TEL:03-6869-4425

東京都港区虎ノ門1-1-21 新虎ノ門実業会館5F

専門コラム「指揮官の決断」

第183回 

言っちゃダメなこと、やっちゃいけないこと

カテゴリ:

うんざりするけど、またコロナの話題です

コロナウイルスの感染者増加に歯止めがかかっていません。3月31日についに国内感染者数が2000名を超えました。しかし、日本が新型コロナウイルスとの戦いを始めてから2か月経つのに、まだこの数字であるというのは諸般の事情を考えると奇跡のように見えます。

米国は3月11日の時点ではまだ1000人を少し超えた程度でした。その同じ日に日本は600人強の感染者がいました。しかし3月31日、日本が2000人を超えたと言っている時に米国は16万人を超えています。

これは日本の初動の方針の勝利でしょう。37.5度の発熱が4日間続くまでは検査対象としないという方針はマスコミや野党の猛烈な批判を浴びましたが、そのことが病院の待合室での感染を防いだと考えられています。

この結果、発症していない感染者が静かに社会に増えていき、免疫を持つ人の数も徐々に増えていったのでしょう。

さらに、法律で命令されたわけでもないのに自粛を要請されただけで日本の社会は見事に反応したことも爆発的な感染を生んでいない一因でしょう。オーバーシュートと呼ばれる爆発的な感染が生じてからでは外出を禁止しようと都市を閉鎖しようとあまり効果があがりませんが、日本は自粛要請によって自主的にロックダウンに近い状態を作り出してしまったため、食料や生活必需品が安定的に供給されたまま秩序をもって街が静まり返っています。

もともと日本では外出先から帰宅すると靴を脱いで家に上がりますし、夏は高温多湿で汗をかくのでシャワーを浴び、冬はセントラルヒーティングが普及していなかった時代からの習慣で風呂で体を温めようとするので、基本的に毎日入浴することになります。つまり基本的な衛生観念が、アフリカや東南アジアのみならず欧米ともかなり違っていることも理由かもしれません。

私は感染症については素人ですので、この事態に際しては統計学的な見地、あるいはORの視点で事態を観察することしかできませんが、しかし、この事態に政治や報道がどうかかわっていくのかという観点には高い関心をもって観察してきました。

気づきの点は山ほどありますが、当コラムが危機に際して毅然と対応する経営トップを応援するという目的で執筆されている点に鑑み、そのために重要と思われる論点に絞って綴っていこうと考えています。

言っちゃダメなこと

まず、危機管理上の事態におけるプレスへの対応についてです。

3月25日夜、東京都知事が臨時の記者会見を開き、一日で41人の感染が判明し、10人以上の感染経路が不明であるとして感染爆発の重大局面であるという認識を示しました。

この会見は説明が丁寧で分かりやすかったのですが、問題は同席した専門家の発言でした。

この都知事の会見には国立国際医療研究センター病院国際感染症センターの大曲貴夫センター長が専門家として同席していました。大曲センター長は感染症の専門家であり、その説明も分かりやすく、都知事の幕僚としては最適な専門家であることは疑いないのですが、たった一言、問題とすべき発言がありました。

誤解の無いようにその発言の前後を端折らずに再現します。

「この病気の怖さというのは、WHOが出している数字でも出てきますけど、本当に8割の人は、本当に軽いんです。歩けて、動けて、仕事にもおそらく行けてしまうし、軽いんですよね。」

さらにこの後に、残りの2割は確実に入院が必要となり、全体の5%は集中治療室での治療が必要となり、かつその重篤化するのがおそろしく早いという解説をしています。

この発言の問題が何かというと、感染者の8割が極めて症状が軽いということを強調しすぎたことです。大曲氏は2割の感染者が必ず集中治療室にまで行かねばならず、かつ、5%の患者が恐ろしい速度で重篤化してしまうことの危険性を強調する意味で8割の軽さを強調し、本人が感染に気づかずに多くの感染者を作ってしまう危険性を語りたかったものと思われます。

