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専門コラム「指揮官の決断」 

No.143 何のための会議だったんだろう?

東日本復興構想会議

 毎年6月25日になると思い出すことがあります。
 平成23年6月25日に公表された東日本復興構想会議の『復興への提言~悲惨のなかの希望~』という文書です。

 この日は私にとって特別な日だったので、その日にあったいろいろなことを覚えています。

 当時私は海上自衛隊に在籍中で、すでに退職の勧奨を受ける旨の意思表示をしており、そのための退職願も提出済みでした。
 この日は防衛大臣の退職の承認が下りたという内示を受け取った日でした。この日から1か月と1週間後、平成23年8月1日に後任の指揮官との指揮官交代の儀式を終えて最後の任地を後にしたのでした。

 その内示の電話が海幕からかかってきたときに私が読んでいたのがその復興構想会議の提言でした。

東日本大震災の持つ意味

 
 東日本大震災が日本の社会に与えた影響の凄まじさは皆様ご承知のとおりであり、お一人お一人がそれぞれの想いをお持ちのことと拝察いたします。
 多くの方々の運命を変え、直接被災しなかった人々の生き方にも大きな影響を与えました。
 
 そして凄まじい影響を受けたのは自衛隊も例外ではありませんでした。

 創設以来最大の動員となった大規模災害対処行動は、文字通り自衛隊にとっての闘いでした。10万名という隊員が動員されましたが、これは自衛官の半数でした。

 この間、日本をめぐる世界の安全保障情勢が変わったわけではありませんでしたので、半数の隊員が東北に動員された自衛隊は、残りの半数で我が国の防衛のための作業を火だるまになって行っていたのです。

 ただでさえ定員を確保できていない状態であったにもかかわらず、その半数を災害派遣でもっていかれ、その出動部隊への後方支援を実施しつつ、アデン湾・ソマリア沖海賊対処行動や尖閣諸島での領海警備、あるいは対領空侵犯措置などを継続していたのです。

 そもそもこの大規模災害派遣の動員規模は論理的に決定されたものではなく、政権の思惑で決まったものにすぎません。

 それが証拠に発災当日は最初に3万名の動員が下令されていました。私たちも直感的にこれはいくらなんでも少ない、追加が来ると考えていました。
 そしてそのすぐあと、動員数は5万名に増加し、次の日の朝には10万名となっていました。
 私たちは再び、直感的にこれは無理だと考えました。

 我が国周辺の安全保障を考えなくていいのであっても10万名は多すぎるのです。
 大規模災害では初動で全力投入が原則です。一人でも多くの人命を救うためには最初の72時間が勝負なのでそこに投入できる限りの兵力を投入すべきです。しかし、いくらなんでも最初の72時間の間に10万名を動員することはできません。即応できる兵力量には限度があります。
 そして最初の1週間が過ぎると、行方不明者の捜索よりも生存者の保護に重点を移さざるを得ません。せっかく津波や土砂災害で生き残ってもその後のケアが遅れて命を失うということにならないようにするためです。そしてその作業は長く忍耐力のいる作業となります。復興のための気の遠くなるような作業が併行して始まるからです。

 この際に兵力量の半数が現場に出てしまうと交代ができなくなります。なぜかというと残りの半分も遊んでいるのではなく、本来20万名で維持していた安全保障態勢を半分の兵力で維持しているからです。現場で疲れ切って下がってきた部隊をそれらの任務にすぐに投入することはできません。

 現場に投入される部隊が3分の一であれば交代が可能となります。三分の二の兵力で安全保障態勢の維持と交代準備を行って現場部隊と交代し、下がってきた部隊は急速練度回復のための休養と整備を行うことができます。
 東日本では半数が動員されたため、現場に向かった部隊も残って本来任務を引き受けた部隊もどちらも疲弊してしまったのです。それでも現場に出向いた隊員たちは、あまりの惨状を目の前にして、必死で任務に就いていました。
 
