専門コラム「指揮官の決断」
第345回何も考えない人々 その2
やはり何も考えていない
前回、この社会では何も考えずに時流に乗っているだけの人が多すぎるということを申し上げておきました。付言すれば個人だけでなく、組織も何も考えていないことが目立ちます。
私たちの社会の感性が劣化しているのでないでしょうか。
ネット上で乱舞している日本は素晴らしい国だという意見は、日本の治安の良さ、街のゴミの少なさ、タクシーで忘れ物をしたり、路上で財布を落としたりしても戻って来る日本人の正直さ、おもてなしが一流であることなどが外国から称賛されているというものがほとんどで、比較論として中国の街のゴミの散乱状況、公共機関において整然と並んで待つということができない国民性などをあげつらって優越感に浸っているものが圧倒的です。
本当にそれらの称賛の声が海外のネット上にあふれているのかどうかは承知していませんが、筆者の知る米国人や英国人、オーストラリア人などは確かに日本をほめちぎる人が多いところを見ると、いくらかは的を得ているのかもしれません。
しかし、筆者に言わせれば、他人の気持ちを推し量ることに長けているはずの日本で、どうしてこうも無神経なことを延々と続けられるのかと疑問に思うことがあります。
筆者は私たち日本人の感情が劣化しているということではないかと疑っています。
繰り返しますが、当コラムはこの問題について社会学的な分析をするのではなく、現象面から傾向を捉えようとしています。
某家電量販店のCMでおなじみの曲は・・・
例えば、某有名家電量販店で流されているCMソングです。
この店はここ数十年間『リパブリック賛歌』の替え歌を使っています。
店に行かずともテレビで一日に何回も流されています。
この曲が本国の米国でどう扱われているかの配慮はまったくありません。
元々この曲は南北戦争時の北軍の非公式な行進曲として歌われていたものですが、戦後南北戦争に勝利した北軍の軍歌となったものです。さらに第2次大戦においても歌い継がれ、公民権運動においても盛んに歌われていました。
1972年、エイルヴィス・プレスリーが北軍の『リパブリック賛歌』と南軍の『ディキシー』をメドレーとして『アメリカの祈り』という曲にまとめ、愛国歌、賛歌としての地位が確立しました。
音楽には曲ごとに心象風景があります。米国人にとっての『リパブリック賛歌』の心象風景がどういうものであるのかについては以前にご紹介しましたが、その後の読者のために改めて紹介させて頂きます。
戦死者の柩が運ばれる際に演奏されることもあります。
そのような曲を替え歌にしてエンドレスで流し続けるこの会社の感覚を疑います。
替え歌にしても良い場合があり、次のような替え歌は米国でも歌い継がれています。
これは陸軍の空挺部隊の軍歌であり、敵前に落下傘降下をする凄まじく死傷率の高い部隊の隊員によって歌い継がれているものです。苦しい戦いに生き残った者の想いを歌う場合にのみこの替え歌は受け入れられています。
ラッパ吹きなら一度は挑戦したい曲は・・・
この曲ばかりではありません。
テレビではいろいろなシーンにおいて、エルガーの『威風堂々』の中のある旋律が流されます。この曲はイギリスの作曲家エドワード・エルガーが作曲した管弦楽のための行進曲集に収録されているものですが、日本ではその第1番あるいはその中間部の旋律が使われることが多いようです。
本場英国でもこの旋律は大人気で、毎年夏に行われるBBCプロムナード・コンサートでも最終夜のフィナーレに演奏されます。英国ではこの組曲の第1番に合唱が付けられ、『希望と栄光の国』 (Land of Hope and Glory )と呼ばれていますが、英国の第2の国歌、イギリス愛国歌と称されています。
この曲が英国でどのように扱われているのかが分かる動画があります。
愛国的な感情が爆発しているようです。
バラエティ番組などで軽々しく扱っていい曲かどうかお分かりいただけるかと存じます。
これがプロトコールの問題
先に、この国の首相は国旗よりも上位に座って平気な顔をしていると述べたことがありますが、ほとほと左様にこの国では国旗や国歌とどう向き合うべきなのかの教育がなされていません。
かつて筆者が現役の海上自衛官の頃、新入隊員を教育する部隊の指揮官として京都府の舞鶴で勤務した時、地元高校の水泳強化選手の合宿の支援をしたことがあります。
