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専門コラム「指揮官の決断」

第72回 

No.072  船乗りの訓え:セーターをもう一枚

カテゴリ:コラム

 ロビン・ノックス・ジョンストンという英国人がいます。
 
 私にとっては神様のような存在です。
 
 彼は1939年生まれの元商船乗りですが、1969年にスハイリ号という全長31フィート(9.3m)の木造のケッチ(2本マストのヨット)で無寄港単独世界一周を初めて成し遂げました。
 その航海記は『スハイリ号の孤独な冒険』(草思社刊)として発表され、全寮制の中高等学校で寮生活をしていた私は食い入るように何度も読み返していました。
 両親が遠隔地にいたため週末にも帰宅できず、クラブの自主トレをしたり、当時300円で3本の映画を観ることのできる名画座に行ったりする週末でしたが、暇を見つけるとベッドにひっくり返ってこの本を読むのが週末の楽しみでした。

 この航海記の翻訳は数々の海洋文学の翻訳を手掛けられた高橋泰邦氏ですが、それでもご自分が船乗りではないためか船乗り独特の表現をご存じなく、かなり妙な誤訳があります。
 この語訳について書いていると今回のコラムが終わってしまうのでまた別の機会にしたいと思いますが、海事用語は英語の専門家でも分かっていないことがあり、大学時代、英文学の教授に教えてあげたこともありました。
 
 専門用語の誤訳はよくあることで、ハリソン・フォードが主演したトム・クランシー原作の『今そこにある危機』も、原題は“Clear and present danger” ですから、その映画のストーリーから考えても『明白かつ現在の危機』と訳すのが本当だと思います。
 ”Clear and present danger” は法律用語で正当防衛の根拠となる要件です。
 
 今回のコラムは英語の問題を扱っているのではありませんが、この私の愛読書である航海記の中に、英国の船乗りの心掛けがいろいろと出てきて、それが私の専門とする危機管理の本質を突いたものがありますので、その中の一つを紹介しようと思っています。
 
 それが本コラムのタイトルとなっている「セーターをもう一枚」です。
 
 ヨット乗りは出航の前夜、身支度をする際に明日からの航海がどのようなものになるのかを考えます。特に寒い冬の航海では体温をどうやって保つのかが生死にかかわる重要な要素になります。
 
 古くからの航海の心得で「セーターは十分と思われる数に一枚加えよ」というものがあり、ロビン・ノックス・ジョンストンもその著書の中にその訓えに触れています。
 
 私はこの訓えの忠実な実行者なのでどうしても荷物が大きくなりがちです。
 
 一方、息子が海外旅行に出る時など、びっくりするほど荷物が小さいのでいつも感心していますが、多分、これまで大きなハプニングに出くわさなかったので無事なのでしょう。
 ただし、場数が増え、様々な局面を迎えなければならない事態を何度も経験すると、そう簡単に考えることもできなくなるでしょう。

 私は日常でも鞄に必要最小限と思われるものにプラスアルファのものを入れて歩いています。
 
 スマートフォン充電用のバッテリー、テレホンカード(東日本大震災では携帯電話が全く使えない時間が何時間もありましたが、公衆電話はテレホンカード専用のものが多くなっています。)、予備のクレジットカードと財布などは常時鞄に放り込んでありますし、ちょっと遠距離に出る際には高カロリーのキャンディやペットボトルの水、予備のハンカチを持ち歩いています。水やハンカチは傷の手当にも使うことができるからです。

 旅支度の際には、いかに荷物を軽くするかで悩むのですが、しかし、常に「セーターをもう一枚」と自分に言い聞かせ、万が一に備えています。危機管理を専門とする者が、万が一の場合に狼狽えることは許されないからです。
 
 この「セーターをもう一枚」という古くからの船乗りの訓えは、具体的に何かの予備を持って行けということではなく、そういう着意を持って計画し、行動せよという指針として捉えるべきでしょう。
 
 かつてペンシルバニアの海軍基地に駐在していた頃、私は連絡官だったのですが同じ部隊にイギリスとオーストラリアの海軍士官がNATOの交流プログラムの一環として勤務していました。彼らとの付き合いで英国や英連邦に所属する海軍軍人の考え方を理解することができるようになったのですが、ある時、英海軍の少佐とあるプロジェクトを進めている際に、彼の準備がかなり念入りだったので、「セーターをもう一枚ということだね?」と言ったところ、鮮やかなクイーンズイングリッシュで“Yup”と返ってきたので、やはりこれが彼らの訓えになっていたことが分かった次第です。

 何らかの計画を立てたりする際、私の念頭にいつもあるのは「セーターは十分か?」という問いかけになっています。
 そして、この問いかけは危機に陥ることを未然に防ぐという観点から極めて重要な問いかけです。
 
 「十分な配慮や準備を行え」という月並みな訓えではありません。
 
 もともと船乗りは用心深いのです。
 その用心深い船乗りが、次の航海ではどのような天候が予想されるのかを十分に考えて準備した衣類にさらに一枚加えよと言っているのです。
 つまり、どのように周到に準備しても予期せぬことが起こり得る、その予期せぬ事態に対してもしっかりと対応できる準備をしておけ、という意味なのです。

 「セーターをもう一枚」という船乗りの合言葉は、ある意味で危機管理の本質をついているかもしれません。
 
 本来の危機管理は、予期し得ない事態に対応することが使命です。

 リスクマネジメントはあらかじめリスクを評価して対応を準備しますが、クライシスマネジメントは予期し得ない事態が生じた場合が正念場となるマネジメントです。

 その予期し得ない事態に毅然と対応するための心構えが「セーターをもう一枚」なのです。