 自衛隊の実力が試されたのです。

 諸外国は発災後1時間以内に停泊状態にあった艦艇42隻を出航させた海上自衛隊に唖然とし、いつ爆発するか分からない原発の直上でヘリコプターから水を撒くという作戦を行った陸上自衛隊に驚嘆し、この間の警戒状況がどうなっているのかを確かめに来たロシアと中国の空軍は航空自衛隊のスクランブルが通常と変わらずに行われていることにがっかりしました。

 しかし、自衛隊はほぼ全力を出し尽くしていたことは間違いありません。

 この10万名という数字は冷静な軍事的判断ではなく、政権のパフォーマンスで決定された動員量でした。

リボンをつけて登場したメンバーたち

 そしてその政権が、初動のまずさを徹底的に批判されて、その挽回策として登場したのが復興構想会議でした。

 五百旗頭眞防衛大学校長(同時)を座長とした首相の諮問機関でもある有識者会議は座長以外は早々たる方々が呼ばれていました。特別顧問に梅原猛氏も名前を連ねています。
 座長以外と申し上げたのは、この五百旗頭氏は言動の軽さと話の長さでは定評のある学者だったからですが、案の定、初会合において東日本の被害の大きさに言及して「阪神淡路が可愛く見えるほど」などという表現を使って物議をかもしたりしています。
 
 私はこの構想会議が招集されたときに興味を持って見ていました。この未曽有の大災害に対してこれらの有識者たちがどのような対策を提言するのかについて大きな期待を持ったからです。

 実は私は海上自衛隊から出向して防衛省(出向当時は防衛庁)の内部部局で勤務したことがあり、この防衛省に設けられた有識者会議というものを見ていたことがあったので、その実態がうすうす分かるように思っていました。
 有識者会議はなるべく話題を呼ぶように多彩な層からそれなりの方々を選んできていただきます。
 もちろんそれらの方々の多くは防衛問題に関しては素人ですので、最初はいろいろなツアーを組んで様々なところを見ていただきます。
 しかしそこからすでに工作が始まっています。
 有識者会議のメンバーに問題点として認識してもらいたい箇所だけが選ばれ、その議論が当局の思惑通りに運ぶような説明がなされるのです。
 つまり官僚が作ったシナリオどおりに有識者会議の議論が行われていき、そして官僚が望んだとおりの提言がなされるのが普通です。

 しかしこの当時の政権は政治主導を旗印に掲げ、「官僚はバカだ。」(私の差別発言ではありません。当時の首相が財務大臣だったときに「霞が関はバカですから。」と発言したのは事実です。しかしこの財務大臣は国会で子供手当の乗数効果を問われて、消費性向で答えるという始末で、消費性向と乗数効果の違いすら分かっていないという経済学部の1年生以下の経済の認識しか持ち合わせないことが分かったのも同じく事実です。)と主張していた政権でしたので、官僚がこの構想会議をリードするとは思えず、どのような結論を出すのかに興味があったのです。

 私がまず驚いたのは、この会議の初会合の様子でした。
 テレビのニュースでこの会議のメンバーが部屋に入ってくる様子が映されたのですが、皆さん胸に紅白のリボンをつけているのです。
 私は呆れかえって声が出ませんでした。
 初会合に紅白のリボンをつけて出てくる会議なのかこれは・・・

 私がメンバーであったら喪章をつけて出席するところです。少なくともこのリボンを用意されたら、会議スタッフを呼びつけて叱り飛ばすところです。

 これでこの会議に参加する方々の覚悟のほどが分かりました。
 正直なところ、ろくな結論は出さないなと直感しました。

何をすべきかなど誰でも言える

 
 そして6月35日です。発表された提言を読んで「やっぱりね。」と一人で合点していました。
 具体的な中身はほとんどなく、政策課題の羅列に終始し、議論の分かれそうな論点については両論併記です。
 「防災」ではなく「減災へ」などというのは発表当時すでに言い古されたコンセプトです。長々と会議を開いて出てくるキャッチではありません。
 この会議のメンバーは被災した三つの県に一度ずつしか行っていません。つまり東京で机上の空論を戦わせたにすぎないのです。

 私は危機を機会に変えるのが危機管理だと主張してきました。それはちょうど優れた指揮官が敵の奇襲を受けても毅然と対応してこれを撃退し、返す刀で撤退する敵を追撃して壊滅させるのに似ています。

