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専門コラム「指揮官の決断」

第207回 

メディアの終焉 その2

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新聞は本当に言葉を知らないのか

前回、当コラムでは新聞を取り上げ、言葉を扱うメディアであるにもかかわらず、その言葉をよく知らない記者と編集者ばかりであることを指摘しました。

それはたまたまだろうとおっしゃる方もおられますので、もう少し具体例を挙げてみます。

毎年夏になると各紙は終戦特集を組みます。今年は戦後75年ということで、各紙も力を入れていろいろな方々の証言をとっていました。このような取り組みは極めて重要で、戦争を経験した人がだんだん少なくなっていく現在、その方々の証言をしっかりと集めておかないと歴史を振り返ることができなくなるので、メディア中心に頑張って頂きたいと思っています。

しかし、その作業のためには取材する者にそれなりの知識や経験が求められます。それが極めて怪しいので、しっかりとしたアーカイブスができるのかどうか心もとなく思っているところです。

魚雷被弾???

今年、読売新聞は「戦後75年 終わらぬ夏」という特集を組みました。その第13回は空母「瑞鶴」の乗員だった近藤恭造さんという91歳になる方へのインタビューでした。聞き手は笹森春樹という人で、肩書の記載がないので分かりませんが読売新聞の記者か論説委員でしょう。

一方の近藤恭造さんという方は、高等小学校を卒業後、電機学校(現・東京電機大)に進学し、15歳で海軍に志願、通信兵として瑞鶴乗員になったという経歴をお持ちです。海軍の通信兵というのは相当優秀でないと務まらず、その中でも航空母艦乗員だったということは、この方がかなり優秀な水兵であったことを物語っています。

ところが、この記事は聞き手の理解力が不足で過ちがあります。

表題が「魚雷被弾 甲板へ急げ」となっているのです。

「魚雷被弾」という言葉はありません。

大砲の弾や爆弾が命中した場合は「被弾」ですが、魚雷の場合は「被弾」ではなく、「被雷」と言います。

これは海軍の常識であり、近藤氏がインタビューで「魚雷被弾」と言ったはずはありません。

海軍軍人であればたとえ最下級の水兵であろうと「被弾」と「被雷」を混同するはずはありません。ましてこの方は戦後警察予備隊から陸上自衛隊に入り、情報職域に進み、中央調査隊の教官を勤めたという経歴をお持ちです。「魚雷被弾」などという素人の間違いをするはずがありません。

「被弾」と「被雷」は根本的に違います。

敵艦の艦砲あるいは陸上要塞の大砲の弾が命中したり、航空機から爆弾を落とされて命中したりした場合、「被弾」という言葉が使われます。一方で、魚雷が命中したり、機雷に触れて爆発したりした場合には「被雷」と言われます。

なぜ、この違いにこだわるかと言えば、対応が全く異なるからです。

対空戦や水上打撃戦を行っている最中に艦内で情報として「前部被弾」と放送があると、乗員は火災に備えます。特に前部にある主砲の弾薬庫に火が入ることを怖れて、その隣接区画の冷却の準備を始めます。つまり、隣接区画の壁への放水を始めたり、必要に応じて注水したりするのです。

一方、「前部被雷」と言われると、乗員は浸水に備えます。喫水線より下の部分に穴が開くと、そこから海水が侵入してきますので、その穴を塞がなければなりません。塞ぐことができない場合には隣接区画へ海水が侵入するのを防ぐために防水ドアを閉め、船が傾いて危険になったり、戦闘の継続が難しくなったりした場合には反対舷に注水して傾斜を戻します。前部への浸水が大きく、前部が大きく沈下し始めると、スクリューと舵が水面より上になってしまって船の運航ができなくなりますので、後部に注水して前後の平衡を取り戻します。

このように「被弾」と「被雷」は全く異なる状況が生まれるのです。したがって海軍軍人なら「魚雷被弾」とは絶対に言わないはずです。聞き手の笹森と言う人はその程度の認識なしに海軍の話の取材に行ったということです。

一般の読者にはその違いが分からないかもしれず、「被雷」と言っても理解されないから「被弾」と書いたのかもしれません。だとすれば、読者を馬鹿にしていることになります。

読者が自分よりものを知らないという前提で書いているからです。

若い読者で海軍を知らないとすれば「被雷」という言葉は「被弾」よりも馴染みがないかもしれませんが、しかしそのように書いてあれば、「なるほど、魚雷の時は被雷と言うんだ。」と分り、勉強になります。それを余計な配慮で魚雷被弾などと書くと、魚雷の場合も被弾と言うんだという理解になって、間違った言葉使いがなされていくようになります。前回取り上げた「独断専行」もそうなのですが、意味を知らずに使われ続けると意味そのものが変わってしまうのです。

騒ぐほどの違いではないと思う方がいらっしゃれば、航空機を撃沈し、潜水艦を撃墜したと聞いたら違和感を覚えるかどうかを考えてください。海軍軍人にとっては同じくらい違和感のある言葉なのです。

撃沈される航空機、撃墜される船としてありうるのは飛行艇だけです。飛行艇は水上にいれば撃沈されますし、飛び上がっていれば撃墜されます。それ以外の航空機や船舶ではそのような表現はありえません。

兵は拙速を尊ぶのか?

