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専門コラム「指揮官の決断」

第402回 

日本航空123便墜落事故の謎  その1

カテゴリ:危機管理

はじめに

ここ数年間、8月になるとムズムズしてくることがあり、それをどうしようか迷ってきました。

1985年8月12日に起きた日本航空123便の墜落事故です。

実は筆者はこの航空事故にある意味で関係していましたので、余計ムズムズするのです。

520名の死者を出し、日本の航空事故としては最大の犠牲者となり、単独機の事故としても最大の犠牲者を出した記録となりました。

この事故の事故調査報告書は翌年4月にまとめられ、原因は1978年6月に同機が大阪伊丹空港で起こしたしりもち事故後の機体尾部修理不良と設計上の欠陥であり、修理中に使用されたリベットの止め方が不適切であったことが指摘されています。

しかし、その後、同事故は様々な人々が疑いの眼を向けるようになり、特に日本航空のパーサーであった青山透子さんは、何人もの同僚を失ったことが納得できず、同事故を告発する書物を何冊も執筆されています。

また、それに触発されたのかどうか分かりませんが、YouTubeでもワタナベケンタロウという人が250本以上の動画を投稿して、この事故には隠された裏があると主張されています。

確かにボイスレコーダーのすべてが開示されているわけではなく、疑いの眼で見ると変だと感じるところも多い事故のようです。

この問題を弊社がその専門コラムで取り上げることに違和感を持たれる方もいらっしゃるかと思います。

知っていても知らなくてもどうでもいい内容を取り上げることを趣旨とする弊社配信のメールマガジンではなく、文責をもってアップしている専門コラムに掲載することにはそれなりの意味がありますが、それは回を追ってお分かりいただけるはずですし、最終回に、専門コラムとして記事を綴った理由を説明いたしますので、それまでお待ちください。

論 点

この事故が陰謀により起こされたとするこれらの説の主張は様々です。

青山透子さんも数冊ある著書で書いていくうちに主張が変わっていくところが多々あります。多分、執筆が進むにつれていろいろ事実にぶつかり、それらを総合的に判断して、新たな解釈をしていっているものと推測されます。

この青山さんの著書については、経済アナリストの森永卓郎さんが絶賛しています。

青山さんは、この事故を究明すべく、東京大学の大学院の新領域創成科学研究科という研究科博士課程を修了し、博士号を習得されたそうです。

したがって森永卓郎さんは、彼女の数々の書物は、しっかりとした学問的方法論に則って執筆されており、事実の検証もしっかりとされている信頼できるものであると絶賛しています。

その森永さんも同事故に釈然としないものがあって、真相が隠されていると主張する一人であり、最近は癌に侵されていることを公表し、余命を真相解明に捧げるとまで言い切っています。

この事故が陰謀であるということを裏付けるために、相当の数の証言が集まっており、また、様々な説明がつかない事象も指摘されています。

筆者はそれらを丹念に拾うつもりはありません。数多くの論点があるのですが、筆者のカバーできる範囲が限られているからです。筆者は航空工学に関しては全くの素人で、この航空機事故のそもそもの原因とされたものも理解することができないからです。

ただ、多くの方の議論の中で、筆者が自信を持ってコメントできるものについてのみ言及してまいります。

当コラムでコメントできること

この事故について様々な論点がある中で、筆者がこれからコメントしようとする論点を次に列挙していきます。

1 そもそもは、当日相模湾にいた海上自衛隊の護衛艦が、ミサイルを誤射して飛行中の日航機に命中させ、日航機がコントロール不能になった。

ただし、この説も時が経つにつれて変わっていき、日本海側で行った防衛庁(当時)の対空ミサイルの実験がうまくいったので、今度は実機をターゲットにして撃ちたいと考えた自衛隊が日航機を狙った、となっている本もあります。

2 米軍輸送機が現場を確認したが、帰投を命ぜられ、その乗員には見たことは一切他言しないことを命ぜられた。

3 厚木の海兵隊のヘリが海兵隊員を載せて現場へ急行し、上空から降下する直前まで行ったが、日本国政府の要請により作業を取りやめて帰投した。

4 陸上自衛隊が救助隊が到着する以前に火炎放射器で事故現場にいた生存者を含む遭難者を焼き払った。

5 低空で飛ぶJAL機と追随するファントム機を近くの小学生等が多数目撃している。

 これらの論点について、筆者の経験や知識の中からコメントを加えていきます。

 本稿の最初の方で、「実は筆者はこの航空事故にある意味で関係していました。」という微妙な表現をしていますが、その意味を説明させていただきます。

 

当時筆者は現役の海上自衛官でした。1982年に入隊し、幹部候補生学校で1年間の教育訓練を受け、1983年に幹部自衛官に任官、遠洋航海や航空部隊での実習を経て、最初は護衛艦の機関士として勤務し、この日航機の事故があった年は、横須賀を母港とする小さな護衛艦の通信士として勤務していました。

護衛艦の通信士という配置は、商船や漁船の通信士とは仕事が異なります。

護衛艦の通信士とは、通信業務に関しての取りまとめを行い、通信関係員(電信員や暗号員等)の監督を行うことも所掌範囲ですが、主な任務は艦橋の航海士です。航海長を補佐し、航泊日誌の整備に責任を持ちます。戦闘配置は艦橋で、航海指揮官の補佐を行います。

