専門コラム「指揮官の決断」
第114回No.114 「君臨すれども統治せず」?
政治の世界はトラップだらけ?
前回、国会の論戦における閣僚の答弁や自衛隊の儀式などを通じて、官僚等の言葉に対する感性が劣化しているのではないかという疑問を提示しました。(専門コラム「指揮官の決断」No.113 感性の劣化のもたらすもの https://aegis-cms.co.jp/1358 )
今回はちょっと別の角度から眺めてみます。
入管法改正の論議において山下法務大臣が多くの外国人技能実習生が失踪している理由として「最低賃金以下を含む低賃金に不満を持ち、より高い賃金を求めて」と説明したのに対して立憲民主党の山尾志桜議員が「契約賃金や最低賃金以下というのは正当な権利主張をしているのであって、それを不満と表現するのは不適切だ。」と指摘したことについて言及しました。
たしかに「現賃金に不満があってより高い賃金を求めている。」というのと「最低賃金すらもらえないために逃げ出した。」と言うのはまったく異なる印象を与えてしまうので、言葉を慎重に選ばなければならないのであって、山尾議員の指摘はごもっともです。
さらに山尾議員は安倍首相に対し、特段の技術技能知識または経験を必要としない労働については今回の改正では適用しない理由について質問し、そのような労働をこの社会では誰が担っていくのかを質問しました。
それに対し、安倍首相は「それをこの場で答弁することはできない。」と切り返しています。
これは山尾議員の仕掛けたトラップでしょう。
うっかりとこの単純労働を「例えば○○とか△△」などと答弁しようものなら、それらの業務に就く人々に対する差別的発言と喰いつかれ、マスコミのいい餌食となるところです。
さすがに老練な政治家はちょっと違うなとの印象です。
老練なと言えばもう一例あります。
秋篠宮殿下の誕生日前日の記者会見で、大嘗祭を内廷費で賄うべきという持論を宮内庁長官に伝えたが「聞く耳を持たなかった。」というご発言がありました。
この問題そのものには当コラムの専門性と関わりが無いのでコメントしませんが、しかし、これに対する菅官房長官の定例記者会見の対応について、いろいろな評論家がコメントしているのを聞いて違和感を持ちました。
菅官房長官は「ご自身のお考えを述べられたもので、政府としてコメントすることは控えたい。」と述べたうえで、大嘗祭の費用の在り方については改めて何らかの対応をすることは考えていないと述べています。つまり、政府としてもこれ以上聞く耳を持つつもりはない、と言い切ったということでしょう。
この対応について、秋篠宮の発言は皇室の想いを代弁するものであり、政府としては門前払いすべきではないという評論家と、そもそも憲法上の政教分離の問題として改めて議論すべきだという評論家の二手に分かれたように思います。
秋篠宮殿下の真意がどこにあるのか、あるいは大嘗祭の宗教的性格と皇位継承を内外に示すことの公的性格などについても、当コラムの専門外であってコメントはしません。
しかし、菅官房長官の発言は評論家が述べていることとは論点が異なります。
菅官房長官はあの答弁をせざるを得ないのです。
もし、殿下の真意を汲んで、政府としても再度検討するなどという玉虫色のような(実は玉虫色にはまったくならないのですが。)発言を官房長官が記者会見で行ったら、その瞬間に、事態はとんでもないことになってしまいます。
秋篠宮殿下の発言が「政治的発言」になってしまうのです。
発言を受けて政府が見解を改めないまでも、検討をやり直すというだけで、それは圧力を受けたことになるからです。
菅官房長官の会見でのコメントには、秋篠宮殿下の発言が「政治的発言ではない。」とする一貫した論理が働いており、それ以上でも以下でもないものと思われます。
それ以外のコメントはあり得ないのです。
しかし、コメンテーターや評論家たちは菅官房長官が「再検討する。」と言えば「殿下の政治的発言」とし、「再検討しない。」とすると「皇族の想い」や「政教分離の問題」などを持ち出して論陣を張るだけなのです。
これはマスコミの基本的な体質でしょう。
君臨すれども統治せず?
