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専門コラム「指揮官の決断」

第202回 

不都合な真実

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ドキュメンタリー『不都合な真実』

今回の表題『不都合な真実』は2006年にアメリカで制作されたドキュメンタリー映画です。クリントン政権で副大統領であったアル・ゴア氏が主演し、地球温暖化に対する警鐘を鳴らすスライド講演を彼が行い、またその生い立ちを遡るビデオを取り交ぜる構成で、アカデミー賞を受賞し、彼もノーベル平和賞を授与されました。

地球温暖化の問題は極めて複雑で、本当に温暖化しているのかどうかすらまだよく分かっていません。

確かに日本近海の海水温度が上昇しており、台風などが勢力を落とさずに上陸するため大きな被害をもたらしていますが、地球規模の環境変動は去年・今年というようなスパンではなく、数百年のスパンで観測しないとよく分からないのが本当のところでしょう。データとしては、地球は氷河期に向かっていることを示すものもあるそうです。

当オフィスは環境問題は専門外ですので、ここで環境問題を取り上げて、地球環境の危機だなどと強引に危機管理に結びつけようと考えているわけではありませんが、しかし、論理的な発想でこの環境問題を見つめ直して疑問を呈することはできそうです。

アル・ゴア氏のドキュメンタリーは確かに世界中の人々に地球環境の問題に眼を向けさせるきっかけとなりました。それは大変意義のあることです。

しかし、彼が付けたタイトルはいかがなものかと考えます。

この『不都合な真実』は続編も作られ、環境問題について様々に語られています。

しかし、アメリカにとって不都合な真実については封印されたままです。

米国にとって不都合な真実

例えば、米国は反捕鯨活動がもっとも過激な国ですが、世界的にクジラの数が激減した責任は日本にあるのではなく、米国一国にあることを彼らは沈黙して語りません。

日本の捕鯨は、大きな牧場などを作ることができない酪農産業に向かない地形である日本が貴重なたんぱく資源を得るためにのみ行われてきました。

日本の捕鯨技術は世界でトップの磨き上げられた技であり、捕獲した鯨を船上で解体して肉や骨などを保存する技術もトップクラスです。肉は食用とされ、骨は薬や様々なものに応用されて利用し尽しています。無駄になるのは解体した時にデッキに流れる血液だけだとも言われています。

一方でアメリカの捕鯨はどうだったでしょうか。

ペリーが軍艦を率いて日本に現れて徳川政権に開国を迫ったのは、西太平洋で航海する米国の捕鯨船の補給の必要があったからです。

当時はそれくらい盛んに捕鯨を行っていたのが米国です。ハーマン・メルヴィルの『白鯨』が書かれたのもこの頃です。

彼らは鯨を食すことはありません。何のために獲っていたかと言うと鯨油を取るためです。ランプを灯すのに鯨油が必要だったのです。

その鯨油を取るためだけに鯨を捕獲し、油を搾ったら捨ててしまっていました。つまり彼らは鯨の肉を本国へ持って帰る必要などなかったのです。しかし彼らの捕鯨のためにシロナガスクジラは絶滅寸前にまでなってしまいました。

これは米国にとって「不都合な真実」です。

その後、石油やガスがランプの燃料として実用化されるようになると米国は鯨に関心を失ってしまいました。

ところが近年、資源問題として捕鯨が問題視され、世界的なムーブメントに逆らえず、国民の蛋白源を補う目的であった捕鯨が日本においても禁止され、資源としての鯨の実態を把握するための調査捕鯨のみが許可されるに至りました。

しかし、米国やオーストラリアはこれさえも快く思わず反対運動は激しく続いています。ところが科学的調査により鯨の数は確実に増えていることが分かってきていて、反捕鯨団体にとって「不都合な真実」となっています。

米国やオーストラリアの反捕鯨運動を支持する人々の大半は資源問題ではなく、よりメンタルな部分で反対しています。曰く「モリを打ち込まれた母クジラから子クジラが離れようとしない。」とかその類です。クジラがかなり高度な知能を持っていることが分かってきた近年、その風潮は一層強まっています。

しかし、彼らはそこにも「不都合な真実」が隠されていることには目を向けません。

30年近く前に米国に駐在していたことがあります。

海上自衛隊の連絡官としてベンシルバニア州にあった米海軍の基地で勤務していました。

そこは米海軍と国防省のロジスティックスの基地でもあり、軍人は300人程度でしたが、シビリアンは数千人が働いており、私のオフィスにもシビリアンの職員が多数勤務していました。

ある日いつものとおり出勤すると、軍人は出勤しているのですが、男性のシビリアンの多くが休暇をとって出勤していませんでした。女性の職員に尋ねると、ペンシルバニア州で鹿猟が解禁になったのだそうです。男たちは一斉にライフルを持って山の中に入ったのです。