この事故が起きた日、私の乗った船は伊豆七島沿いに北上していました。防衛大学校の2年生の海上要員の洋上実習で横須賀を出港し、途中で彼らを下ろして横須賀に戻る途中でした。

夕方、日没を過ぎて、あたりも暗くなっていた頃、多分19時頃だったと記憶しますが、艦橋にいた筆者を部下の電信員長が呼びに来ました。

電信室の中に入ると、ヘッドセットを渡されました。

「米空軍のネットですが、何か妙なことを言っているようなんですが、英語を聞き取ってもらえませんか?」というのです。

聞いてみると、在日米空軍の空域管制官が付近を飛行中の米空軍機に呼び掛けているのです。

内容は、「日本航空機がロストポジション(機位不明)になった。付近飛行中の米空軍機は、発見したら報告するように。」というもので、それを繰り返し繰り返し流していました。

筆者は、日本航空の旅客機が自分が飛んでいる位置が分からなくなるというのはどういうことなのかと訝しく思いました。

ちょっと考えて、これは自分の機位が分からなくなったということではなく、地上の管制でその航空機の位置が分からなくなったという意味ではないのかと考え直しました。

ただ、この場合、Lost Positionという表現を使うのは普通ではありません。この表現は自分の位置が分からなくなった場合の表現で、レーダーで目標を見失った場合にはLost Contactと言うのが普通だからです。後年、米国で飛行訓練を受けているときに、レーダーが機影を見失ったことをLost Echoと表現することもあることを知りましたが、Lost Positionというのは、自分の位置が分からないときの表現です。

なので、ちょっと管制英語が変だなと思いながら聴いていました。

筆者の立場

筆者は通信士として乗組んでいたので、戦闘配置に就くときや出入港や狭水道通峡の時などには艦橋が勤務場所となります。

もし近くに旅客機が墜落して、海上自衛隊に災害派遣が命ぜられた場合、出動を命ぜられた船は「航空救難部署」を発動することになります。

これは自衛隊の作戦機が墜落したりした場合に救助するための部署です。

ちなみに「部署」というのは分かりやすく説明すると「配置」のことです。

部署標準という規定があり、どのような作業をするときには、誰がどこの配置に就き、どのような業務をすべきかが決まっています。

この航空救難部署では通信士の配置は艦橋で、艦長や航海長の補佐をすることになっています。

そこで、海上自衛隊に災害派遣が命ぜられ、筆者が乗っている船に災害派遣命令が下された場合に行わなければならない作業を調べ始めました。

筆者が乗っていた船には隊司令も乗艦していたので、司令護衛艦としての任務もあります。

付近航行中の海上自衛隊の艦艇をチェックしましたが、筆者が乗る船が所属する第33護衛隊の三隻しかおらず、もし日本航空機が最後に位置を確認されたという大島上空から左旋回して三宅島方面に向かっているとすれば、その三隻で航空救難を行うことになります。自動的に乗艦中の第33護衛隊司令が航空救難指揮官となります。

航空救難指揮官として様々な報告などを行わねばならず、そのフォーマットはどうなっているのかをチェックしなければならなかったのです。

同時に、艦長に報告し、艦長の指示で、司令に艦橋にお出で頂くように言われたので、その旨を隊付き(副官)に連絡しました。

すぐに、艦長、司令が艦橋に上がってきて、航空救難がいつ命令されてもいいように準備することを申し合わせました。

筆者は幹部候補生の時に婚約し、任官して最初に艦隊勤務になったときに結婚していました。彼女は小学校の同級生でしたが、結婚当時日本航空の社員として羽田空港で勤務していました。

1982年の日本航空350便が羽田空港沖に墜落した事故では、羽田支店長秘書として大変な思いをしたそうですが、この年の前年、結婚を機に退職していましたので、「今回は大変な目には合わなくて済みそうだね。一方で、俺の方は大変な作業が始まるかもしれないよ。」と思ったりしていました。

その後、艦橋での当直勤務が終わった後も、筆者は電信室に留まり、情報の収集と災害派遣命令の下達に備えていました。

防衛庁としても事故機の所在が分からず、災害派遣命令をどの自衛隊に出していいのか分からずにいたようです。

米軍のネットは午後8時頃までモニターしていましたが、その後は国内のネットに切り替え、他艦との情報交換や横須賀地方総監部との連絡などに当たっていました。

そのうち、遭難機の乗客名簿に坂本九さんの名前があることなどが報道で伝えられていることを電信室で民放ラジオをモニターしていた乗員が報告に来ました。

筆者はそのまま電信室に筆者が持ち込んでいたサマーベッドで居眠りをしてしまい、朝5時ちょっと前、日出時に電信員長に声を掛けられ、「日航機は群馬県の山に墜落しているそうです。」と報告を受けました。

それを艦長と司令に報告するとともに、副長から航空救難部署の待機態勢を解除してもらいました。

これが、日航123便の事故があった日の筆者の行動であり、少なからず関係していたという意味をご理解いただけるかと存じます。

ただ、その日の筆者の行動が上述のようなものであったがため、この事故を巡ってネットをにぎわせている様々な説について、ある部分に関してははっきりと申し上げることができるようになってもいます。

今後、数回にわたり、それらについて説明してまいります。

(写真:日本航空)