ところで、この一連の報道を聞いていて何回も出てきて気になったのが、皇室の在り方に関するコメントで、英国王室と同様「君臨すれども統治せず。」というのが皇室の伝統的あり方だというものでした。これはかなりの論客である評論家もそのような発言をしていたのでとても気になりました。
これはよく言われることで、私も高校の授業でそのように教えられた記憶があります。
一般にこの議論においてよく言われるのは、英国王室の” The King reigns but does not govern “ を「君臨すれども統治せず。」と訳すのは誤訳であり、「統治すれども支配せず。」が正しいという議論です。
確かに英和辞典的にはそうなるのかもしれません。
しかし、英和辞典レベルでは日本語の「統治」と「支配」という言葉の概念が厳格に定義されているとは思えませんし、reign を「支配」と訳して過ちかというとかならずしもそうではありません。
国際法では「統治」とは法律の裏付けのある合法的なものであり、「支配」は必ずしも法律の裏付けがなくとも実効的に権力を及ぼして服従させている状況を指しています。
例えば、中国は南沙諸島を「支配」していますが、これに「統治権」を認めることができないのはそのためです。
つまり国際法上は「統治」と「支配」は異なる概念として取り扱われています。
しかし、それらの議論とは別に学問的にreign に「支配」という訳が与えられているものがあります。
法律学を学んだ方は百もご承知ですが、「法の支配」の語源は” reign of law “です。
reignを「統治」ではなく「支配」と訳しています。
時々「法の支配」を「ルール・オブ・ロー」とおっしゃる方がいますが、これは過ちです。
Rule of law と言う場合には、法律の規定そのものを指すか、「法治国家」の概念を説明する際に用いられるようです。
ここで法律論議を展開するつもりはありません。
私が問題としているのは、我が国の皇室が英国王室のように「君臨すれども統治せず」 という体質を持つのかということです。
実は英国王室と同じ体質だと思ったら大間違いです。
我が国の皇室は「支配」していないのはもちろんですが、「君臨」も「統治」もしていないのが特徴です。
もちろん、英国国王が政治に直接関与することはほとんどありません。なぜなら、不文法の憲法により主権行使の権限が国王から大臣や官吏などの行政機関に委任されているからです。しかし、その地位が国家元首であるとされていることは間違いありません。
また国王は三軍の最高指揮官としての地位を持っています。英国海軍が Royal Navy と呼ばれるのはそのためです。
つまり、名目的ではあっても「君臨」していることは間違いありません。
そして名目的存在であるがゆえに国王大権のほとんどが委任されており、自ら執行することがないのです。
一方で、我が国の皇室にはそのような名目的地位すら与えられていません。
内閣の助言と承認により国事行為を行うことが認めれられているにすぎません。
天皇と皇后以外の皇族については名目的に公的性格を持つ団体の名誉総裁の地位があることがありますが、何らかの権限を持つ配置ではありません。
つまり、よく学校で教えられている日本の皇室が英国に範をとって「君臨すれども統治せず。」という地位にあるという認識は過ちです。
我が国は立憲君主国ですらない
我が国の憲法に国家元首や君主の規定はありません。主権は国民にあると明記されています。名目的にも君主ではなく、その大権が委任されているのでもありません。
委任されている大権がないのです。もともと名目的にすら権限を持っていないのです。
日本の天皇は「象徴として存在」しているに過ぎません。憲法第1条にそう書いてあります。
したがって、日本が「立憲君主国」であると私たちが中学・高校で教えられたことも実は誤りです。
それは大日本帝国憲法においては正しかったのでしょう。
しかし、日本国憲法下において日本が君主国であるというのは過ちです。外交儀礼上、国際社会において君主として扱われているにすぎません。
外交儀礼上元首として扱われるのは君主制の皇帝・国王と共和制の大統領であり、社会主義国においては国家主席や国家評議会議長などがそれにあたり、またローマ法王もそれに準じて遇されるのが国際慣例となっており、その延長線上に日本国天皇が君主として遇されているにすぎないのです。
「立憲君主制」とは「絶対王政」に対抗する概念であり、憲法に従って君主の権力が制約をうける政治体制を指します。
大日本帝国憲法下における我が国は立憲君主制でした。天皇は開戦を阻止できず、終戦も簡単ではありませんでした。
一方、日本国憲法下の天皇は「君主」ではなく、制限を加えられる権限そのものもありません。
「君主」ではなく「象徴」であり、権力が制限されているのではなく、内閣の助言と承認によりなさねばならぬ「国事行為」があるだけなのです。
国事行為を行う権限が内閣の助言と承認に寄らなければできないと解するのは日本国憲法の誤読であり、天皇はこれを拒否することができません。つまり、天皇の権限が制限されているのではなく、国事行為を天皇の責務として行わなければならないのです。
つまり、どう考えても日本の皇室が英国王室と同様に「君臨すれども統治せず。」という体質をもっているとは言えません。世の評論家たちが自分でモノを考えていない証左です。
自分の頭で考えない評論家たち
当コラムでは度々マスコミや評論家たちの不勉強を批判しています。それは別に個人的に恨みがあるわけではありません。危機管理上の問題を惹起するからです。
コトの本質を見ない表面的な理解だけで、あるいは自分に都合の良い解釈だけでモノを言うマスコミにより、真相が捻じ曲げられて伝えられることは珍しくありません。
評論家は学者ではないので真実を探求したり、真相を明らかにする努力はしません。彼らはそれで評価されるわけではないからです。彼らが追い求めるのは次も番組に呼んでもらうためにはどのような発言をすべきかという点ですので、真理や真相からはかけ離れていきます。
この国でリスクマネジメントが危機管理であると勘違いしている人々が珍しくないのもそのためです。
阪神淡路大震災の混乱の中で、リスクマネジメントとクライシスマネジメントという二つの概念が脚光を浴びた際、その概念の意味する本来の意味などに無頓着にこの彼らにとって新しい言葉を濫用した結果なのです。(専門コラム「指揮官の決断」 No.033 「リスクマネジメント」VS「クライシスマネジメント」https://aegis-cms.co.jp/590 をご覧ください。)
評論家たちは、自分の頭で検証するという作業をせずに自説を構築します。したがって、Wikiペディアが間違うと評論家が一斉に過ちを犯すということが起こります。
彼らの理論構築が社会科学が追い求める事実による検証や論理の一貫性ではなく、次回も番組に呼んでもらうために何が効果的かという判断をもとになされるからです。
したがって私たちはマスコミ、評論家の話を鵜呑みにせず、まして受け売りなどせず、まず、自分の頭でコトの真相を見つめ直してみなければなりません。
デカルト的な方法的懐疑を持てとまで申し上げるつもりはありませんが、ちょっと立ち止まって「本当か?」と考えてみることくらいは必要かもしれません。