専門コラム「指揮官の決断」
第142回緊張感を欠いた組織
グーグルアースでは対景図を作れるようにはならない
陸上配備型迎撃ミサイルシステムのイージス・アショア配備検討に関して調査報告書に誤りがあったことが分かったことは皆様ご承知のことと思います。
グーグルアースから作った地形の断面図の縮尺と標高の縮尺が異なっているのに気が付かずに計算したのが原因だそうです。
グーグルアースは私もよく見ているソフトです。見知らぬ土地の景色が手に取るように見えて飽きません。
しかしそれだけです。
私は海上自衛隊におりましたし、学生時代からのヨット乗りですので海図を見慣れています。
船乗りは海図を見て、どの島はどこから見るとどのような形に見えるかということを考えます。朝日に照らされた島や夕焼けに染まる島の景色も想像できます。
例えば瀬戸内海などを航行中、進路の前方にあるはずの島が自分が予定コースの上にいればどのように見えるのかを考えます。そして実際の見え方が違っていた場合、自分が予定コースから外れていることが分かります。船は潮流の影響を受けますので、舳先が向いている方へ進んでいるとは限らないのです。
最初のうちは海図にひかれた予定コースの一定の点で前方に見える島の形を絵に描きます。海図に示された島や岬の等高線が手掛かりです。これを対景図と呼びます。
私が護衛艦乗り組みとなって初めて瀬戸内海を航海した時は、出航前にこの対景図を30枚くらい描いたのを覚えています。瀬戸内海は潮が速いうえに来島海峡や本四架橋などで可航幅が狭くなっているところなど航海の難所が多いのです。
そのうちに慣れてくると絵に描かなくとも海図を見ただけで頭の中で絵が描けるようになります。それでも出航前に海図を眺めない船乗りはいないでしょう。
船乗りは誰でも航海の難所を通るときにはそのようにして事前にできる準備はできるだけしておいて出航に備えるのです。
ところが最近の船乗りはこの対景図を描きません。グーグルアースで3D画像をすぐ見ることができるからです。
新しいシステムや装置はそれを使いこなすと、それまでに体得するのに時間がかかったものが簡単に同じ結果を得ることができるようになります。それはそれで結構なことですが、しかし、同時に身につかないままに捨て置かれるものも多いことを銘記しなければなりません。
例えば電卓の普及により算盤がなくとも素早く計算ができるようになりました。
関数を扱うことができる算盤などは存在しないので電卓の方が便利ですが、しかし、子供のころに算盤塾に通った人は暗算が圧倒的に早くできます。
電卓も使いこなしてはじめて便利なものですが、関数などを使いこなしている方がどれだけいるでしょうか。つまり、単に暗算能力を育てることができなくなったにすぎないのかもしれないのです。
グーグルアースもしかりです。グーグルが使えないと島や岬がどう見えるのか判断できない船乗りが増えているかもしれません。
今回の過ちもグーグルアースの使い方を会得していないということでしょう。対景図を描く手法を体得している者にとってはグーグルアースの使い方を会得するのはそう難しいことではありませんが、ただ便利なだけで深く意味を考えずにいると使いこなすことができないのです。
そもそも役人としての仕事のやり方を理解していない
大切な方針立案に使う資料を安直に作ってしまおうという浅はかな小役人の発想がそこにあります。
なぜ国の施策を具体化する資料に米国の一企業が提供するソフトを使うのでしょうか。
国土地理院は測量法に基づいて測量行政を行う行政組織です。その国土地理院の測量結果をなぜ使わないのか、役人としての基本的な心構えができていないと言われても反論できないでしょう。
私が担当者なら素案はグーグルアースを使うでしょう。便利なツールは使うべきです。
しかし、最終的な確認は国土地理院の測量図を使います。あるいは計算結果を国土地理院に送って確認してもらいます。そしてその結果を根拠として文書を作成します。それが役人の仕事の進め方です。米国の一企業が提供するソフトに頼って仕事をするなどというのは論外です。
最近はウィキペディアでにわか勉強をしてテレビでコメントをする評論家も珍しくなさそうなのですが、国政を担当する国家公務員がその程度であっていいはずはありません。
誰が敵かも知らずに戦場に乗り込む緊張感の欠如
さらにはその調査報告書が誤りであったことが発覚して問題となっている最中に行われた地元への説明会で防衛省側の出席者が説明の最中に居眠りをするという失態を演じました。
この配備計画では地元に対して「住民に寄り添って丁寧な説明をしていく」と防衛大臣が繰り返し述べていたにも関わらずです。
この居眠りをした役人は、このような説明会に来ている住民がどのような立場の人たちなのかをまったく理解していません。
100人来れば99人は反対の立場の人々です。つまり、元々そんなものを認めようと思っていない人たちに理解を求めるための説明会であることを理解していません。
結局この問題は仕切り直しになるのでしょうが、この再スタートは生易しいものではありません。100メートル走のスタートラインを100メートル後ろに下げられたようなスタートになります。