その本旨はよく理解できます。しかし、専門家がこの発言をするのは問題です。

症状が軽い、あるいは発症しないのは若い人に多いことが知られています。その若者たちに「あなた方は感染しても、とても軽い症状で済んでしまいますよ。」というメッセージを与えかねないからです。

日本の若い人たちは基本的には優しいですから、祖父母と同居している若者たちには「十分に気を付けなさい。」というメッセージとして伝わったはずです。しかし、そうではなく、都会で一人暮らしをしている若者たちには、悪気はないのですが「俺たちは感染しても大丈夫だ。」というメッセージとして伝わってしまいます。専門家がそのように誤ったメッセージとして受け取られかねない発信をしてはなりません。

大曲氏の説明は分かる人には分かるのですが、分かっていない人には誤ったメッセージとして伝わるおそれが極めて大きいのです。

専門家が解説するとき、専門家の論理で専門的に解説することがあります。専門家が学会などで発表する際は、聞いている相手も専門家ですからそれでいいのですが、記者会見など一般聴衆を相手に解説を試みようとするとき、それはやってはなりません。

専門家が一般人を相手に話をするときには、専門家の論理を一般人に分かりやすい例に置き換え、専門的な言葉を一般人が理解できる言語に翻訳して話をしなければなりません。そして、本当の専門家であればそれが可能なのですが、生半可な専門家にはそれができません。

本当に分かっている人の説明はおそろしく分かりやすく、自分もよく理解していない人の説明はやたら専門用語やカタカナが並ぶだけで分かりにくいのが常です。

私が大学生の頃、産業社会学の講義を尾高邦夫先生から直接聴くという、今考えるととんでもなく貴重な機会を得たことがあります。

初めての講義のとき、極めて著名な尾高教授の授業で緊張して出席して聴いていたところ、とても簡単な授業だったので拍子抜けした覚えがあります。

しかし、当時取っていたノートは今読み返しても産業社会学の最高峰の講義であったことを彷彿させるものであり、その一言一言に込められた意味の深さが大学生、大学院生、社会人と順を追って深くなっていくというとんでもない講義だったのに気が付いたのは卒業後かなり経って、40代も半ばになってからでした。

一方、自分が大学で講義をするようになって気を付けているのは、相手が専門家でない場合には専門用語や専門的な概念に逃げ込まずに話をするということです。

本当によく分かっていないと、それを分かりやすく説明するということは難しいものです。

大曲氏は半端な専門家ではないので、その説明は分かりやすいのですが、しかし、たった一言、強調したいことがあるばかりに誤ったメッセージとして受け取られかねない発言があったのが残念です。

危機管理上の事態において、一般の人々に事態を分かりやすく伝えるということは非常に重要であり、慎重の上にも慎重でなければなりません。

その意味において現政権はメッセージの伝え方が上手くありません。

まだ横浜港に横付けしたクルーズ船の乗員・乗客の感染の検査で騒いでいる頃、マスコミや野党が、なぜ検査能力を確保しているのに検査数が増加していかないのかと猛烈な批判を繰り広げている時の政府の説明はうまくありませんでした。理解しないマスコミや野党議員のレベルの低さにもびっくりしましたが、一般の国民に十分理解できる説明ぶりではなかったことは間違いないでしょう。

私はかつて制服を着ていた頃に新型インフルエンザへの対応をしたことがあり、その際に感染症を専門とする医官からいろいろ教わっていたので厚労省が何を目指しているのかを何とか理解しましたが、そのバックグランドなしにはやはり誤解したかもしれません。

結局、大曲氏の意図とは逆に、その重篤化することの恐ろしさは伝わらず、都知事は30日夜に改めて臨時の記者会見を開いて若者たちのカラオケやライブハウスの利用を自粛するよう訴えなければなりませんでした。この病気の重篤化することの恐ろしさは志村けんさんが亡くなることにより初めて若者たちに伝わったのではないでしょうか。

もう一つ、言っちゃだめなこと

政府が学校の休講を要請したのち、国会ではそのことを巡った議論が展開されました。共稼ぎの家庭はまだともかく、シングルマザーの家庭ではこの措置は大打撃だったはずです。そのことを議論するのは国民の代表として当然でしょう。

