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専門コラム「指揮官の決断」

第36回 

No.036 危機を機会に

カテゴリ:コラム

ある吹奏楽団のお話

 
 私はクライシスマネジメントを専門としていますが、このクライシスマネジメントは危機を機会に転じて事業を躍進させることのできる体質に変えていくことにより達成されるマネジメントです。
 それは強い軍隊が敵の奇襲を受けてもこれを跳ね返し、返す刀で退却する敵を殲滅してしまうように、日ごろから基礎体力を錬成し、危機に強い体質を作り上げておき、危機に臨んでは踏みつぶされるのではなく踏み止まり、そして総力を持って反撃に転じ、機会を掴んでいくマネジメントです。

 危機を機会に変えていった事例はたくさんあります。その一つをご紹介します。

 大阪にオオサカ・シオン・ウィンド・オーケストラ(旧:大阪市音楽団)という交響吹奏楽団があります。
 大阪市の吹奏楽団として、全国でも珍しい自治体が経営する吹奏楽団だったのですが、最近、大阪市の行政改革のため民間の社団法人となりました。
 
 団員は大阪市教育委員会に属する職員という身分だったので、演奏活動だけでなく、市内の公立中・高等学校の吹奏楽部への演奏指導などを行っていました。

 初夏から夏の終わりまで、大阪城公園にある野外音楽堂で入場料無料で開催される「たそがれコンサート」は、中学高校の吹奏楽部の演奏を第一部に、警察、自衛隊の音楽隊などプロのゲストを第二部に招いたコンサートで、大阪の夏の風物詩として市民に親しまれてきました。
 
 要するに、団員は地方公務員として、採算ベースよりも、自分たちの芸術性の追求と吹奏楽の普及に力を注いでくることができたのです。
 ところが、民営化されたため、食い扶持を自分たちで稼がなくてはならなくなってしまったのです。
 これは音楽団を襲った危機管理上の事態と言えます。
 
 実はこのオオサカ・シオン・ウィンド・オーケストラは90年の歴史を持つ世界的にも伝統ある吹奏楽団で、大阪で編成されていた陸軍第4師団軍楽隊を母体として発足したものです。
 
 陸軍第4師団軍楽隊は陸軍軍楽隊の中でも実力のある軍楽隊であり、シベリア出兵の際にも派遣軍楽隊として動員され、長期間にわたり大陸で演奏活動を行っていました。
 この派遣軍楽隊を率いていた陸軍軍楽隊士林亘(はやし わたる)は、かつて陸軍がヨーロッパに送った最初の軍楽隊留学生の一員で、イギリスでクラリネットを勉強してきた人物で、当時の日本のトップクラスのクラリネット演奏者だったと言われます。
 
 林亘は、このイギリス留学中、週末の地方都市の大きな公園にあるパーゴラで演奏する楽団を市民がんで楽しんでいる光景が忘れられなかったようです。
 
 帰国した林亘は第4師団軍楽隊で極力野外演奏を行いました。
 もともと軍楽隊はマーチングバンドとして屋外での演奏活動は珍しくないのですが、林亘は、軍楽隊の練習を意識的に天王寺公園に出て行い、市民に見てもらうという工夫をして、市民が吹奏楽に親しめるよういろいろな手を打っていたようです。
 このため、第4師団軍楽隊は市民に親しまれる軍楽隊として名を知られるようになっていました。
 
 第1次大戦後、軍縮のため各師団軍楽隊の整理統合が図られ、第4師団軍楽隊は解散となり、林亘は中央軍楽隊であった陸軍外山学校軍楽隊へ戻るよう指示を受けました。
 しかし林亘は職を失う軍楽隊員の生活を考え、また、市民から楽団存続を望む声などが出てきたこともあり、陸軍を退職する決意を固め、部下を取りまとめ、吹奏楽団を作ることを決意しました。
 そして大阪市と第4師団に掛け合い、双方から一定の支援をしてもらい大阪市音楽隊という、いわば第三セクターの吹奏楽団を発足させたのです。
 この辺りは芸術家や軍人と言うよりもビジネスマンの感覚が豊かだったようです。

