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専門コラム「指揮官の決断」

第194回 

言葉の裏にあるもの

カテゴリ:

言語によるコミュニケーション

私たちは意思の疎通を図るために言葉を使います。眉の動かし方や背中で語るということもないではありませんが、日常の情報伝達、あるいは情報の収集などはやはり言語によることが圧倒的です。

このようなコミュニケーションを行うのは人間に限ったことではないようで、クジラは数百マイルはなれた他のクジラと音声によるコミュニケーションを取っていることが分かっていますし、イルカも特殊な周波数の音によるコミュニケーションを取っていることが分かっています。

群れで行動する哺乳類も何らかのコミュニケーションの体系を持っていると推定されていますが、どういう手段なのか、どういう文法なのかはいまだに解明されていません。

ところで、人間が行う言葉によるコミュニケーションほど複雑怪奇なものもありません。

事実に反する内容を言葉にして伝えると、それは「嘘をついた」ということになります。

面倒なのは事実と真実は往々にして一致していないことで、事実に反していなければ真実とは異なっていても「嘘」ではないので法的に責められることはありませんが、言葉が事実と異なっていることを「折れた煙草の吸殻」が証明してしまうことがあったりして、本当に面倒です。

何故いきなりこのような話題を持ち出してきたかというと、言語から得られる情報に含まれるバイアスを的確に評価できないと危機管理における情勢の認識に錯誤を生じる恐れがあるからです。

もともと当コラムでは、危機管理上の事態における情報の性格について、「前後の脈絡がなく、バイアスがかかっていることが多い」として取り扱いに注意する必要があることを指摘しています。特に言語によってもたらされる情報にはその傾向が顕著です。

言語を使った表現が始末が悪いのは、言外に意味が込められていることがあるからです。

それは表意者が意図している、いない、に関わらず、表意者の本音が込められていたり、あるいは本音を隠すために言語が用いられることがあるからです。時には表意者が自分で気づいていない本音が現れていることがあり、興味が尽きません。

検察官の処分の軽重

当コラムにしては珍しく抽象的な話になっていますので、具体例を挙げます。

北郷源太郎という方がいます。月刊誌『軍事研究』に毎号「市ヶ谷レーダーサイト」というコラムを寄せておられます。この月刊誌は世界の安全保障情勢に関し、主として軍事の面から取材した記事によって編集されている雑誌で、その専門性の高さでは群を抜いており、単なる軍事オタクの読みものではありません。

この月刊誌にかなり昔からコラムを寄せているのが北郷源太郎氏です。

コラムは主として防衛省及び陸海空自衛隊の高級幹部の人事に関する情報や予測について語られることが多く、次の幕僚長は誰だとか、方面総監の人事、あるいは内局の局長人事などの予想がよく当たると評判でもあります。

私はかつて自衛隊に30年在職しましたが、人事に関する話題が好きではありませんでしたし、その類のうわさ話には関心をもってきませんでした。したがって、この雑誌を軍事技術の参考として読むことはあっても、北郷氏のコラムを読むことはまずありませんでした。

ただ北郷氏は人事だけのコラムを書いているのではなく、時折時事に触れたコラムも書かれています。

北郷氏は7月号のコラムで東京高検の黒川検事長の話題に触れ、「処分が訓告だったのは全く納得がいかない。」と憤激されています。かつて同じ賭け麻雀で処分された陸上自衛官が三段階重い停職処分であったことから「自衛官を地下人として見下していることの表れでなくして何であろう。他省庁のことは調べきれなかったというのはあり得ない説明である。防衛省・自衛隊関係者は断固として見過ごしてはならない。」と檄しておられます。

この方は熱烈な改憲論者であり、自衛官にもっと名誉を与えるべきだと常日頃から主張されているので、このようなコラムになるのでしょう。

しかし、30年間制服を着てきた私の感覚からすると、北郷氏こそ自衛官を貶めています。

同じ規則違反をして検察官と自衛官が同じ処分を受けるのであれば、検察官と自衛官は公務員として同類だということになります。

当コラムでは検察官の正義感の強さなどに言及したことがありますが、しかし、あらゆる公務員はそれなりの職務に対する忠誠心をもって職務に当たっており、検察官に特徴的なのが巨悪を許さないという正義感であるということに過ぎません。