しかし、呆れたのは蓮舫議員の安倍総理に対する質問で、「この措置に何らかの科学的根拠があるのか?」というものです。

新型コロナウイルスは人類が初めて出会ったウイルスであり、その正体はまだ皆目わかっていません。これに対抗するにあたって科学的根拠などあるはずはありません。あたかも科学的根拠がなければ何もしてはならないと言わんばかりの質問にはびっくりです。

危機管理上の事態における意思決定は当コラムでも何回も指摘しているとおり、まともな情報が無いなかで連続的に行っていかなければなりません。そして、一度ボタンの掛け違いを生じると状況はスパイラルに悪くなるので、意思決定を誤ってはならないと繰り返し繰り返し述べています。そして、その意思決定を行うに際しては、論理的な意思決定過程というものがあり、その過程を踏むことにより、いついかなる場合においても論理的な意思決定ができると主張してきました。その意思決定過程が弊社のクライシスマネジメントシステムの重要な構成要素となっています。

しかし、私は「論理的」であることの重要性は主張してきましたが、その意思決定が「科学的」であることを要求したことは一度もありません。危機管理上の事態において、正確な情報や科学的根拠などを求めると意思決定ができずに事態を急速に悪化させるだけだからです。正確な情報や科学的な根拠など得ている余裕がないからこそ、論理的な思考過程を踏んだ意思決定が必要なのです。蓮舫議員は議論のテクニックには長けているものの、決定の本質には疎く、また危機管理というものがどういうマネジメントであるのかを理解できない議員であることが披瀝されてしまったようです。

やっちゃダメなこと

安倍首相夫人が知人と個人的にレストランで会食し、そのレストランの庭で桜を眺めていたことがスクープされ顰蹙をかいました。

その週刊誌ネタ程度の話を国会で追及する野党はこの事態を真剣に捉えているとは思えません。ただスキャンダルのネタを得たことを喜んでいるようにしか見えないのです。国会で追及するに足るような話ではありません。

しかし、その追及に対する首相の答弁もお粗末極まります。

レストランの庭にあった桜を見ていただけであって、自粛が要請されている公園で花見をしていたわけではないので問題ないとし、さらに道義的責任を追及されると、レストランで食事をしてはいけないのかと声を荒げています。

首相に申し上げますが、この時期、首相夫人はレストランで食事などをしてはなりません。

公園ではなくレストランだったから問題ないというのは詭弁に過ぎず、この時期のレストランでの会食は、㈱イージスクライシスマネジメントの代表には許されても首相夫人には許されません。両者の負っている社会的責任や影響力の重さはアリとゾウほどに違います。

ファーストレディは有事にあってはそれなりの立場での行動が求められます。防護服に身を包んで病院を回って医療関係者を激励しろとまで言いませんが、それくらいの覚悟を持った行動が要求されるのであって、能天気に私的な会食を楽しむなどはファーストレディのすることではありません。これは法律や社会的道義の問題ではなく、ファーストレディの負ったノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)の問題です。

巷ではファーストレディではなくワーストレディと呼ばれているようですが、一国の首相夫人をそのように呼ばせることなどを許してはならないのがファーストレディです。

ご主人は政敵と戦わなければならないので、あらゆる非難中傷を浴びることは致し方ありません。しかしファーストレディの真摯な態度は政敵でも認めざるを得ないものでなければなりません。

ご主人の支持率は低くなっても、ファーストレディだけは国民から絶大な支持を得るということでなければなりません。湾岸戦争を戦ったジョージ・ブッシュ大統領のバーバラ・ブッシュ夫人はそのようなファーストレディでした。彼女はアメリカのお母さんと慕われたのです。

ファーストレディにはやってはならないことがあり、我が家の司令長官とは全く異なる行動規範が求められていることを自覚しなければなりません。

(なぜ我が家に司令長官が君臨しているのかについては弊社配信のメールマガジンのバックナンバーを読んでいただければお分かりになります。)