 それでも発足直後の大阪市音楽隊はさすがに経営困難な状態が続きました。
 お金持ちの結婚式で演奏するなど相当な苦労を重ねたとのことですが、市民に親しまれる演奏活動を続けた結果、市が全面的に支援することとなり、日本初の自治体オーケストラとなり、名称も大阪市音楽団となりました。

 この大阪市音楽団には、ブルックナーのシンフォニーに関して世界的な権威であった朝比奈隆氏やNHK交響楽団の常任指揮者を長く務めた森正氏などが、学生時代に頻繁に出入りして林亘の指導を受けるなど大きな影響を受けています。

 林亘の野外演奏へのこだわりのため、大阪市は天王寺公園の一角に野外音楽堂を建設し、昭和50年代まで入場料無料の「たそがれコンサート」が開催されていました。
 この音楽堂の老朽化に伴い現在の大阪城公園に移りましたが、初心を忘れずこちらも野外音楽堂となり「たそがれコンサート」は続きました。
 

危機は機会に変わるのか?

 大阪市音楽団は民営化によって大変な危機に直面しました。

 しかし、なぜこの大阪市音楽団の危機が機会と言えるのでしょうか。
 
 最初に大阪市音楽隊ができたのは、陸軍が軍縮で第4師団軍楽隊の解散を決定したからです。
 それは第4師団軍楽隊員にとっては文字通りの危機でした。
 林亘は陸軍を退職して楽団を作ることを決意しました。
 彼の夢は市民が気軽に音楽を楽しめる環境を作り、クラシック音楽を普及させることでしたので、その理想を求めた選択でした。

 当初は経営難に苦しみましたが、大阪市の支援を受けて市の組織に組み込まれることになりました。
 
 これがその後に彼らを襲った本当の危機から彼らを救うことになりました。

太平洋戦争の敗戦後も大阪市音楽団として存続することができたのです。
 
 もし陸軍軍楽隊のままであったならば、敗戦による陸軍の解体で軍楽隊もなくなってしまったはずです。

 林亘が危機を機会に変えようと考えていたとは思われません。
 団員を食べさせていくために必死だったはずです。

しかし、軍楽隊が解散されるまでに市民に親しまれる活動をしっかりしていたことが市民から存続を望まれる結果を生み、それが敗戦によって軍隊が解散されても生き残ることができる大阪市音楽団を誕生させていたのです。

クライシスマネジメントは、まず危機に陥りにくい体質を作ることから始めるのですが、この大阪市音楽隊はまさにそれを行った例です。
市民から厚い信頼と支持を得ていたことがその存続を可能としたのです。

危機管理は専門の部門を設置して行うものではなく、また、それが危機管理に関する業務であると直接認識されるようなものでもなく、何気ない日常の小さなことを積み重ねていくことによりなされるものなのです。

林亘がやってきたことがそれを証明しています。
彼はただ市民に愛される音楽団を目指していただけなのですが、それが母体である陸軍が無くなってしまった後にも存続できる吹奏楽団を作ったのです。
 
 オオサカ・シオン・ウィンド・オーケストラは今新たな試練を迎えています。
 民営化されて社団法人となり、独立採算を余儀なくされています。
 しかし、ある意味でこれは大きな発展のチャンスです。
 これまで楽団員は市の職員であり、その活動は一定の枠の中で行われていました。
 団員の給料も市の規定によって定まっていました。
 しかし、民営化され、様々な可能性にチャレンジすることができるようになったはずです。 
 危機を機会に変えることができるのです。

 彼らの先人たちが90年前に決断した結果70年前のあの敗戦を乗り越えることができたことに思いを致し、新たな音楽団として飛躍して行ってくれることを願っています。
彼らが彼らの危機を見事に機会に変えてくれれば、多くの人々に勇気を与えられると信じています。

ちなみに、林亘は私の祖父であり、私が生まれる前に没しておりますので会ったことはありませんが、彼が夢見た事業が90年後も脈々と受け継がれていることに感謝する一方、困難に直面している現在、危機管理のコンサルタントとしても何とか応援していきたいと思っています。

オオサカ・シオン・ウィンド・オーケストラウェブサイトはこちら
http://shion.jp/

YouTube動画はこちら

当コラムは2017年6月7日に掲載したものを2018年3月18日に加筆修文したものです。