専門コラム「指揮官の決断」
第80回No.080 守るべき伝統と変えるべき伝統
相撲道の伝統とは
大相撲春の巡業中、舞鶴場所で土俵上で挨拶中に倒れた舞鶴市長の救急救命のため土俵に駆け上がった救命士の女性に対して、相撲協会から再三「女性は土俵から降りてください。」というアナウンスを流したことが報道されました。
相撲協会には危機管理部と言う部門があるというのを貴乃花親方の一件で私は初めて知って、正直なところ呆れかえっていたのですが、その危機管理能力がどの程度のものであるのか今回の出来事ではっきりと示されたようです。
女性が駆け上がる前に、何故、傍にいた相撲協会関係者が駆け上がらならなかったのか。
土俵の周りには審判員やその他の役員、呼び出しその他の関係者がうようよしていたはずです。それらの誰も人工呼吸や心臓マッサージの方法を知らなかったと見えます。
それらの人々が済々と処置を始めていれば、お客として来ていた人々が飛び出すということ無かったでしょう。救命士として見るに見かねたから飛び出したのでしょう。
にもかかわらず、相撲協会がまず考えたのは相撲道の「伝統」だったのです。
相撲部屋ではおかみさんですら土俵には上がらないというほど女人禁制は相撲道では重要な掟なのだそうです。
私は伝統は大切に扱われるべきだと思っていますので、そういう伝統を相撲協会が墨守すること自体に問題があるとは全く思っていません。
ただ、舞鶴の事件で、相撲道の伝統が汚されたのでしょうか。
相撲道が墨守してきている「伝統」がその程度で汚されるようなものなら、大した伝統ではないと言わざるを得ません。
守るべき伝統と変えるべき伝統?
私がこのコラムで問題視しているのは、相撲協会の危機管理能力ではありません。
その後行われた宝塚市での巡業で、中川智子市長が土俵でのあいさつを認められず、土俵下から「女性だからという理由で認められないのは悔しい。伝統を守りながらも、変えるべきものは変えていくべきではないか」と訴えたことです。
組織にとって伝統というものは、極めて重要です。
伝統を作るには長期間にわたるそのメンバーの努力が必要であり、しかもガラスのように脆く、ちょっとしたことで呆気なく崩れてしまいます。そしてそれを再構築するためには、マイナスのポジションから始めなければならず、さらに長い途を歩まねばなりません。
そのようにして関係者の必死の努力で築き上げてきた伝統について、第三者が自分が悔しいから変えろなどというのは僭越の極みと言わざるを得ません。
宝塚市長がどれほど相撲の起源、歴史、そして伝統に精通しているのかを知りませんが、伝統云々は第三者が介入すべき問題ではありません。貴乃花親方が言うのなら分かりますが、巡業に場所を貸した地元自治体の長ごときが云々する問題ではありません。
もし宝塚音楽学校にどうしても入学したいという男子生徒が現れた場合、宝塚市長としてどう対応するのでしょうか。地元自治体として学校当局と交渉でもするでしょうか。
宝塚が女性団員だけで構成されているのは宝塚の伝統です。宝塚歌劇団の自治が尊重されなければなりません。
一方で、相撲道の伝統を守るのは相撲協会の責任であり、その自治に任されるべきです。
よく旧体質の組織について「守るべきものは守り、変えるべきは大胆に変えるべき」という指摘がなされることがありますが、指摘するのは簡単ですが、何が守るべきであり、何が変えるべきなのかを決めていくのは恐ろしく難しいことです。
何故か? 失われた伝統は戻らないからです。
その覚悟をもって、守ってきたものを捨てなければならないからです。
組織が健全に時代と社会と共に歩んでいくためには、その伝統も不断に検証され続けなければなりません。いたずらに墨守すればいいというものではありません。
だからこそ、それは第三者が無責任に「変えるべきものは変えよ」などと言ってはならない領域なのです。
欧米と比較することの意味は?
日本における女性の扱いや権利、あるいは公的役割に就いている女性の割合などを欧米と比較して、日本は後進国だという意見がよく出されます
欧米が先進的で正しいという前提はいかがなものでしょうか。
欧米と比較すること自体にどのような意味があるのか分からないのですが、その比較も本当に正しいのかどうか疑わしいものが多々あります。本当に欧米の事情に詳しい人々による比較なのかどうかを検証しなければなりません。
例えば、日本の自衛隊は女性隊員の採用と活用が米軍に比べてかなり遅かったことは事実です。
しかし、米軍のやり方をそのまま採用することが正しいのかどうかは議論があります。
米海軍の艦艇では、居住区に男女の区別がない船が沢山あります。
すべてを見たわけではありませんが、航空母艦や補給艦では30人くらいの居住区では入り口から入って右側のベッドが女性隊員用、左側が男性隊員用などとなっていることが多いようでした。
さすがに士官居住区のように二人部屋などで男女相部屋というのは見たことがありませんが、兵員用の大部屋では珍しくありません。
艦長に聞くと、同じ船に乗っていつも作業を一緒にしているので男女という意識も特になく、問題はないということでした。
しかし、私が連絡官として勤務していた米軍基地では、回ってくる部内のニュースを読んでいると、軍法会議で艦内のレイプ事件が裁かれていることがよくありました。
艦長は、そんなことは日常茶飯事に起こるので特に問題ではないと言っていたのかもしれませんが、そういうことが先進的で正しいとは到底思えません。
また、欧米は全てのポジションが女性に開放されているかと言えば、そうではありません。
世界最古にして最大の官僚制組織であるローマカトリック教会の法王、枢機卿、司祭に女性は一人もおらず、しかも偶然にいないのではなく、イエスが意図的に男性のみを弟子に選んだとして組織的に認めない方針を公にしています。
聖母マリアを崇め奉る組織ですら、男性の聖職者を認めないのです。
これをカトリック信者ならともかく、信者でもないものが非現代的だとか、非民主的だとか批判するのは見当違いでしょう。
区別と差別の違いはしっかりと認識して議論しなければなりません。
組織における伝統の持つ意味とは
ここで組織にとって伝統は大切だと述べていますが、なぜでしょうか。
それが何よりも強い規範となるからです。
そしてその規範は自他ともに認められたものであり、その規範から離れることには大きな心理的抵抗が構成員にあり、規則などで明文化された規範よりも遥かに強い拘束力を持つからです。
さらには、その伝統が構成員の士気や組織に対する誇り、忠誠心の源泉となるからでもあります。
したがって、この伝統は軽々に変えるべきではなく、伝統のない組織は、自分たちの伝統をいかに作っていくかについては極めて慎重でなければなりません。
勘違いしてはならないのは、伝統とは縛られるものではなく、拠り所とすべきものだということです。
したがって、それは形式が大切なのではなく、その拠って立つ精神が重要なのです。
相撲協会は重大な勘違いをしていたのではないでしょうか。
それが証拠に、舞鶴の報道の後、すぐさま「不適切な対応であった。」と理事長が謝罪をしています。
相撲協会の考え、守ってきた伝統とは所詮その程度のものだったのかもしれません。
しかし、相撲協会が守っている伝統がその程度のものだとすれば、それを変えるべきだという宝塚市長の議論もひょっとすると正しいかもしれませんが・・・・・