反対派はこのことを争点としてくるでしょう。つまり、またもや本来の安全保障上の議論とは無関係な争点で論争が行われていくことになります。
このような役人がいること自体、現在の防衛省の緊張感の無さを披歴していると言ってもいいのかもしれません。
元凶は防衛大臣
その緊張感のなさの原因の一つは防衛大臣そのものにあります。
今月初頭、岩屋防衛大臣はシンガポールで日韓防衛相会談に臨み、韓国国防相と笑顔で握手した写真が新聞を飾りました。
まだ韓国海軍駆逐艦による自衛隊機への射撃管制用レーダー照射問題が解決していません。どころかこの会談でも韓国側は事実関係を認めず、むしろ自衛隊機の飛行を非難するという態度に出ています。
このような国と前向きに防衛協力ができるかどうか少しは考えるべきでしょう。人に銃口を平気で向ける者と仲良くできるはずがありません。
日韓の防衛協力体制が弱体化して困るのは日本ではないのです。
その写真を見た韓国国民はやはり日本に後ろめたいことがあったのだと思うでしょう。防衛協力をせよと言われる現場の自衛官たちはいつこちらに銃口が向けられるのだろうかと半信半疑で対応しなければなりません。現場がギクシャクするのは当然かと思われます。
徴用工問題で外務省が毅然とした態度をとっているにもかかわらず防衛大臣が一人「未来志向の関係云々」という美辞麗句で事の本質をわきまえない態度をとっている中、職員にのみ緊張感を持てと言っても無理なのかもしれません。
常に緊張感を維持するということは並大抵のことではありません。張り詰めてばかりいると柔軟性を失っていくことも事実です。
しかしありとあらゆる政府機関の中で、少なくとも防衛省だけは常に限界までの緊張感に包まれていなければなりません。
防衛省は大きな組織です。トップが1センチ揺れれば末端は数百メートルにわたって振れ回ります。
そのような緊張感が大臣はじめ背広の役人には欠如しているのでしょう。
危機管理論の立場から見ると
当コラムは危機管理の専門コラムであり、政治評論を行うコラムではありません。
したがって、この問題を危機管理論の観点から見てみます。
近代組織論は組織の構成要素として「共通目的」「貢献意欲」「コミュニケーションの体系」の3つを指摘しています。
近代組織論の父と言われるチェスター・バーナードの定義です。
緊張感を欠いた組織はこの構成要素のうち「共通目的」を見失っています。つまり、組織の構成員が、自分たちの目的は何か、その目的達成のために何をしなければならないのかをしっかりと理解していないということです。
間違いのない意思決定を行うためには、この共通目的を常に見つめ続けなければなりません。自分たちに与えられた使命は何かということを常に意識し、あらゆる決定はその観点から行われ、そして、一度決断が下されたならば迷いなくその決断を実行に移していかなければならないのです。
危機管理上の事態においてはこの自分たちの使命に立ち返って決断を下すということが特に重要になります。熟慮している余裕はないので即断即決が要求されるのですが、この際、自分たちの使命を忘れていなければ、たとえ最善でなくとも誤った決断にはなりません。
防衛省の職員、自衛官たちには常に自分に与えられた使命を見つめ続けることが要求されているはずです。だからこそ出航前の準備に忙殺されて疲れ切っていても、自分が航海中に当直に立つかもしれない海域の海図を検討し、対景図を作ってポケットに忍ばせるということを続けるのです。
私は出航の前の夜は船で過ごすことにしていました。
一日の作業が終わり、停泊中の信号当直員しかいない艦橋で海図を広げ、予定コースに広がる景色を頭で思い描きながら対景図を描いていくのは小さな楽しみでもありました。
出航前日の夜に船に戻っていれば、朝寝坊してしても大丈夫ですし、ゆっくりと眠ることができます。
緊張感を維持していくのにはそのようなささやかな準備が必要でした。
出航してしまうと「13分たったら起こせ。」というような生活が続きます。(メールマガジン「指揮官の休日」No.116「13分経ったら起こせ」をご覧ください。 https://q.bmv.jp/bm/p/bn/list.php?i=aegismm&no=all&m=149)
そのような習慣は私独特のものではありません。それが国を守るということだと皆思っていました。船に乗り組んでいる者はそれぞれそのような工夫をして準備をし、訓練に臨み、そして自分たちの部隊をちょっとでも精強な部隊に育てようと努力します。
末端でそのような努力をしているにもかかわらず、トップが自分たちに銃口を向けた相手とニコニコと握手したり、何千億円もの予算を必要とする重要装備品の導入に安直にグーグルを使ったり、その騒ぎの最中に説明会で居眠りをしたりということが続くのは、彼らが防衛省の使命を理解しておらず、そこから何も導き出していないということに他なりません。
緊張感を欠いた組織にこの国の安全保障を任せることはできません。
選挙が近づいています。喝を入れてやる必要があるのかもしれません。