 企業であれば、未曽有の危機管理上の事態に遭遇するということは経営環境の激変に出会っているということであり、経営環境が変わったのであればそこにチャンスを見出すのが優れた経営者であることは言うまでもありません。輸出が好調で好景気の時に業績を上げるのに経営者の手腕は必要ありません。リーマンショック級の騒ぎが生じたときに、しっかりと利益を上げていけるのが優れた経営者です。

 このための危機管理論は切れば血の出るような具体性が必要です。つまり何を“what”だけではなく、それを如何に具体化するか“how”がしっかりとしていなければならないのですが、構想会議の提言には「何を」しか記述されていません。
 そんなことは誰でも言えるのです。どうすればそれが実現できるのかが示されなければ提言ではありません。

 錚々たるメンバーが集まったにもかかわらず、なぜこのようなお粗末な提言に終わったのかは分かりませんが、さすがに生じた事態が尋常ではなかったのでそれが限界だったのかもしれません。多分、何をするための会議であったのかの定義づけが曖昧だったのでしょう。
 メンバーが初会合で紅白のリボンをつけて現れた理由もその辺にあるかもしれません。

 

学生が可愛くない校長先生?

 
 五百旗頭という人物が防衛大学校長としてどの程度の校長なのかを示す文章があります。 
 平成19年の3月に行われた防衛大学校の卒業式において校長として行った式辞の原稿を次に掲げておきます。

 私も教育部隊の指揮官として何回も卒業式、修業式を執行しましたし、近隣にあった海上保安学校や国立高等専門学校の入学式や卒業式に来賓として招かれたことが何度もありますが、卒業生を送り出す校長の式辞としてこれほど中身のない式辞もまずないでしょう。
 引用と誰かに聞いたことしか述べていません。
 自分の想いがどこにも語られておらず、彼が学生たちをどれほど可愛いと思っていたのかがこの式辞で分かります。

卒業式典における防衛大学校長式辞

 五百旗頭防衛大学校長
 
 防衛大学校本科第五十一期生四百二十一名、大学院・理工学研究科前期(修士)課程六十一名、後期(博士)課程一名、ならびに総合安全保障研究科十五名の諸君が、本日それぞれの課程を修め、ここ小原台の生活に別れを告げる時を迎えました。本校の全教職員とともに、心より諸君にお祝い申し上げます。おめでとう。また、この日を迎えた学生諸君をこれまで育て、支え、励ましてこられた御両親・御家族の皆様には、とりわけ感慨深いものがあると拝察します。心からなる感謝と祝意を表したいと思います。

 本日この式典に、国務多端の中、安倍内閣総理大臣、久間初代防衛大臣のご臨席を賜りましたこと、ならびに小泉前内閣総理大臣、山崎正和先生をはじめ、内外多数の来賓各位にご参列いただきましたことは、誠に光栄であり、厚く御礼申し上げます。

 本日総計四百九十八名が無事卒業できたことはもとより、卒業生が今後、国と国民のため働くことができますならば、それはこんなにも多く、本日ここに集まり励まして下さる立派な方々の支えがあってこそ、と深く感謝する次第です。

 本日卒業の五十一期生諸君は、一九八〇年代中葉に生を享けましたが、それは歴史が冷戦の終結に向っての歩みを速めた時期のことでした。諸君は社会の問題を認識しはじめる小学校高学年の頃に、神戸地震やオウム事件による安全神話の崩壊に遭遇し、そして多感な高校生の時に911テロを目撃しました。そういう世代です。諸君は、小泉内閣ついで安倍内閣が「テロとの闘い」のため自衛隊をインド洋へ、そしてイラクへ派遣し、さらに北朝鮮による核とミサイルの危機に対処する時代に、ここ小原台での学生舎生活を送ってきました。諸君は冷戦下の安定した時代の戦後日本の子というよりも、冷戦後の危機あいつぐ時代に育ち、二十一世紀の流動化する世界に対処することを任務とすべく運命つけられているように見えます。