検察官の職務は検察庁法に規定されるほかは国家公務員法によって規律されます。

検察官には特別な服務の宣誓が要求されていません。一般職国家公務員と同じ服務の宣誓をします。

一方の自衛官は国家公務員法ではなく自衛隊法の適用を受け、隊員の服務の宣誓を行うことが義務付けられています。

そこには「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。」と書かれています。つまり、命がけで任務の遂行にあたり、我が国の独立と平和を守ると宣誓しなければならないのです。内心の自由の問題ですので、この宣誓は強要されることはありませんが、宣誓しないと入隊できません。つまり、制服を着た者はすべてこの宣誓をしています。

北郷氏はこの宣誓をした自衛官と一般職公務員の服務の宣誓をしている検察官を同列に扱っています。

北郷氏はとんでもないと言われるかもしれませんが、自衛官に要求される覚悟がどのようなものなのかという本質を理解されていません。つまり、彼はご自分では意識されているかどうか分かりませんが、自衛官と一般職公務員の覚悟の差を評価していないのです。

私は難関の司法試験に合格して弁護士ではなく公務員として巨悪に対峙しようとする検察官に対する敬意は持ちますが、彼らと同じ覚悟で任務に当たっていると考えたことは一度もありません。

幹部自衛官は若い頃には、自分が最期の時にうろたえず自分の職責を果たし続けることができるのだろうか、自分は部下の前で卑怯な振る舞いに出たりせずにその時を迎えることができるのだろうかという怖れと闘い続けなければなりません。

そのような公務員が他に存在するとは思えません。

北郷氏の見解は隊務に就く自衛官の誇りを著しく傷つけるだけでなく、隊内での教育にも大きな影響を与えかねません。

どの公務員よりも厳しい職務上の要求に耐えるために熾烈な訓練を行い、厳格な規律を強要しなければならないのに、「君らはそこいらの公務員と同じだ。」では隊員を教育できません。同じ規律違反をしても自衛官は厳しく処分されるのでなければ、鋼鉄の規律を維持することが難しくなります。同じ「官」がつくからと言って、また検察官は司法試験に合格しなければならないからと言って、その職務における責任を同列に扱うことほど自衛官の尊厳を傷つけるものはありません。

北郷氏はあるコラムで自衛官に諸外国の軍人並みの栄誉を与えよと主張されています。ご本人はそれで自衛官を適切に評価しているつもりなのでしょうが、しかし、基本的に検察官と同列に扱っているというご本人も気付いていない本音が今月のコラムに現れてしまっています。

政治家の勘違い

北郷氏は改憲論者ですが、多くの改憲論者の主張についても同様です。

自民党の改憲論者は憲法改正に対する思いを問われて、「出動する隊員に、君たちは違憲かもしれないけど、頑張ってきてくれ、とはとても言えない。」という方が多いのですが、これも政治家の勘違いです。

自衛官は政治家に激励されることに尻尾を振るわけではありません。それどころか、出動時に政治家が激励と称して見送りに来たりするのは部隊にとっては迷惑なのです。

防衛の現状を知るために視察に来るのは歓迎ですが、激励や慰問に来られるのは本当に迷惑です。部隊が持っている有権者の数に関心があるだけなのが明らかだからです。

自衛隊が違憲の存在だと公然と中学や高校で教えられていた頃、吉田茂首相が防衛大学校1期生の卒業式で述べたという言葉が残されています。当コラムではすでに紹介していますが再度紹介します。

