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専門コラム「指揮官の決断」

第96回 

No.096   海を恐れるな、畏れよ

カテゴリ:コラム

台風12号

 私は事情があって東伊豆へよく行きます。
 途中、国道135号線を使うのですが、熱海の海岸を抜けてすぐに海に面したリゾートホテルの横を通ります。小さな岬の突端に海に突き出たような形で造られたホテルです。
 先の12号台風で、このホテルが波の直撃を受けて、従業員及び宿泊客が軽傷を負うという事故が発生しました。

 この台風12号は極めて珍しいコースを辿って日本列島を縦断していきました。
 まず伊豆七島から関東地方のすぐ沖まで北上して針路を西に変え、紀伊半島に向かい、三重県に上陸後さらに西へ進むという通常の台風とは逆の進路を進みました。
 この台風は勢力もさることながら、日本列島の全般の潮位とのタイミングで大きな被害が出るであろうことが予想されていました。高潮とタイミングが重なったのです。

 このことは気象庁も早い段階から発表しており、ニュース等でも繰り返し放送され、警戒が呼びかけられていました。
 湘南においても直撃が予想されたため、昨年の台風で大きな被害を出した湘南港江の島のヨットハーバーなどでは大学のヨット部が早々に陸置きのヨットを退避させる措置などを取っていました。

 この中で国道135号線沿いにあるこのホテルの海に面したダイニングルームの窓が波に破られ、食事中の宿泊客や従業員が軽傷を負うという事故が発生したのです。

 このホテルは(あえてホテル名はひかえさせて頂きます。)熱海の海岸沿いにある有名なリゾートホテルです。かなり昔から営業がなされており、何度も改築・改装がなされ、熱海では人気のホテルの一つです。
 ダイニングルームはたしかに海を目の前にとてもムードのあるものであり、当日はここでバイキング形式の夕食が供されていたそうです。

 波がだんだん高くなったのに気が付いたダイニングルームの従業員が慌てて窓際のお客様を窓から離れた側に誘導したため、大きなけがにならなかったようですが、窓ガラスが木っ端微塵になって大変な騒ぎになりました。

 この従業員の機転が無かったら大変な事故が生じていたかもしれません。ニュースでは従業員の誘導のため大けがをした宿泊客はいなかったと伝えられました。
 その意味では「良くやった。」ということなのかもしれません。

 しかし私は支配人に一言申し上げなければなりません。

 「海を舐めるな。」と。 

 高潮の日に台風が来ているのに目の前が海のダイニングルームでバイクングの夕食を供するというこのホテルの支配人の感覚には唯々呆れ果ててしまいます。

 本来であれば、このようなホテルは危機管理全般が全くできていないはずなので名前を公表して皆様に利用しないようお薦めするべきなのでしょうが、私はこのコラムでは政治家と公務員及びマスコミには厳しい態度を取りますが、その他の私企業等についてはあえて実名などで取り上げることは避けています。
 しかし、このホテルの海を舐め切った態度には怒りさえ覚えます。

押し寄せてくる波の高さが一定だと思ったら大間違い

 台風で押し寄せてくる波は、防波堤を砕き、テトラポットなど大きな消波ブロックを跳ね上げるほどの強さを持っています。
 窓ガラスなどどんな硬質ガラスを使っていても木っ端みじんするのは造作もないのです。
 
 また海の波の高さは一定ではなく、突如信じられないほどの高さになることがあります。
 周期の異なる波が遠くから送られてくる場合、前の波に後ろの波が追い付いて、あるいは異方向から来る三角波が合成され、突如数倍の高さになるのです。数千回から数万回に一回、このようなとてつもなく大きな波が合成されることがあります。
 つまり、眼下の海で大きな波が立っていたら、それが自分のところにはまだ達しないと思っていても、次の瞬間にのみ込まれることは珍しくないのです。

 私はかつて2回、このようなとてつもない波を経験しています。
 
 一度はヨットで外洋を走っている時でした。

 波高7メートル程度の大時化の海を追い波で走っていたところ、突如後ろからくる波が倍の高さに盛り上がり、いきなりコントロールを失って横倒しにされてしまいました。
 この時はコックピットには私ともう一人のクルーしかおらず、両名共にハーネスを装着していたので海へ弾き飛ばされずに済み、艇内にいたクルーはパイプバースで寝ていたのですが、幸いに寝ていた側に横倒しになったので押さえつけられた格好になり、放り出されなかったので怪我をせずに済みました。

 もう一回は海上自衛隊の護衛艦でした。
 
 航海指揮官として艦橋で当直中、大時化で全ての訓練がキャンセルされ、波の穏やかな海面を求めて避退している最中でしたが、目の前で異方向から来た三角波が合成されてたちまちに巨大な波となって襲いかかってきました。
 
 必死になって直撃を回避するための操艦号令を次々に出していきましたが、間に合わず、船が完全に波の下に潜り込んでしまいました。
 海面に出てくるのに相当の時間がかかったように覚えていますが、艦橋の上に装備されていた前甲板監視用のカメラが吹き飛び、上甲板にあった無線のアンテナが何本も折れ曲がってしまいました。
 
 そこは三角波が立つことで船乗りに知られた海域ではありましたが、あれほど大きく合成されるのを初めて見ました。
 南米の最南端にある航海の難所のホーン岬では数万回に一回、波高30メートルになる波が立つことがあると本で読んだことがありますが、確かに恐ろしい高さになることがあります。

海を舐めるな

 何十年も海を目の前にして営業してきたこのホテルが、波がそのように変化することを知らずにきたというのであれば、その無神経な感覚を疑います。
 目の前で何が起きているのか何十年もまったく理解せずに営業を続けてきたということは正常な視神経か理解力が欠落しているのでしょう。
 
 そうでなくとも危険なので岸壁など海際には近寄らないようにと朝からニュース等で繰り返し警告が行われていたはずです。
 それをガラス板1枚の内側は大丈夫だという判断をすること自体が正気の沙汰とは思えません。
 このようなホテルは防火体制等全てを疑う必要があります。常識的な対応がなされていないおそれが十分です。
 
 海を題材に取った珠玉の随筆であるコンラッドの「海の想い出」は、多くのヨット乗りが愛読書としていますが、全編を通じて彼が船乗りとして暮らした日々の厳しかったけれど懐かしい思い出と海への畏怖の情が綴られています。
 この著者にヨット乗りが限りない共感を覚えるのは、彼が本当に海と船が好きで、かつそれを畏れているからです。

 熟練した船乗りは海に親しみ、畏れるのです。
 素人は海を畏れずに怖がります。

 海を怖がる必要はありません。しかし、畏れなくてはなりません。

 海を舐めてはならないのです。