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専門コラム「指揮官の決断」 

No.069 出船につける

出船につけるという意味は

 「出船につける」というタイトルの意味は若干説明が必要かもしれません。
 船乗りの用語です。

 港の入り口から入港してきて桟橋や岸壁にそのまま着岸させることを「入船につける」といいます。
 着岸の前に船を回頭させて港の出口(入り口は内側から見ると出口です。)に船首を向けて着岸させることを「出船につける」と言います。

 これは意外に時間がかかります。自動車の車庫入れのように簡単ではありません。
 狭い港内のあまり余裕のない水面で、船を反転させるということははたで見ているほど簡単ではありません。

 最近の船はサイドスラスタという装置が付いているので、船を真横に滑らせることもできるのですが、それでも大きな船体は港内の複雑な潮と風によって思うように動いてくれないからです。
 タグボートなどで押したり引いたりして着岸させる必要がある場合もあります。

 したがって、客船は入船につけることが多いようです。
 乗客は入港作業が終わったらサッサと下船したいので、速やかに横付けを完了させる必要があるのです。
 皆様も、旅客機が着陸するとベルト着用のサインが消える前に通路に並ぶせっかちな乗客をいつもご覧になっているはずです。
 
 一方で海上保安庁や海上自衛隊の船は「出船」につけるのが原則です。
 横浜港などで巡視船をご覧になると分かりますが、巡視船は必ずベイブリッジの方を向いて停泊しています。
 

何故出船につける?

 これは緊急に出航しなければならない場合、出船につけていれば舫い綱を離せば出航できますが、入船だと、舫い綱を離した後に船を出口に向けて反転させる作業をしなければならないからです。

 緊急事態が台風のような荒天下に生じた場合、港内で回頭させるという作業は極めて困難を伴います。
 入港する時は任務を終えて帰ってきていることが多いので、それほど急いで入港しなければならない事情はありません。
 したがって、多少手間がかかっても、緊急事態が起こるかもしれないおそれに備えるのです。
 したがって、海上保安庁の巡視船は通常、港の出口に船首を向けて停泊しているのです。

出船につける躾

 
 海上自衛隊の艦艇も同様で、私たちはこれを船乗りの躾として教育されてきました。
 何かにつけて「出船につけよ」と指導されるのです。

 例えば靴です。
 海上自衛官は靴を脱ぐときに体を反転させて脱ぎ、座敷に上がってきます。靴を履くときにそのまま履けるからです。
 候補生学校で夜寝る際、ベッド脇に脱いだ靴が出船になっていないと、夜中に見回りに来た指導官に思いっきり遠くへ蹴り飛ばされて翌朝探すのに往生することがありました。
 
 昔、ある港に艦隊で入港し、数十人の幹部が地元との懇親会に参加するためにある料亭に集まったことがありました。
 私はまだ最年少の幹部で一番最後にちょっと遅れて上ったのですが、先に上った幹部が皆靴先を入り口に向けて脱いで上がったのを見て仲居さんが驚いていたのが印象的でした。
 その街には陸上自衛隊の駐屯地はあるのですが、海上自衛隊の船が入港することはあまりなく、海上自衛官にはあまりなじみがなかったのかもしれません。「陸上さんとずいぶん違うわねぇ。」と仲間内で話しているのを聞いて可笑しかったのを覚えています。

 そういう私も退官して何年も経ちますので往年の習慣が失われ、外出先から帰宅するとそのまま靴を脱いで上がってしまい、外出する時に我が家の司令長官(海軍では司令官の女房は司令長官と呼ばれるのですが、この関係は退役しても変わらないのです。)が出船に靴を準備してくれています。

出船の躾はビジネスにも重要

 この「出船につける」ということはビジネスの上でも極めて重要な躾です。

 一日の仕事が終わった後、ノートパソコンや携帯電話に充電をしておく、翌日の段取りをしてから手帳を閉じるなどのことは多くの方が実践されているはずです。

 翌日着て出る服装を準備しておくということも、万一寝坊をしてしまった時などには重要ですし、さらには翌日の天気を調べておくことなども役に立つはずです。
 降雪予報が出ている時などは早めに出勤しないと交通機関が乱れるかもしれないからです。

 これら日常の具体的な準備もともかく、重要なのは常に「出船につける」という精神を持ち続けることです。

 作業の終わりに際して、次の作業のための準備を整えてから締めくくるという面倒なことをしっかりと習慣づけておくということは重要なことです。

 そのために「出船つけよ。」という言葉はとても便利であり、全てを言い尽くしているように思います。

 いろいろな作業をしている際に、この「出船につける」という言葉を思い出しながら、「果たしてこのまとめ方は出船になっているか?」を問い続けることにより、不意を突かれてもうろたえない態勢を作ることができます。
 ちょっとしたことなのです。

 ちなみに横須賀の海上自衛隊の基地をご覧になったことのある方は「?」と思っておられるかもしれません。
 横須賀では船によっては出船についていない場合があるからです。

 これは船の構造により発電機の位置が異なるために仕方なく入船になっている場合があるのです。
 海上自衛隊の艦艇は基地に入港中は陸上から電源を取るのですが、陸上電源はその周波数や電圧が必ずしも一定ではなく、搭載コンピュータの性能に影響を与える場合があります。したがって、搭載の高性能コンピュータのために質の良い電源を必要とする船は陸上電源を取らず、船の発電機を使う場合があります。
 ところがこの発電機の位置によっては人体に影響を与える低周波が発生する場合があり、近隣住民の苦情が出るために入船に付けられないことがあるのです。
 
 そのような特別な場合を除き、海上保安庁、海上自衛隊の船は「出船」につけるのが原則です。

 皆様も、まず、帰宅されたら靴を玄関の入り口に向けて脱ぐという小さなことから始められたらいかがでしょうか。

 「出船につける」と呟きながら。