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専門コラム「指揮官の決断」 

No.075 論理矛盾

メディアは人権をどう捉えているのか

 新聞の社会面を読んでいると犯罪の記事が目に入ってきます。
 いつも気になるのが、犯罪を犯した容疑者の氏名と所属が書かれていることが多いことです。
 
 また、会社員の場合、有名な会社であればその会社名が書かれます。
 贈収賄のように職務に関連して行われた犯罪であればともかく、まったくその会社の業務と関係のない犯罪が、しかも休日に行われた場合であっても報道されることがよくあります。
 
 あたかも会社の監督責任をメディアが追及しているように見えます。
 
 しかも、有名でない会社の場合はただ「会社員」と書かれるだけです。
 有名であるのかないのかによって会社の監督責任が変わるのでしょうか。

 これは大学生の場合も同様です。
 かつて某有名大学のサークルで新入生の女性が暴行された事件ではかなりの期間にわたってその大学の名前が新聞や雑誌を賑わせました。
 あたかも大学の教育がなっていないと言わんばかりでした。
 社会的に非難が集まったために、大学の学長が記者会見を開いて謝罪などをしていました。

 メディアは人権をどのように捉えているのでしょうか。

 犯罪者は有罪が確定するまで罪人ではありません。無罪の推定が働きます。
 しかも裁判の結果、誤認逮捕であったり、実は犯罪要件を構成せずに無罪となる場合もありますが、その際に新聞に訂正記事が出ることはほとんどありません。
 つまり、その場合、実名を公表された人の名誉は傷つけられたままです。

 マスコミは巧妙に逃げ口を作っています。
 「容疑者」という表現をしており、犯罪者と決めつけているのではないのです。
 
 私は実名を報道するなと主張しているわけではありません。
 裁判で有罪が確定し、無罪の推定が効かなくなってからではニュースとしての価値がないので、容疑者として報道されるのは必要なことでしょう。

 しかし、業務と無関係に行われた犯罪に際して勤務先の会社名が報道されるということはどう説明されるのでしょうか。

 メディアは「責任」と「権限」の関係を理解しているとは思えません。
   
 会社に社員のプライバシーに渡る事項について干渉する権限があるのであれば、メディアの報道姿勢は過ちではないでしょう。
 
 しかし、昭和の時代ならともかく、現代の企業にそのような権限があるはずがありません。
 上司が部下の女性の住所を聞いただけでセクハラ騒動が起こるのです。
 住んでいるところすら分からずに個人の生活指導など出来るはずはありません。

 つまり、メディアは権限のない者に責任を問うているのです。
 そうでなければ「あの有名企業が実は・・・」という興味本位の報道をしているのにすぎません。

 私は当コラムで政治家や公務員について実名を挙げて論評することがあります。
 それは彼らの権限や責任において行われたことについて述べており、かつ、公的な立場だからです。
 公務員は、その立場上、私的な行為においてもその身分を意識しなければならず、したがって、公務ではない犯罪についてもその身分が公表されても仕方がないでしょう。
 警察官が休みの日に破廉恥行為をしたりした場合、上司が記者会見で謝罪するのはある意味で理が通っています。
 私などが何か仕出かせば、「元自衛官が・・・」と報道されるのはほぼ間違いありません。それは仕方がないかもしれません。

 しかし、一般の社会人や大学生にその論理を適用し、勤務先や所属の大学名を公表することが正しいとは思えないのです。

 会社や大学に個人のプライバシーに干渉する権限を与えずに、それらと無縁のところで行われた犯罪について非難するのであれば、会社や大学は個人のプライバシーに干渉せざるを得なくなります。
 
 メディアは、そのような社会を創り出そうとしているようです。
 
 彼らの人権に対する感覚を疑いたくなります。
 
 

政治家・評論家の論理矛盾

 一方で最近の改憲議論にも論理矛盾があるのが気になります。
 私自身はこの国の民主主義を信じていないので、憲法改正には慎重な立場を取っていますが、改憲反対論者の論理矛盾が気にかかっています。

 第9条が示す平和憲法を守ってきたから日本は平和に繁栄してくることができたという論理にはどう考えても賛成できません。
 現実問題としては日米同盟があったことを考えなければ議論が成立せず、しかし、それを言い始めると立場の違いによって収集がつかない議論になってしまうのですが、論理矛盾と言う点から申し上げれば次のとおりです。

 もし憲法が自衛隊を違憲とし、一切の戦力及び交戦権を否認することによって平和が守られるのであれば、憲法に地震や津波、火山の噴火は我が国に起きてはならないと書けばいいのです。
 
 この議論がバカバカしいのと同じくらい、第9条によって平和が保たれたという議論はバカバカしいほど論理が矛盾しています。

 私は、かつての福島原発へ陸上自衛隊のヘリが散水を行うに際し、その決断を自分の責任で行ったのではなく、「私と首相の思いを汲んで、統幕長が決断してくれた。」と述べた防衛大臣を許すことができません。
 政治主導を掲げて乗り込んできておいてそれを放棄したのみならず、シビリアンコントロールまで放棄した大臣です。

 その後任の大臣は南スーダンへのPKO派遣に際し、緊急時の撤収計画を「表紙は見たが、読んでいない。」と答弁し、討論番組で武器使用基準と武器輸出三原則を何度言われても取り違えて発言するなどの無能ぶりを発揮しました。
 
 このような防衛大臣を生み出したこの国の民主主義を信じていないので、安易な9条改正には慎重なのです。
 このレベルの防衛大臣や首相に、我が国の安全保障が委ねられると考えただけでも身震いがする思いなのです。

 このレベルになると、すでに論理矛盾というような話ではなく、常識の問題とか政治家として資質の問題なのですが、現実にそのような政権が誕生したことがある以上、憲法に地震や火山噴火は起こってはならないと書けばいいという議論が生まれないとは限らないと疑うほど、この国の民主主義が信じられないのです。

何故、論理の矛盾を問題視するのか

 私が論理に拘るのには理由があります。
 これを失うと一貫性が無くなるからです。
 危機管理上の事態のような緊急事態であっても、というよりもそうであればなおさら、論理的一貫性や整合性がある決断がなされなければなりません。

 すべてにおいて人の「感情」を無視してはならないのですが、それでも論理的整合性や一貫性は守らなければなりません。

 それ無しには合理的選択ができないからです。

 合理的意思決定のためには、常に与えられた使命に対する論理的整合性が図られなければなりません。それなしに合理的決定はなされず、なされた決定は「支離滅裂」と評価されるものになります。

 徹底した論理的一貫性が必要なのです。

 危急時に次々に適切な決断をしていくためには、強いメンタリティが必要な訳ではありません。
 ただ単に、徹底して矛盾のない論理的一貫性を貫くことができるかどうかにかかっています。

 あらゆる決断が、論理的に一貫していれば、それはその場における最善の選択となるはずです。

 それが常に成功するとは限りません。「運」というものがあるからです。

 しかし、座して「運」に頼るというのはトップの姿勢ではありません。

 自分の考えや行動が論理的整合性のあるものか、一貫したポリシーに貫かれているのかなどを折に触れて顧みることが大切です。