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専門コラム「指揮官の決断」

第104回 

No.104 言論における責任とは

カテゴリ:コラム

言論が言論を封じた

 
 新潮社の雑誌「新潮45」が廃刊に追い込まれました。
 ことの発端は自民党議員の杉田水脈氏のLGBTを巡る記事ですが、私はこの問題の専門家ではありませんのでコメントは差し控えます。
 しかし、この問題が現代における言論の自由に関する一つの問題提起ではないかと思っています。

 私は杉田議員の主張に賛同するものではありませんが、彼女にも自ら正しいと信じたことについて発言する権利はあります。まして彼女は政治家ですので、あらゆる機会を使って自らの信念や政治信条を有権者に訴えるということは必要なことでしょう。国会の場において発言し、それが私たち国民の目に触れる機会というのはそう頻繁にあるものではないからです。
 現代社会においてはウェブサイトにおいて自由に発言できますが、ウェブサイトは意図的に閲覧しなければならないので、出版の方が影響力が圧倒的に大きいことは未だに事実です。
 
 その出版において彼女が自ら信ずる発言を行ったことで「炎上」がおこり、その媒体となった雑誌自体が廃刊に追い込まれるということはどういうことなのかを考えています。

 もし杉田議員の主張が新潮社の主張であるのであれば同誌はもっと戦うべきでしょう。
 少子化問題を考えるときに限られた予算をどのように投入すべきかという議論なのですから、LGBTの方々の人権に配慮した社としての見解を出せたはずです。
 
 あるいは一人の国会議員の政治的信念として取り上げ、反対の主張を持つ政治家にも執筆を求めることもできたはずで、そうすることによりこの問題を普段あまり関心を持たない読者にも考えさせる契機ともなったはずなのにとも思います。
 
 問題となった記事を載せた次の号で「何が悪いのか」と開き直ったのであれば、その主張で戦うべきであったかと思います。それを「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現があった。」などという声明を出すなどというのは出版人にあるまじき行為であると考えています。

 もちろん、この問題に関して掲載した新潮社に抗議して同誌を廃刊に追い込んだムーブメントも民主主義下における言論の自由の一つです。今回の問題は国家権力が介在していないのでいわゆる表現の自由、言論の自由の問題とはなっていませんが、しかし一方で見方によっては言論という暴力によって言論が封じられたとも言えます。
 
 今後、人権が絡む問題について出版は消極的にならざるを得ず、マイノリティの人権に配慮した記事しか掲載されなくなるでしょう。
 それは一見結構なことのように見えますが、実は表現の自由という観点から考えると問題なしとしません。
 様々な見方からの言論が封じられているからです。多様な意見が活発に闘い合うことのできる社会でなければ健全とは言えないでしょう。
 この問題を論じているとそれだけで大論文になってしまうテーマですが、私の専門外なので問題提起に留めます。

問題の所在

 私が何故この問題を取り上げているかというと、言論に関する責任という問題を考えているからです。

 3~4年ほど前になりますが、たまたまテレビのバラエティ番組を観ていたら、テレビにコメンテータとしてよく出演されるかつては国会議員でもあった女性の大学教授が、世界で最も幸福な国として第1位にコスタリカがランキングされていることを紹介していました。
 コスタリカが第1位になったのは憲法で常備軍の保持を禁止しているから、国民は戦争を恐れる必要が無く、それで幸せなのだそうです。
 さらにエマニュエル・カントの『永遠平和のために』を引用して、世界が平和になるためには常備軍は廃止しなければならないのが常識なのに、この国は自衛隊をどんどん戦争ができる軍隊にしようとしているという持論を展開していました。

 私はたまたまこの年、彼女が紹介した幸福な国ランキングを興味があって読んでいたので、この番組を興味をもって観ていました。
 この年(私のメモによれば2014年です。)英国のシンクタンクであるNew Economic Foundation が提唱する地球幸福度指数(HPI: Happiness Planet Index )により計算すると
 1位 コスタリカ
 2位 ベトナム
 3位 コロンビア
 となり、日本は50位以下にランクされていました。
 日本よりイスラエルの方がはるかに高い幸福度指数を与えられているのが興味深いところです。
 
 しかし、この1位から3位までのランキングを見ても、これは質の悪いジョークにしか見えません。
 
 ベトナムと日本がどちらが国民が幸福を感じているかということになるとたしかに考えるべきものはあるかもしれません。経済的にも発展を続けているベトナムと若い人たちが将来に希望を持つことができずにもがいている日本を比べると、確かにベトナムに軍配が上がるかもしれません。
 
 しかし、コロンビアと日本を比べて、日本が50以下でコロンビアが3位というのはほとんどブラックジョークの世界です。
 コロンビアという国は人口は日本の3分の1ですが、日本の年間の殺人事件数が1000件未満であるにもかかわらず、コロンビアでは10000件を下回ることはありません。誘拐こそ減少してきているそうですが、それでも年間200件近くの誘拐事件が起きています。
 麻薬のシンジケートがいくつもあり、それらの抗争も激しく、市民が巻き込まれることも珍しくありません。
 この国が世界に3番目に幸せに暮らせる国だというランキングは何を意味しているのかさっぱり分かりません。

