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専門コラム「指揮官の決断」 

No.109 自己責任?

自己責任論の再燃

 フリージャーナリストの安田純平さんが解放され、帰国しました。
 シリアで武装勢力に拘束された3年4か月という月日がどのようなものだったのか、いずれ手記などが発表されるのでしょうが、帰国の機内でのインタビューなどから推測するに、想像を絶する恐怖の日々で、それに耐えてきた安田さんの精神力の強靭さには驚くばかりです。
 どのような水面下の交渉がなされたのかは不明ですし、それが明らかにされることもないと思いますが、タイミングとしてはトルコとシリア、そしてロシアを繋ぐ情勢に大きな変化があったことが幸いだったのだろうと思われます。
 また、シリアの反政府勢力を支援していたトルコが日本に極めて好意的な国であったことも遠因の一つかもしれません。
 
 この事件で、巷間にはまた自己責任論が再燃しています。
 この自己責任論が大きく注目されたのは2004年に日本人3人がイラクで拘束されて、結果的に解放された時でした。
 当時イラクには外務省が避難勧告を出していたほど情勢が不安定だったこともあり、バッシングが行われました。
 今回もSNSではかなりのバッシングが行われています。

 私もこの問題には関心を持っています。
 私は当コラムにおいてマスコミ批判を再三にわたって行っています。それはマスコミの不勉強、あるいはその言論に関する無責任について言及するものなのですが、ジャーナリストの取材に関する自己責任の問題に関心を持っているわけではありません。
 危機管理の問題で、何がややこしいといって人質の解放交渉ほど困難なものがないので関心を持っているのですが、今回は自己責任論について考えてみたいと思います。

テレビを観てびっくりしたこと

 TBSの土曜日の報道番組で報道特集という番組があります。
 私は地上波のテレビをほとんど観ないのですが、たまたまリビングルームのテレビでこの番組が放映されていたのを何気なく観ていたら、アナウンサーのとんでもない発言が飛び出してきたのでびっくりしました。

 10月27日の報道特集で冒頭に、朝鮮通信使の木造船が再現されたことが報道されていました。
 朝鮮通信使というのは古くは室町時代から日本に遣わされていた使者を指しますが、一般には江戸時代のものを指すことが多いようです。
 今回再現された船は江戸時代に朝鮮通信使が乗ってきた船を再現したようです。

 この朝鮮通信使に関する資料がユネスコに登録されたのを記念して作られたのだそうですが、番組で「忠実に再現された。」と説明されたのです。
 ところが映像を観ると明らかにエンジンで走っています。私はかつてこの船の絵図面を見たことがありますが、この船にはいくつかのバージョンがあり、帆船であったりオールを漕いで走っていたりしていました。江戸時代の話ですからね。

 しかし、再現された船はどう見てもエンジンで走っています。
 これでは「忠実に再現」されたことにはなりません。
 
 このニュースを観て、最近のアナウンサーは言葉を知らんなと思っていたところ、今度はキャスターからびっくりするような発言が飛び出したのです。
 安田さんの解放に関するSNS上の自己責任という議論に関して無責任な自己責任論を振りかざすのはいかがなものかという議論でした。
 
 その論拠として、戦地で何が起きているのかを我々は知らなくていいのか、海外メディアから情報を買えばいいのかということではないはずだ、その取材を行うジャーナリストを自己責任などと非難するなということなのです。
 

自己責任とは何だろうか

 この議論には報道関係者の驕りが濃厚に見てとれます。
 報道は重要なのだ、遊びではない、命懸けの重要な業務なのだから軽々に自己責任だとか自業自得などと言うなということです。
 
 私はこの自己責任論というのが大嫌いです。
 
 この議論を聞くたびに、この国の、私たちの精神構造の幼稚さを思い知らされるからです。
 強制されたり、命令されたりしたものではなく、自分の意志で行ったことに関しては全て自己責任を負うのがまともな社会の常識だろうと考えるのですが、この国の自己責任論というのはそのような次元で展開されていないのです。