2014年の夏、私は成田からシカゴに飛ぶ飛行機の中にいました。CAが持って来てくれた新聞を2紙読んでいました。日経と毎日でした。私が読みたかったのではなく、たまたま彼女が持っていたのがそれらだったのです。

どちらの新聞だったか覚えていないのですが、その中の社説か編集後記のような記事の中に、「孫子は兵は拙速を尊ぶとして、巧遅は拙速に如かずと説いている。」と書かれていました。

私は「ハハァ、またやったね!」と思ったのを覚えています。

海上自衛隊の幹部学校は旧海軍の海軍大学校に相当する教育機関で、その指揮幕僚課程では、選抜試験に合格して入学してくる若手の幹部自衛官に対して、入学案内とともに課題を送ります。入校前にアルフレッド・セイヤ―・マハンの『海上権力史論』、クラウゼヴィッツの『戦争論』を読んでおくようにという指示が出されるのです。

学生予定者たちは1等海尉に昇任して数年たった者たちで、部隊では最も忙しい配置にあり、また、自分が入校のため幹部学校付きに異動となるため、後任者への引継ぎの準備もしなければならず、とてつもない激務の真っ最中なのですが、入校までに読めとしてされているので、眠い目をこすりつつ必死で読んで入校に備えます。

ところが入校してびっくりさせられるのは、米軍が真剣に研究しているのが『孫子』であると教えられることです。そこで慌てて『孫子』を読むのですが、読んでみて世の中でいかにいい加減にこの書物が扱われているのかに気が付きます。

まず、孫武はこの『孫子』の中で「兵は拙速を尊ぶ」とは言っていないということです。まして「巧遅は拙速に如かず」という文言はどこにもありません。ある教官が教えたくれたところによると、それは全く別の書物に出てくる言い回しだそうです。(なんという本なのか忘れました。)

孫武が言ったのは「兵は勝つことを貴ぶ。久しきを貴ばず。」であり、戦争は勝利を第一とするが、長引くのはよくない、ということです。

また、「兵は拙速なるを聞くも、未だ巧久なるを睹ざる」として、戦争はまずくとも素早くきりあげるということはあっても、上手くやって長引くという例はまだ無いと言っています。つまり戦争が長引いて国家に利益があったためしはないということです。

要するに多くの評論家や経営コンサルタントが堂々と述べているように「いろいろ思い悩んでいるよりも、とにかくやってみろ。」などと一言も言っていないのです。

メディアに登場する専門家や識者と言われる人々でも原典を読んでいないとこのような間違いを犯します。

よくあるのがランチェスターの経営戦略です。

私のコンサルタントの知り合いにもこれを専門的にやっているコンサルタントは多数いますが、ランチェスターは弱者が強者に勝つための戦略などに言及したことはないですよね?と尋ねると皆さんキョトンとされます。

誰もランチェスターの論文を読んでいないのです。これは、当時まだ兵器として一般的とは言えなかった航空機を戦場に投入するとどれだけ有利になるかを数学的に説明したものであり、現代において日本の経営コンサルタントが得意げにしゃべっている内容とはほど遠いものです。

そしてランチェスターが経営コンサルタントの武器になっているのは、私の知る限り日本だけです。米国の経営者はランチェスターの論文は軍事論文として理解しています。

日経か毎日かは忘れましたが、新聞の論説などを取り扱うレベルの人々が原典を読まずに知ったかぶりしているのにはビックリです。と言うよりも、新聞などそのレベルだと思って読むべきなのかもしれません。

最近の事例では、PCR検査を受ける基準です。

マスコミは高熱が4日間続かないと検査が受けられないのは問題であると痛烈に政府批判を繰り返し、加藤厚労省大臣(現官房長官)が「我々からすればそれは誤解だ。」と言ったとたん火が付いたような批判を行いました。

ところが、厚労省が医師会に出した通達のどこにも熱が4日間続くことが検査の基準だなどとは書いてありません。書かれているは4日間続くようなら相談するようにということです。その時にどこに相談すべきかという窓口を指定しています。そして高齢者等の場合はそれを待たずに相談するようにとも記載されています。

メディアがそれを理解せずに勝手に4日間経たないと検査しないと厚労省が決めたと騒いだだけです。メディアに登場した専門家と言われる人々も実際にその通達を読まずにコメントしたのでしょう。

憲法の縛りだぁ?