私はびっくりして、「あなた方米国人は。私たち日本人が食べるためにクジラを獲ることにはあらゆる嫌がらせをするけど、趣味でバンビのお母さんを殺すことは平気でやるんだね。」と言うと、彼女たちは一応に嫌な顔をしました。嫌な顔の意味が二通りあり、鹿猟を好まない女性もいれば、私の皮肉が気に入らない女性もいるのです。

これも米国にとって「不都合な真実」なのでしょう。

ちなみに、北米のミンクが絶滅しかかったのは、米国の上流階級の奥様方を飾るためだけに乱獲が行われたからです。

政治家にとって不都合な真実

話を日本に移します。

新型コロナウイルスへの対応で政権はアタフタしています。GoToトラベルの前倒し実施などはその典型でしょう。ウイルス対策についてはまだ分からないことが多すぎて行き当たりばったりなのは仕方ありません。

しかしGoToトラベルキャンペーンのお粗末さは話になりません。前倒しで始めるというから準備万端なのかと思ったら、まだどの宿や店がその対象になるのかも決まっていないというお粗末さです。日本の官僚機構はかつては優秀でしたが、最近の官僚のお粗末さは話になりません。仕事のやり方を知らなすぎます。私もかなり長い間官僚機構の一部で仕事をしていましたが、当時の官僚たちは、少なくとも根回しや事前の調整は見事にやっていました。そして、その失敗をとんでもない不面目ととらえるセンスがありました。最近は行きあたりばったりにやってみてダメならどうしようかという程度の認識にしか見えません。

その政権を攻撃する野党の気持ちはよく分かります。政権がこの危機をうまく乗り切ってしまうと政権の奪還が困難になるので、ありとあらゆるところに揚げ足取りのように批判を浴びせます。それは野党の役割でもあるので問題ではありません。しっかりとした理論ともって対案を示しながらの批判であればどんどんやるべきです。

しかし、ここにも「不都合な真実」があって、野党の攻撃は迫力がありません。

現最大野党の立憲民主党は、東日本大震災において政権を担当していた民主党の幹部だった人たちで作られた党です。

この民主党政権が東日本大震災でどういう危機管理能力を発揮したのかというと、それは語るにも落ちるレベルでした。ただひたすらうろたえ、挙句の果ては、政治主導を掲げながら、福島第一原発の直上からメルトダウンを起こしている原発にヘリコプターによる散水を行うという、世界中のどの軍隊も経験したことのない作業を自衛隊にさせるにあたり、防衛大臣が「私と首相の想いを汲んで統幕長が決断してくれた。」などと責任を統合幕僚長に負わせ、政治主導どころかシビリアン・コントロールまで放棄する始末でした。

立憲民主党の枝野代表は、政府の財政措置が遅すぎ、少なすぎると猛烈に批判していますが、東日本大震災においては2次補正は8月の臨時国会まで提出されず、成立した規模は2兆円でした。

この時私はまだ現役の自衛官でしたが、この金額を聞いて驚きました。20万名しかいない自衛隊に10万名の出動を命じておいて、政府が出そうとする金額が2兆円だというのです。現政権とはケタの違う金額です。しかも、信じられないことにその財源として発行する国債の償還のためと称して復興特別税などを新設するという暴挙です。さらに公約ではやらないとしていた消費税の値上げということも公約を破って行いました。

これは現野党にとっては「不都合な真実」のはずなのですが、彼らは「恥」を知らないか、そんなことは忘れているのかどうか知りませんが、言いたい放題です。

熊本県の豪雨で球磨川が氾濫し多くの方が亡くなりました。この水害は川辺川ダムが作られていれば防げたはずの水害です。皆さまご承知の通り、このダムは民主党政権時に「コンクリートから人へ」として事業仕分けの結果建設が中止に追い込まれたものでした。ダムによらない治水を掲げていたはずですが、結局何もなされずにこの度の犠牲者を出しましたが、このことについても当時政権を担当した方々は科学的根拠のない責任逃れをするだけで、不都合な真実からは目をそらせています。

学者にとって不都合な真実:魂の叫びの真実とは

「不都合な真実」は政治家のみにあるのではありません。

7月16日、国会の閉会中審議において東京大学先端技術研究所の児玉龍彦名誉教授が参考人として意見を述べられました。児玉教授はコロナ感染者が増えている現状を憂い、このままでは来週は大変なことになる、来月には目を覆うようなことになると声を詰まらせ、半ば絶叫に近い形で意見表明をされました、この様子に国会もマスコミもショックを受け「児玉教授の魂の叫び」などと報道されました。

この児玉教授の主張は国会を震撼させ、恐怖を煽りたいメディアにとっては十分な内容ではありましたが、疑問の余地が大いにあります。

私は感染症の専門家ではないので、児玉教授の主張の専門的な部分については何とも申し上げられないのですが、統計の読み方についての心得は若干あります。しかし、私の知識では児玉教授が何を根拠に主張されているのかよく分かりません。