 戦地、紛争地域あるいは中南米のような犯罪多発地域での取材に関し、その取材の重要性は否定しないものの、しっかりとした現地コーディネーターや通訳との契約や誘拐保険に入ることなどの安全対策をしっかりとることが最低限の責任だなどとコメントする識者がいますが、これにも呆れます。
 自己責任というのは恐ろしく重いものであり、保険に入ったからといって責任を免れるような安直なものではないはずです。

  
 私は外務省が避難勧告を出すような地域における取材は重要だと思っています。
 それが無ければ私たちは世界に何が起きているのか分からず、情勢の変化に対して後手に回ってしまいます。
 
 一方、2004年にイラクで拘束された3人の日本人は報道ではなく、現地の難民の支援に従事していた人たちでしたが、誰も手を差し伸べない世界から見捨てられたような危険な地域で現地の人々のために仕事をするという想像を絶する大変な仕事をボランティアで行っていたのです。
 そのような人々の犠牲なしには救われない人々が無数にいます。
 
 私はそのようなジャーナリストやボランティアの人々に対して敬意を表することにやぶさかではありません。
 またそのような日本人のジャーナリストやボランティア活動家が世界中で活躍することは我が国が世界から敬意をもって受け止められることにも直結しています。
 
 しかし、誰からも強制されず自分の意志で行った彼らには自己責任があるのは当たり前なのです。

 かつてニュースキャスターの辛坊治郎さんが視覚障害のある方と組んで小型のヨットで太平洋横断を試み、クジラと衝突して遭難してしまい、海上自衛隊の救難機に救助されるということがありました。
 彼は救助された直後から、全て自分の責任であり多大な迷惑をかけたということを明白にし、全ての責任を自分が単独で負うことを明言したこと、及び日頃の言動から一定の政治的方向が明らかであったため、いわゆるネット右翼と言われる勢力からのバッシングにはあわなかったようですが、それでも自己責任論ではそうとう痛めつけられてはいたようです。
 
 何故か?
 
 ヨットだったからです。
 クジラと衝突するということは、小型のヨットにとっては回避できない事故なのですが、レジャー用の船舶だったからです。
 
 一方で、漁船が燃料が無くなって漂流し、天候が悪化して遭難した場合、あるいは甲板上の漁具が崩れてバランスを崩して遭難した場合、自己責任論という議論はまず起こらないでしょう。
 
 何故か?
 
 漁船だからです。
 国民のタンパク源を供給する業務だからです。
 
 しかし、航海中に燃料が無くなるなどいうことは船乗りにとってはこれほど恥ずかしいことは無いくらいの過失ですし、漁具が崩れて船のバランスが失われるなどいうことは基本的なシーマンシップを持っているのかどうか疑われる事故です。
 多くの方はあまりご存じないかもしれませんが、まともな設計で、しっかりと建造され、正しく整備され、熟練の船乗りが基本に忠実に運航する船が遭難することなどまずありません。
 あるとすれば、小型のエンジン音のしないヨットにクジラが気が付かずに衝突してしまうケースくらいなのです。つまり、漁船の遭難のほとんどは漁船員の重大な過失が原因です。責任は彼らにあるのです。
 しかし、漁船であれば自己責任を問われるなどということを聞いたことがありません。

 たしかにヨットでの航海は私たち一般国民のお腹を満たしてはくれません。そのヨット乗りの自己満足でしかありません。
 しかしそれでは漁船は私たち一般国民のために自己犠牲の精神で操業しているのでしょうか。
 そうではありません。彼らの利益のために漁に出ているのです。
 私たちの誰も彼らに出漁してくれと頼んだことは無いし、国家が漁業に従事することを強制したわけでもないのです。
 どちらが尊いという議論にはならないはずです。
 もしそういう議論になるのであれば、収入を得るために操業している漁船は国の防衛のために航海している海上自衛隊の艦艇に対して進路を譲らなければならず、万一衝突したら回避しなかった漁船に責任があることになります。そんな理屈がまかり通っていいはずはありません。

