見守っていたことがありました。
日本では、日常生活で国旗を意識することはあまりないようですが、それでもスポーツの国際大会になると、皆さん日の丸の旗を振って応援し、選手も勝利の喜びを大きな日章旗を掲げて走り回ることで示すなど、やはりどこかに日の丸が我が国を象徴する国旗であるという意識が根付いているのではないかと思います。
国際儀礼を考える時、最も基本的でかつ一番最初に考えなければならないのは国旗の扱いです。
国旗は元々船の国籍を示すために掲げたものであることはあまり知られていません。わが国でも、平成11年に「国旗及び国歌に関する法律」が施行されるまでは、明治3年に太政官布告として定められた商船規則に商船に掲げる旗として規定され、日章旗の図案が別紙で示されていたのが日章旗を国旗とする根拠でした。
世界的にも商船は国籍を示す旗を掲げることが国際慣習法として成立しており、軍艦は平時でも公海上において国籍を示す旗を掲げていない船舶に対して国籍を示すよう要求することができることになっています。
国旗及び国歌は、その国を象徴するものとして敬意の対象として尊ばれるのが世界の常識ですが、日本では中学・高校の教育者の中にはこれを認めず、儀式において国旗を掲げたり、国歌の斉唱を行うことを拒否したりする人もいます。
世界的な視点からみれば、非常識とみなされても仕方ないでしょう。
米国では、公立の教育機関では幼稚園であっても毎朝「忠誠の誓い」という宣誓を暗唱させられます。次のような文言です。
I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
(私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います)
1942年に合衆国議会が正式に制定した国旗規則によれば、忠誠の誓いは合衆国国旗に顔を向け、右手を左胸の上に置き、起立して暗誦しなければならないと定められています。
帽子を取り、左胸の上に右手を置いて行うことが定められており、この作法が国歌の演奏時にも採用されています。軍服を着ている軍人の場合は無言のまま国旗に顔を向け、軍隊式の挙手の敬礼を行うことが定められています。
公立の教育機関はすべて毎朝この「忠誠の誓い」を暗唱しますので、私たちの息子も私が海上自衛隊の連絡官として勤務していた米海軍基地内にあったチャイルドケアセンターで、日本国籍であるにも関わらず毎朝暗唱させられ、三歳でろくに英語を話すことのできないにもかかわらず、この誓いの言葉だけはすぐに鮮やかに暗唱することができるようになりました。
「門前の小僧習わぬ経を読む」というのは本当のことです。
一方、日本の「国旗及び国歌に関する法律」には、国旗の仕様と国歌の楽譜が示されているのみで、それが掲げられ、あるいは演奏されている時にどのように対応すべきかが示されていません。オリンピックの表彰台などで「君が代」が演奏されている際に胸に手を置いている選手が見受けられますが、これは我が国においては正式な作法とは言えませんが、正式な作法が存在しない国なので対応がまちまちになるのは仕方ないのかもしれません。
ちなみに、自衛官は「礼式規則」により、国旗に対しては挙手の敬礼、国歌に対しては姿勢を正す礼を行うことが定められており、儀式で国歌を斉唱する場合を除き、朝夕の国旗掲揚や降下の場合などは、国歌が演奏されるとその方向を向いて直立不動の姿勢をとっています。そして、その先に国旗が見える場合には挙手の敬礼を行います。
また、目の前を国旗(自国の国旗だけではありません。)が通る場合には、起立して挙手の敬礼で見送ります。この生活を30年も続けていると、制服を脱いだ現在でも、国旗や国歌には敏感に反応することになります。
日本ではそれほど尊重されない国旗ですが、プロトコールの世界でこの取り扱いを誤るととてつもない仕打ちを受けることがあります。
かなり前のことですが、あるゼネコンが外国で政府発注の数百億円の契約を受注することが概ね決まり、日本から担当の重役が先方へ挨拶に伺った際、彼がその国の国旗を掲げてある前を素通りしたことが原因で、その契約を競合に持って行かれたことがあります。
大袈裟な礼をせずとも、ちょっと立ち止まる程度のことでもできていれば全く問題にならなかったはずなのですが、案内した現地の担当者と冗談を言いながら素通りしたのが先方の癇に触れたのです。
一方の競合は、担当者が同じく本国から来た重役を案内して建物に入る際、玄関先に掲げられている国旗の前で、旗の色が示している意味を説明してから入ってきたのですが、それが先方には国旗に対して敬意を示したと受け取られたようです。
私はこの重役だった方からこの話を直接伺ったことがあります。ご本人は戦争中に徴兵で陸軍に入り、この国に進駐したことがあったのだそうです。当時は、その国の旗の色など気にしていなかったのですが、相手が政府機関であることから、その国の国旗くらいは知っておかなければと現地駐在員にたまたま質問しただけなのだそうですが、思わぬ展開になり、心底驚いたとおっしゃっていました。
普段からの国旗や国歌に対する態度が仇になったとしか言いようがありません。
日本においては、国旗や国歌に対して敬意を示すことを教育することが憲法の保障する「良心の自由」との関係で議論されています。このことの是非をここで論ずるつもりはありませんが、国旗や国歌に敬意を表することができないのは、国際的には非難に値する非常識な行為であり、プロトコールの観点からは、最も慎重に回避しなければならない問題であることは間違いありません。
プロトコールの問題を軽視すると、大変な危機を招きかねないということを銘記すべきです。
弊社のコンサルティングでは、このプロトコールの問題を大きなテーマの一つとして重要視しています。外交儀礼などを真剣に学ぼうとすると大変ですが、ビジネスの世界で必要とされるプロトコールはそれほど面倒なものではありません。ちょっとした気付きを与えるだけで、日常の何気ない業務の中で感覚を育てていくことができます。
要は、その気付きを与えることができるかどうかだけの問題なのです。