そもそも児玉教授は4月の緊急事態宣言の頃、東京はミラノやニューヨークのようになると予言されていました。

しかし、まったくその予言は外れ、その一か月後の累計死者数は600人台でした。

これが児玉教授にとっての「不都合な真実」です。

多分教授はおっしゃるでしょう。緊急事態宣言を受けて国民がしっかりと自粛したからだと。

この4月の予言はある番組の中で行われたものですが、その番組に一緒に出ていたのがいまだにマルクス経済学者という肩書を名乗って見当違いな経済評論を続けている金子勝氏で、いかに絶望的な状況にあるかで盛り上がっていたのが印象的ですが、要するに児玉教授という方は科学者であるというよりもアジテーターであると呼んだ方が相応しいかもしれません。4月の予言が見事に外れたのが、最近になって陽性と判断された人が増えてきたのがいいチャンスだったのでしょう。

児玉教授は「この勢いでいったら来週は大変なことになる。この勢いでいったら来月は眼を覆うような事態になる。」と繰り返し述べられました。

実際はどうだったでしょうか。

検査結果で陽性と判定された人数は増加の一方でした。しかし、検査数そのものも増えており、陽性率は6%代と変わっていません。ということは社会全体の陽性者が増えているということではないことが分かります。

注意すべきは陽性者と感染者は違うということです。ウイルスの残骸が検出されても陽性と判定されます。一方の感染は、体内で増殖と寄生が始まっている段階です。PCR検査では陽性は判定できますが、感染は判定できません。

陽性者の中には感染者と免疫をもっていて感染しない人、そして基礎体力があって体内でウイルスとの戦いに勝ってしまっている人がいます。にもかかわらずテレビはそれらすべてを含む陽性判定者を「感染者」として報道しています。

入院を必要とする人の数は日によって大きく差がありますが、移動平均を取ると8月に入って減少しています。

重篤化する人の数は右肩上がりですが、4月で一日あたり25人程度であったのが、8月は多い日で16人です。亡くなる人は5月の多い日が49人だったのに対して8月は7人程度です。もともとこの暑い夏は高齢者にとってはきつい季節です。

また、実効再生産数は4月で2.27を記録していたのが、今週は1.05にまで下がりました。この週末には1.0を下回るかもしれません。

児玉教授の「魂の叫び」から今週で一か月たちます。「来月になれば眼を覆うような事態になる。」はずだったのですが、眼を覆わなければならないのは彼らの発言によって自粛を余儀なくされた社会の経済です。

児玉教授にとってはさらに「不都合な真実」が生じています。

ただ、彼らはそれを指摘された時の「不都合でない言い訳」を持っています。

このままなら大変なことになると考えたが、皆さんが本当によく対応したお蔭で最悪の事態を免れたというものです。決して彼らの予想が外れたのではないのです。

何故「不都合な真実」を語るのか

なぜ、ここでくどくどと「不都合な真実」について語っているかと言うと、不都合な真実を直視できないと正しい意思決定ができないからです。

私たちは他人の責任を追及する際に、自分の責任については黙っているのが普通です。

責任のなすり合いをする時にはそれでもいいのですが、意思決定をする場合には不都合な真実から眼を逸らせてはなりません。何故なら問題がそこにあることが多いからです。

また、危機管理上の意思決定をする際にはなおさらです。不都合な真実の中にこそ、その危機の原因があるはずだからです。

ただでさえ人は不都合な真実から目を逸らせてしまう性質を持っています。古くはフェスティンガーの認知的不協和の理論に始まり、近年ではダニエル・カーネマンらによって発展を遂げてきた行動経済学の中でもこの傾向は取り上げられています。

不都合な真実を直視する勇気

不都合な真実を直視するには勇気が必要です。組織を率いるトップはその勇気を持たなければなりません。

どういう勇気かというと、己を虚しくする勇気です。

保身を図ろうとすると「不都合な真実」を直視できません。それをなんとか隠そうとします。隠しても問題の解決にはならず、むしろ悪化させるだけなのですが、本人はそれに気づかずに必死で不都合な真実はなかったことにしようとします。

そのような態度は問題を解決できないばかりか、とても見苦しく、その態度そのものが新たな問題を作ってしまいます。全都知事が辞任に追い込まれた時のことを思い起こして頂ければお分かりかと思います。

己を虚しくすることを心得ている人は「不都合な真実」から眼を逸らしません。それを直視します。そして、そのようなトップは身の処し方を知っています。

身の処し方と言っても引責辞任だけが身の処し方ではありません。とくに危機管理上の事態においてそれは問題を放り出してしまうだけで、引責ではなく責任の放棄なのです。苦しくとも必死に戦わなければならないこともあります。

それでも、身の処し方を心得ているトップの戦い方とそうでないトップの戦い方には雲泥の差が生まれます。

その差を産むのが「己を虚しくする」ことを知っているかどうかなのです。