 一方は自己満足のために海に出たため不可抗力の事故にあったにもかかわらず自己責任だと非難され、他方はまったく基本的な注意さえできずに海に出たにもかかわらずそれが漁船だったというだけで自己責任にならないのです。 

 
 国民が窮地に陥った時にそれを救済するのは国家の義務です。
 例え外務省の勧告を無視して被害に遭ったとしてもそれを救出するのは国家の義務です。
 国家は無過失な国民にだけ責任を負っているわけではありません。
 だから船乗りの基本が全くできていない漁船が大時化で遭難している場合でも、海上保安官は命懸けでその漁船の救助に出向きます。
 自己責任で自業自得だという議論をするのであれば、海上保安官が大時化の海で命懸けの救難をおこなわなければならなくなるということはあまりないはずなのです。
 

自己責任論の裏にあるもの

 
 戦地報道の重要性に鑑み、むやみに自己責任というような非難をすることはいかがなものかという報道に関わる人々の意見は、彼らの驕りです。
 報道は重要なのだ、遊びではない、命懸けの重要な業務なのだから軽々に自己責任だとか自業自得などと言うなということは、自分たちの仕事は社会的に重要な意義のあることなので特別に扱えとマスコミが言っているということです。
 これが彼らの驕りでなくて何なのでしょうか。
 
 私が問題とするのはマスコミのその謙虚さの無さです。
 驕り高ぶったマスコミ自身がまったく自らの報道に責任を持たないのにそのようなことを言う資格があるのかを問うているのです。

 五百歩くらい譲って、自己責任ではないとすればどうだというのでしょうか。
 社会のために重要な役割を担っている報道なのだから、ジャーナリストが窮地に陥ったら救出するのは国家の責任だというのでしょうか。
 もともと国民を救出するのは国家の義務なのです。
 国家は反政府的な報道を続けるジャーナリストであっても、異国で不当に拘束されればそれを救出する責任を負います。国民の保護は国家の義務だからです。
 ジャーナリストの仕事が尊いから国が責任をもって救出するのではありません。それが日本国民だからです。

言論の自由を守りたければ自己責任を正面から見据えよ

 
 自己責任論を回避するということは報道にとっては自殺に等しい意味を持ちます。
 それは権力による介入を受け入れるということだからです。
 責任のないところに権利は生まれません。自己責任を放棄するのであれば、自らの権利も放棄しなければなりません。
 それは報道の自由、表現の自由を自ら放棄することに他ならないのです。
 権利を主張したければ、責任を堂々と負わなければならないことが分からないのは子供です。この議論を聞くたびに、この国の、私たちの精神構造の幼稚さを思い知らされると冒頭で申し上げたのはこの点です。

 さらに付言すれば、マスコミはSNS等における発言を批判することを控えるべきです。

 SNSは匿名の無責任な発言が多いことは事実ですが、しかし、それも我が国の憲法が保障する言論の自由の範囲なのです。それを批判して封じ込めようとするのは返す刀で自らの言論も封じ込められる恐れがあります。
 SNSだからレベルが低いとか、無責任な発言が多いという問題ではないのです。
 大新聞だろうと地上波のテレビ報道であろうと、びっくりするほどの無知を曝け出し、かつ無責任である実態に変わりはありません。
 逆にテレビなどは公共の電波を使っているだけに却って始末が悪いかもしれません。

 また、かつて指摘したことがありますが、言論に対する批判は現代の新しい暴力の形としての言論を助長することにもなりかねません。報道機関としては十分に慎むべきことかと思料します。

 たまたま土曜日の夕方テレビを観ていて、朝鮮通信使船の「忠実に再現された」船がエンジンで走っているのを見てびっくりしたのをきっかけに、様々な問題を考えさせられた報道番組でした。