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専門コラム「指揮官の決断」

第82回 

No.082 誰の責任 ?

カテゴリ:コラム

責任追及の声はあがるけど・・・

 社会に起きる様々な事件・事故・不祥事に際して、その責任を追及する声が上がることがよくあります。
 確かに周りを見回しても不満の種は尽きず、それらを政治の責任としたくなるのも無理もないところではあります。
 大きな事故が起きると、その事故を起こした当事者はもちろん、監督責任を持つ行政の責任を問う声が一斉に上がります。
  
 いろいろな不満の原因を政治や行政の責任にしてうっ憤を晴らしたいという気持ちは私にもないわけではありません。
 しかし、私はかなり異なった見方をしています。
 これは、私が元公務員であり、行政組織の末端にいたということも関わるのかもしれませんが、軽々に政治や行政の責任としてしまうことの危険性を強く意識せざるを得ないのです。

行政の責任?

 まず行政の不作為です。
 これを責め立てるのは簡単です。
 「役所は何を見ていたんだ。」「監督責任を果たしていない。」云々

 しかし、これは極めて危険な議論につながりかねません。
 問題の本質をよく考えて批判しなければならないのです。

 年金機構でデータ入力の誤りがあって95万人分のミスがあり、31万人分の支給額が誤っていたおそれを生じたことが最近分かりました。
 これは年金機構の業務管理の呆れるほどのずさんさが露呈したものであり、その責任を追及する声が上がるのは当然かもしれません。
 もともと5000万件の年金記録が誰のものか分からないという信じがたい業務管理をしていて解体された社会保険庁でしたが、その後も125万件の個人情報を流出させ、昨年は年金加算額で598億円の支給漏れが発覚するなど、いつまでたっても性懲りの無い組織なのです。
 私は組織論が専門ですが、このような組織を立ち直らせることはできないことは、当コラムですでに指摘しています。(専門コラム「指揮官の決断」 No.081 組織改革の可能性  をご覧ください。)

 組織には組織風土(Organizational atmosphere)というものがあり、これを根本的に改めることは、ある一定の条件が無い限りできないのです。
 それは覚悟を持ったトップが捨て身の覚悟で改革に当たるということであり、生半可な覚悟でできることではありません。
 数々の修羅場をくぐってきた経営者か、文字通り命懸けの任務にあたる消防や警察などの指揮官のみができることであり、政治家や役人にできることではありません。
 しかし、その責任を問うこと自体は誤りではありません。 

 しかし、コインチェックに代表される暗号通貨に対する金融庁の監督責任を問うたりするのはこれとは問題が異なります。
 大きな社会問題が起こると、その監督官庁の不作為を責める声が高くなるのですが、これが危険なのです。
 責められた監督官庁はどう感じているのでしょうか。
 
 2割程度は反省します。
 残り8割は「しめた!」と感じているはずです。
 
 予算要求のチャンスなのです。
 監督が十分ではないという世論が巻き起こると、十分な監督をするのに必要な人員の要求や予算の要求を公然とできるようになるのです。
 そして、監督をするための権限の強化を試みます。
 権限が強化されると影響力が大きくなります。
 そしてその強化された監督権限が利権に繋がるのは水戸の黄門さまの時代からの常です。
 
 金融庁がそのような体質を持っていると述べているわけではありません。
 役所に権限を与えるとそうなりやすいと言っているのです。

 行政の責任を問うというのはそういうことなのです。
 行政に権限を与えることを認めなければならないのです。
 権限のないところに責任は生じないからです。
責任を追及するということは、彼らに権限を与えることを覚悟することと引き換えでなければなりません。

政治の責任?

 政治の責任を追及する声も当然ながらマスコミを賑わせています。
 特に国会での議論を見ていると、様々な問題で政権の責任を論難する議論がなされています。

 政権の責任を云々するのはいとも簡単です。素人にもできます。
 しかし、自分の発言に責任をもって、論旨一貫した批判をすることは専門家でも難しいものです。
 
 先日、あるテレビの時事問題を扱う番組を観ていたところ、森友・加計の問題に関する議論の最後に、「このような官邸主導の体質はよくない。」ということで司会者もコメンテーターも一致していたので呆れかえりました。
 かつて政権が交代した際、「やっと政治主導の政権が誕生した。」と喜んでいた方々です。
 
 議院内閣制をとる我が国において、「政治主導」と「官邸主導」は同義語です。
 
 官邸主導がよろしくないのであれば、官僚主導を認めなければなりません。

 一方、野党議員は自分たちが国民を代表して政権の不正を追及しなければならないという議論を繰り返していますが、これは勘違いも甚だしいと言わざるを得ません。
 
 野党は、国民の信任を得られなかったから野党なのです。
 「貴方たちに政治を託すことはできない。」と国民に宣言されたのが野党各党です。
 国民の声を代表しているのは与党なのです。
 
 その与党=政権が腐敗しているのであれば、それはその政権を選んだ私たち国民の責任なのです。
 つまり、私たちが政権の責任を追及するということは、自分の顔に唾を吐いているのに等しい行為なのです。
 当事者の私たちとしては切実な問題なのですが、外から見ているとただ滑稽なだけです。
 EUからの脱退を公約に掲げた政権を樹立させた英国で、EU脱退を決めたことを後悔する世論が起きていますが、極東の私たちにしてみれば、「自分で決めたことでしょ?」という程度の認識にしかなりませんし、アメリカでトランプ大統領に反対する運動が巻き起こると「自業自得でしょう」としか思えないのです。
 現政権を誕生させたのは私たち国民の投票の結果ですし、東日本大震災において日本の危機をさらに深刻にした政権も私たち国民の投票の結果生まれたのです。

つまり誰の責任なの?

 行政や政治の責任を述べ立ててうっ憤を晴らすのは簡単ですが、私たちは私たちの責任を果たさなければなりません。
 しっかりとした政権を誕生させるのは私たちの責任ですし、行政により高度の作為を求めるなら、より強い権限を与えることを甘受する覚悟をしなければならないのです。

 ジョン・F・ケネディは就任の演説において「And so, my fellow Americans, Ask not what your country can do for you—Ask what you can do for your country. ですからアメリカ国民の皆さん、国があなたに何をするかを問うのではなく、あなたが国に何ができるかを自問してください。」と言い放ちました。
 現政権がそんなことを言ったら命取りですが、これはとても深い言葉です。
 自分たちが主体的にこの国を作っていかなければならないという民主政治の本質を表明しています。
 それが民主主義であり、その価値の根幹である「自由」を確保する手段です。
 
 誰の責任でもなく、私たちの責任なのです。