国の施設を使わせるについては公共目的であっても施設の目的に合った正当な理由がないと違法なのですが、筆者は依頼を受け、体験入隊の枠組みならということで了承しました。自衛隊の日常生活を経験し、連日、様々な担当者により日本の防衛に関するいろいろな話を聞くという条件なら、将来の入隊希望者のための防衛広報という位置付けになるからです。
彼らが合宿を始めた次の朝、部隊の課業整列を見学させるために部隊が整列しているグランドの片隅で見学をさせました。
課業整列とは毎朝部隊で行われる儀式で、指揮官に対する朝の挨拶、国旗掲揚、分隊ごとの示達事項の示達などが行われ、最後に行進曲に合わせて講堂に向って行進していきます。
儀式が始るまで高校生とその引率の先生方はグランドで体育座りをして待っていました。
筆者はいつものように当直士官が司令室に来て国旗掲揚5分前を報告したのを受けてグランドに出て、台の上に上がり、全員の敬礼を受けてから、国旗掲揚塔のそばへ移動しました。グランドの端に高校生たちが座っているのが見えました。
驚いたのは、総員が国旗掲揚塔に正対し、「10秒前」の号令にしたがって気を付けの姿勢になり、午前8時ちょうどに国歌が流れて司令以下総員が国旗に敬礼しているにも関わらず、高校生たちは体育座りのままなのです。先生方も同様でした。
普段は国旗が掲揚された後に司令は庁舎に戻るのですが、この時筆者はそのままグランドを横切って先生方に近付き、「あなた方は昨日、私に国際社会に通用する選手を育てたいと言いましたよね。何ですかこれは!」と大声を出しました。しかし先生方は筆者が何を怒っているのか理解できないようでした。
そこで、「国歌が演奏され、国旗が掲揚塔に掲げられていく儀式を全員が敬礼をもって見守っているのに、教師が率先して体育座りをしたまま見ているというようなことで国際社会でまともに扱われるわけがないのが分からないんですか。水泳のタイム以前の問題ですよ。」と言ったところで初めて理解できたようでした。
その日、筆者が激怒したことを聞いた京都府の高校水泳連盟の理事長が舞鶴に現れ、謝罪やら言い訳やらをして帰りましたが、高校の教員などはそのレベルです。
首相が国旗にどう向かっていいのか知らない国ですから、高校の先生方を責めることもできないのかもしれませんが、この国では国旗や国歌にどう向かっていいのかが教育されておらず、むしろそれを教育することは良くないことであるとされてきた期間が長すぎたようです。
したがって、他の国の人々の愛国感情などを理解することができず、その象徴となるような曲を平気で替え歌にしてエンドレスで流し続けたり、バラエティ番組に使ったりします。
「海ゆかば」という曲があります。戦前は第二の国歌のように扱われ、軍隊では様々な儀式において演奏されました。
万葉集の大伴家持の長歌から詞が採用されているのですが、戦後は自衛隊でも殉職隊員の葬送式や慰霊式典などにおいて演奏されています。
もし韓国や中国でこの曲の替え歌が作られてスーパーマーケットのコマーシャルソングなど使われたとしたら、筆者は反日的な意図を嗅ぎ取ります。
訪日の外国人の中にも米国人はたくさんいるはずですが、よく秋葉原の駅で聞こえる「リパブリック賛歌」に我慢しているなと思っています。
危機管理ができない国民性が生まれる
国民がことの本質を深く考える習慣を失ってしまった国はいずれ亡びていきます。自分たちが取るべき途についての判断ができないからです。
そこまで深刻でなくとも、そのような国家には危機管理ができません。
危機管理上の事態においては、ほとんど得られない情報から起きている事態の本質を見極め、次々に最善の対策を取り続けなければなりません。
本質を見抜き、考える習慣のない国民は付和雷同するだけであり、流言に惑わされ、風評に怯え、速やかな対応が取れないことは3年間にわたるコロナ禍を見れば明らかです。
テレビでコメントを続けてきた感染症の専門家たちやメディアが騒ぎ立てていることが事実かどうかは、ちょっと現実を観察すればすぐに分かります。
にもかかわらず、私たちの社会は見事に彼らの垂れ流す視聴率稼ぎのための情報に惑わされ、島国という絶好の地理的条件や世界最高水準の医療組織を生かすことができずに3年間という貴重な年月を無為に過ごしてしまいました。その結果、G7各国が経済的な復興を見せているにも関わらず、この国は最低の成長率に甘んじています。
自分の頭でものを考えないということの帰結です。