「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。

しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。

言葉を換えれば、君達が日陰者である時の方が、国民や日本は幸せなのだ。

どうか、耐えてもらいたい。一生御苦労なことだと思うが、 国家のために忍び堪え頑張ってもらいたい。

自衛隊の将来は君達の双肩にかかっている。しっかり頼むよ。」

吉田首相は君たちは国民から感謝されることもないかもしれないが頑張れと言ってのけたのです。

しかし、こちらの言葉で歴代防衛大学校卒業生は奮起して現在の自衛隊を築き上げてきました。

自民党の政治家たちが自分の言葉で隊員たちが激励されて勇気づけられると思っているのだとすると、その人たちの民意を汲む能力には何も期待できません。

隊員たちは政治家の激励などまともに聞いてはいないのです。言葉が心に響く政治家など現代では絶滅危惧種です。

美しい言葉による欺瞞

2015年の一連の安全保障関連の法令整備に際し、これを「戦争法」として反対した野党の議員の国会での質疑でとても気になるフレーズがありました。「自衛官の皆さんの安全をどう保障するのか。」というフレーズです。

この時以来、自衛隊の海外派遣が取りざたされるたびにこの言葉が使われます。

この野党議員たちが任務に就く自衛官たちの安全を本当に心配しているはずはなく、単に反対の論陣を張るためにこの欺瞞に満ちたフレーズを使っているのは明らかです。

つまり、彼らの発する言葉の本音はまったく別のところにあります。

民主党政権で首相を勤めた菅直人氏が退陣に際して「とりわけ自衛隊が国家、国民のために存在するという本義を全国民に示してくれたことは、指揮官として感無量であります。」と述べたのも、現役自衛官にとっては何の励ましにもならず、むしろ「知らなかったのはお前だけだ!」と憤った者が多かったはずです。

経営者はご用心

つまり言葉はその表現とは逆の意味を含んでいたり、あるいは逆のメッセージを相手に与えたりします。

このことに経営者は敏感でなければなりません。ご紹介したように政治家にはそのような感覚を期待することはできませんが、経営者は自らの言葉の意味するところをよく考えるべきです。

不用意な発言が思わぬ影響を与えてしまうことがあります。

最も困るのが、自らの言葉が思わぬ誤解を与えることです。良かれと思って発言した内容が、まったく逆の効果となって現れることほど怖いものはありませんし、その際に感ずる無力感の大きさも半端ではありません。

言葉の怖さは発言する人によってその影響が異なることです。

記者団への対応で、石原慎太郎元都知事や橋下徹元大阪府知事に許される発言であっても、小池知事が発したら大騒ぎになるものもたくさんあります。「排除」と言っただけで大騒ぎになりましたからね。

経営者はメンバーに対して、たとえどのような言葉を使っても、その想いが曲解されないように日常からのコミュニケーションに意を用いていなければなりません。

そのような会社は見ていてすぐに分かります。「ボスが何も言わないのは、こういう意味だよ。」などと社員がいろいろと考えて行動しているのです。あるいは「社長があのような言い方をしたのは、どういう意味だろう。」などと推し量ったりします。

つまり、トップの言葉を額面で考えるのではなく、その裏にある真意を考えようとするのです。

そのようなコミュニケーションができる組織づくりに経営者は努力すべきです。

そのようなコミュニケーションが取れる組織では言語によるコミュニケーションは少なくて済みます。いわゆる阿吽の呼吸ができる組織になっているからです。

真のリーダーになるのはそれほど難しくない

どうすればそのようなコミュニケーションが取れる組織を作ることができるのでしょうか。

とても簡単なことです。

部下一人一人を実存的な個人として可愛いと思うようになるかどうかだけのことです。

たかだか100人くらいの組織で、部下一人一人の名前を呼べないような経営者にはそれはできません。

私はかつて請負業者から派遣されてくる作業員を含めて600名の部下の名前をファーストネームでも呼ぶことができました。着任後3か月です。

任官して最初に乗った船の部下80名の名前と顔を一致させたのは3日間でした。

やる気さえあれば誰にでもできます。

私の候補生学校の同期は、佐世保でイージス艦の艦長の時に乗艦してきた新入隊員と10年後に東京のある会社で再開して、しっかりその時の乗員であることを覚えていました。300人いる乗員のトップの艦長と最下級の乗組み隊員の関係だったにもかかわらずです。着任時の申告以外に会話をしたことはなかったはずです。それを10年後にお互いに私服を着ていたにも関わらず、彼はその時の新入隊員として部下になった人物であることを認識していたのです。

血の通った組織のトップとはそういうものです。