 また、常備軍を廃止する憲法を持っているから日本よりはるかに幸せなのであれば、イスラエルが日本よりはるかに高いランキングを与えられている理由が分かりません。
 イスラエルは世界で最も早くから女性にも徴兵に応ずる義務を課した国であり、絶えず隣国との紛争に緊張感を解いたことのない国家です。日本のように平和ボケした国ではないのです。(もっとも、世界で最も早く女性にも男性と同じ権利義務を認めたという点では先進国かもしれません。男女の平等を訴える方々がこのイスラエルの徴兵制度を評価しているのを聞いたことがありませんが。)
HPIという指数の計算法を詳細に承知していないのですが、平和ボケで生きていける日本の方が幸せなように思えます。

 一つ明らかなことがあります。この女性の評論家は大学の教授ではあるかもしれませんが、政治学がご専門ではないことだけは間違いありません。
 カントの『永遠平和のために』を読んでいない政治学者はいないからです。
 そして彼女が読んでいないことは明らかです。

 カントは確かに常備軍の廃止を提唱しています。
 カントはこの本の予備条項といわれる章において、世界に恒久平和をもたらすいくつかの前提条件として常備軍の廃止をあげています。
 
 しかし、読んだことのある方には明らかですが、カントが廃止すべきと主張している常備軍とは傭兵部隊のことであり、カントは自衛のための軍隊を保持し、その訓練を行うことを明示的に認めています。
 深く読まずとも、サラっと読んでもそれは明らかです。
 つまり、彼女はサラっとも読んでおらず、ただ、カントが常備軍の廃止を『永遠平和のために』という本の中で提唱したことだけを聞きかじっているだけなのです。

 評論家のこのような態度は特に珍しいものではありません。
 例えばドラッカーを読まずに解説本で語っている評論家やコンサルタント、甚だしきはセミナー講師は山ほどいます。実はドラッカーにこの例が多いのです。
 ただ珍しいのは彼女が大学の教員だということで、普通、学者はそこまで無責任な発言はしないものです。

言論における責任とは

 しかし、いくら無責任であっても言論に関する限り責任を問われることはありません。 
 政治家や公務員は社会的責任を問われることがありますが、言論は憲法に保障された自由のために責任を問われることがないのです。
 あまりの無責任さに5年間で読者数を半分に減らした大新聞はありますが、墓穴を掘っただけで自ら責任を取ったわけではありません。
 その意味で今回の『新潮45』は珍しいケースだと思います。

 実はこのコラムも同様です。
 私は当コラムでマスコミや政治家、あるいは公務員にはかなり厳しい態度をとっており、場合によっては実名を挙げて批判することがあります。
 それは彼らの社会に与える影響が極めて大きいからです。
 しかし、私が何らかの法的責任を問われることはまずありません。
 名誉棄損を問われることはあるかもしれませんが、常識の範囲の批判ではそれも考えられません。
 しかし私は自分の発言には責任を取らねばなりません。特に他の方々を批判した場合はなおさらです。
 そこで私は実名で、連絡先なども明示したウェブサイト上で発言しています。
 匿名で批判しているわけではありません。
 それが自分の言論に関する責任だと考えています。

 また私は学者でも評論家でもありませんが、自分の言論には責任を持たねばならないので、書物を引用する場合にはその原典を確認しています。自分が読んだこともない本について論及するつもりはありませんし、自分で確認していない場合には表現を伝聞の形にしています。
 それも私のコラムに関する責任というものだと考えています。

私たちの社会は新たな課題に直面している

 私は法律の専門家ではなく、憲法における表現の自由をどう捉えるかという問題についてコメントするつもりはありませんが、日頃感じていることを一つだけ最後に申しあげておきたいと思います。
 よく、剣とペンは象徴的に対比されてきましたが、しかし現代においては、どちらも暴力の手段となっているのではないでしょうか。剣による暴力は分かりやすいので法律的に禁じることが可能なのですが、ペンによる暴力は隠れ蓑を着ているので分かりにくいのです。
 しかし、ネット上での誹謗中傷でメンタルダウンしてしまう事例は珍しくありませんし、企業が利益を損なうこともまた珍しくありません。
 特にネット上の発言は匿名であることも多く、これは新たな暴力の形態であるとの認識が必要なのかもしれません。
 私たちは、この21世紀型の新たな暴力に適切に対応する必要があると思っています。
 これは危機管理の新たな問題でもあります。
 
 当コラムは100号を超えることができましたが、この間、私が貫いてきた態度にご理解を頂き、その上で建設的なご批判を頂いて今後の資とさせて頂きたと思っています。
 当コラムへのご意見等は弊社コラムのお問合せのフォーマットをご利用いただいて結構です。

 頂いたご意見については、当コラム上でご紹介させて頂きます。

 皆様のご意見をお待ち申し上げております。