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専門コラム「指揮官の決断」

第70回 

No.070 天性のリーダーとは

カテゴリ:コラム

 天性のリーダーとの出会い

 天性のリーダーという人がいました。
 ナポレオンや織田信長のことではありません。
 江守節子という人物です

 私が最初に会ったのは昭和43年4月、親元を離れて入学した当時は珍しかった全寮制中・高等学校である私立山手学院の校長でした。

 とても小柄なおばあちゃんで、大きなダミ声で私たちに話しかけてくる校長先生でした。
 校長自ら英語の教鞭をとり、新入生の英語は彼女の担当であったので、この学校に入学した生徒はすべて彼女の教え子なのです。

 津田塾を卒業した才媛でしたが、戦前に女学生ながら米国留学をしており、戦後、小さな英会話塾から予備校を起こし、そして全寮制の中学・高校を創立した女性です。

 この校長の英語の授業はかなり厳しく、予習を怠ると、凄まじい剣幕で怒られます。
 「やるんです。やればできるんです。なのにやらないお前たちは何なんだ。そんな子はうちの学校にはいらないから、サッサと荷物をまとめてクニへ帰れ!」と怒鳴られます。

 全寮制の学校なので荷物をまとめて故郷へ帰れというのは大袈裟でも何でもなく、説得力があるのです。
 とにかく大きなダミ声で、下町言葉で怒鳴られるのです。

 しかし、私たち生徒は彼女が大好きでした。
 「江守先生」などと呼ぶ者はおらず、陰では「江守バアチャン」と呼んでいましたが、御本人の前ではいたずら盛りの中学生がバッキンガム宮殿の近衛兵もびっくりするような直立不動なのです。

 全校生徒が集まる集会など、体育の教師などが中心となって「整列しろ!」「騒ぐな!」「私語をするな!」といくら怒鳴っても全く無視なのですが、江守校長が登壇してくると、嘘のように静かになり、全員がその最初の一言を待つのです。

 何故でしょうか?

 私たちは子供ながらに彼女に愛されていることを知っていたのです。

 彼女は私たち一人ひとりについて本当によく知っており、常に気にかけていました。

 実は私はこの学校の入学試験を受ける時、父の勤務の都合で広島県に住んでいました。父の転勤が多かったので中学高校くらいは転校せずに済むよう全寮制の学校を受験したのです。

 その試験のために横浜にあった学校に出てくる日、連れて来てくれるはずの父が狭心症で倒れ、急遽父の友人に連れられて受験に来たのでした。

 江守校長はそのあたりの事情もよく知っており、よく「お父さんは元気か?」と尋ねてくれたものでした。
 毎年百数十名入学してくる新入生すべてにそうやって対するのです。そしてそれは卒業してからも変わらないのです。

 高校を卒業する日、校長は卒業生向けて「いいかお前たち、人生にはうまくいく時もあるし、うまくいかない時もあるんだ。でも、決してあきらめちゃあならないんだ。どんな時も、自分を信じて、あきらめずに前だけを向いて歩き続けば、いつか道は開ける。どうかそれを信じて跳び立って行って下さい。達者でな。」とだけダミ声でのたまわって降壇していったのでした。

リーダーシップ論のリーダー

 私はこの高校を卒業した後に大学に進学し、経営組織論を学ぶことになります。
 組織論の大きなテーマは意思決定論とリーダーシップ論でしたが、私は意思決定論には関心を持ったものの、リーダーシップ論には全く関心を持てませんでした。
 当時のリーダーシップ論の小賢しさが鼻について仕方なかったのです。

 当時のリーダーシップ論がどのようなものであったのか、このコラムですでに書いておりますので(専門コラム「指揮官の決断」N.022 リーダーシップ論の変遷)、そちらを読んで頂ければ分かりますが、本質は今も変わっていません。

 学者の机上の論理が現実を何も説明していないことを大学生ですら理解できましたが、私には本当のリーダーというものがどうあるべきなのかが分かっていたからだと思います。

 一人一人について重大な関心を持ち、その一人一人を信じて、自分に付いてくるかけがえのない部下として対すればいいだけのことなのです。
 それが理屈ではなく、自然にできてしまうのが天性のリーダーであり、そのことの重要性を知って努力するのが立派なリーダーなのです。

私が出会ったリーダーたち

 大学を離れて海上自衛隊に入隊した私は、尊敬を集める指揮官が例外なくそのようなどちらかのタイプの指揮官たちであったことを知るのです。
 部下の一人一人に関心を持たない指揮官ですぐれた部隊を育成できる者はいないと確信を持ったのです。

 私はセミナーにお出でになる経営者の方々に、その従業員数をお尋ねすることがあります。そして、その従業員の名前を全て知っているかどうかを伺います。

 これまで40人以上の従業員を雇用している経営者で、自信を持ってYESと答えられた方はいません。
中には「うちは100人いるから、総員の名前までは・・・。」とおっしゃる経営者もおられました。

 私は拙著『事業大躍進に挑む経営者のためのクライシスマネジメント』の中で述べていますが、幹部に任官して最初に乗組んだ船に80人の部下がいたのですが、総員の氏名と顔を一致させたのを確認したのは着任から4日目の朝でした。

 夕食後の時間だけを使って一生懸命に覚えたのです。やる気さえあれば100人は1週間かからずに名前と顔を一致させることができるはずです。
 やる気がないだけです。私たちの江守バアチャンは毎年100名を超える新入生の個人個人をしっかり把握し、中学・高校の6年を過ごしたのちに卒業しても、覚えているのです。

50年経っても慕われるリーダー

 数年前、母校の創立50周年記念の祝賀行事が行われました。
 横浜の大きなホテルのバンケットルームに数百人の卒業生たちが集まり、盛大な祝賀会でした。
 久しぶりに同期生が集まり、話が盛り上がってしまっているので、司会者が来賓の挨拶だの祝電の披露だのと大声でわめいても誰も聞いていません。

 しかし、部屋の隅に置かれた大きなモニターに江守バアチャンの顔が映し出され、そのダミ声のスピーチが流されると、会場はたちどころに静まり返り、皆モニターを見つめています。

 私はその学校の3期生でしたが、還暦を迎えた1期から3期の卒業生たちは、涙腺が緩くなっていることもあり、ハンカチを取り出すものも出てくる始末でした。
 
 没後何年経ってもこのように慕われるというのは、経営者冥利に尽きるでしょう。
 これが天性の指揮官でなくて何なのでしょうか。
 リーダーシップ論の類型論や状況依存理論などが虚しく聞こえるのです。

 私は大学及び大学院で組織論を学び、リーダーシップ論に愛想を尽かして学窓を離れ海上自衛隊に入隊しました。
 防衛大学校で鍛えられて幹部候補生学校へやってきた同期生に比べ、大学院の研究室から着隊した私には訓練がとてつもなくきつかったのですが、私にはいつもこの江守バアチャンの言葉がありました。
 “Never, Never, Never Give Up”(決してあきらめてはならない)

 私のリーダーシップ論研究の原点にあるのがこの「江守バアチャン」なのです。