 諸君は四百二十一名の近年まれな多数をもって、本校創立半世紀を越える五十一期生の卒業を画し、しかも防衛省移行後はじめての防大卒業生となりました。この国の二十一世紀の多難な航海の中で、諸君が新たなる活力をもって尽力することを期待します。

 なお、本日の卒業生には、世界各国からの留学生二十二名が含まれております。異国での勉学が容易でない中、言語と文化のハンディを越え、成績優秀者に与えられる学科褒賞を受けた留学生までいること(ベトナムからのミン学生でありますが)、まことに喜ばしい限りです。本日卒業した留学生諸君の今後の母国での活躍、そして母国と日本との架け橋として働かれることを祈念いたします。 本日の式典には、ホームカミングディのよき慣行により、第八期生の諸先輩が列席しておられます。八期生と九期生は、本校本館の床に刻み込まれている「廉恥、真勇、礼節」の綱領を学生自らの手で定めました。槇初代校長の下で防衛大学校の精神的伝統を築いた世代です。

 試練に直面して新たなる出直しを想う時、アメリカ人は独立革命に、フランス人は大革命の精神に立ち帰ります。わが国はそのような立ち帰るべき魂の拠点につき国民的合意を持ちませんが、幸いにも防大には創立期に築かれ、脈々と享け継がれてきた精神があります。槇校長は、学生諸君に対し「特殊な軍事専門家である前に、よき紳士(・淑女)であれ」と訓されました。戦前の歴史への反省に立って「広い視野、科学的思考力、豊かな人間性」が防大の教育方針として重視されてきました。

 幹部自衛官として歩む諸君は、二つのあい反する基本的責務を担うことになると思います。一つは、何かの際には、国と国民の安全のための最後のよるべたるべく働くことです。そのための覚悟と鍛錬には厳しいものがありましょう。もう一つは、民主主義社会における自衛官として政治の命に服して任務を達成するプロフェッショナリズムとシビリアン・コントロールを奉じ、国民と苦楽を共にし共感を培う姿勢を貫くことです。この二つを両輪とすることは容易ではありませんが、諸君の諸先輩はこれを立派に築いてきました。本年はじめ来校した幕僚長の一人は諸君への講義の中で「死ぬことは何でもない。本当に悩むのは、いかに任務を達成するかだ」と言い切られました。

 先週、世界中の士官学校生が本校に集い、国際士官候補生会議(ICC)が開催されました。そのレセプションで世話をしていた女子学生に、「この四年間は厳しかったか」と尋ねました。「はい、本当に厳しかったです」。「では、やっと防大から解放されるのが嬉しいか」。女子学生の答は「つらかっただけに、その一つ一つを越えてきたことが貴重で、かえって愛着を覚えます」でした。この言葉を口にした学生だけではなく、多くの諸君にとって小原台は、つらかったこと、嬉しかったことを超えて魂の故郷と意識されることでしょう。幹部自衛官として、人としての試練に遭遇する時、この魂の故郷に立ち帰り、そして屈することなく再出発して下さい。

 諸君がことある毎に歌う創立期の先輩の作詞した学生歌、「朝に勇知を磨き、夕に平和を祈る、礎ここに築かん、あらたなる日の本のため」の言葉どおり、諸君がこれからの生涯を通じて健闘することを祈り、私の式辞と致します。

   平成十九年三月十八日 

                   防衛大学校長  五 百 旗 頭  真

 
 ただし、五百旗頭氏は歴史家としては優れた見識をお持ちのようで、震災当時に首相の有事の指揮官としての適格性を問題視する議論が百出していたことに関し、応仁の乱や戦国乱世を振り返りつつ「国中が血で血を洗う争乱で乱れに乱れていた。今の首相がバカかどうかという問題のレベルではなかった。」として、政権首相の資質を問う場合ではないとの見解を示されています。
 
 応仁の乱の時代や戦国時代とは異なり、政権を選んだのは国民であり、そのツケは私たちが払わねばなりません。

 民主主義制度下においては、愚かな政権を誕生させるのは国民が愚かだからです。

 首相の資質を問うのであれば、まず自分自身を評価しなければなりません。

 その意味で五百旗頭校長の指摘は極めて当を得た指摘だと考えています。

 ただし、ただそれだけです。