産経新聞は昭和の時代から北朝鮮ウォッチングを続けたり、自衛隊への取材を積極的に行ったり、中国軍の動向や尖閣問題に相当以前から独自の視点で取り組んでおり、安全保障問題に関してはかなりの論客も揃えている新聞社です。

しかし、その産経新聞ですら、出鱈目な、びっくりするほどの無知をさらけ出すこともあります。

かなり前ですが、2016年の憲法記念日にとんでもない記事が掲載されました。

この記事によれば、我が国の航空自衛隊は憲法第9条の下では、領空侵犯機を撃つことはできないのだそうです。相手が警告を無視して領空を自由に飛び回っても、攻撃されない限り空自機は退去を呼びかけるだけなのだそうです。

相手からミサイルや機関砲を撃たれて初めて『正当防衛』や『緊急避難』で反撃できるのですが、編隊を組む別の空自機は手出しがでず、爆弾を装着した無人機が領空に侵入しても、攻撃を仕掛けてこない限りは、指をくわえて見ていることになるということです。そして、憲法第9条が羽交い締めにしているのが、日本の守りの実態であると書かれていてびっくりしました。

この記事は航空自衛隊の対領空侵犯措置(スクランブル)がどのような規則の下に行われているのか、そしてその実態をまったく理解しておらず、また、この問題に関する度重なる政府の国会での答弁も読んでいないことを示しています。航空自衛隊に取材すらしていないのかもしれません。

政府はロックオンされているような状況においては、相手の攻撃を待つことなく危害射撃を加えることは法的に認められていると答弁していますし、国際法上も問題なく、航空自衛隊の措置は多くの先進国の措置と同様であることを認めています。

ちなみに、航空自衛隊の対領空侵犯措置では2機が飛び上がり、相手が偵察機などの場合は両側から挟んで飛行し、無線の警告、コックピットから手信号やボードを見せる、翼を振るなどの行為をして退去を求めます。この確認をするのは、相手の航空機のパイロットが失神していたり、あるいは亡命を求めていたりすることもあるからです。

ただ、相手が戦闘機などの場合は、1機はSix O’clock Low と呼ばれる真後ろの少し下に位置して、いつでも撃墜できる態勢を取ります。

そのような実態を産経新聞は知らなかったものとみられます。ちょっとした軍事オタクなら誰でも知っています。

何様のつもりだ!

昭和の時代と異なり、現代の新聞はそのレベルです。

ろくに言葉も知らず、原典も確かめないで知ったかぶりをするだけでなく、現在日本で行われている行政作用の実態も確認せずに論説をしたためているのです。

その程度であるにもかかわらず、新聞はその自覚すら持っていません。

慰安婦問題が誤報であることを知りつつ長期にわたってその嘘を隠し通し、言い逃れできないところにまで追い込まれても、日韓関係をここまで複雑なものにした責任に対して満足な謝罪もできない朝日新聞は論外ですが、穏健派と見做される読売新聞ですら例外ではありません。「魚雷被弾」などと平気で書く新聞であるにも関わらず、その論説を見るととんでもない表現がなされています。

同紙の今年8月9日の論説には「コロナによる経営悪化を防げ」とあります。その前日の8日には「感染抑止へ国は責務を果たせ」とあります。これらは国への要求です。

そして9月4日には「住民に効果と展望を提示せよ」とあります。これは大阪都構想に対する社説です。いずれにせよ完全な命令口調です。

読売新聞は自分を何様だと思っているのでしょうか。

コンプライアンスの意味もろくに知らない読売新聞が何の権限をもって、この高飛車な超上から目線の論説を掲げるのかは知りませんが、それなら当コラムも言わせて頂きます。

「読売新聞は、論説委員以下、記者、編集者ともども言葉を根本から勉強をし直せ。」

「産経新聞は、安全保障問題でコメントする前に防衛白書を徹底的に読み直せ。」

「朝日新聞は、沖縄のサンゴに自ら傷をつけて自然破壊だと騒いだ写真を掲載して以来のあらゆるウソを総括してからモノを言え」

 毎日や日経はいいということではありません。相手にしていないだけです

メディアリテラシーの意味するもの

メディアリテラシーという言葉があります。端的に申し上げれば、これは民主主義下におけるメディアの役割をしっかりと理解することなのですが、日本の現状を見る限りにおいては、そのような意味を持ちえず、「テレビは視聴率稼ぎのためにウソをつき、新聞は頭が悪すぎてまともな記事が書けないということをしっかりと理解して観たり読んだりすることが重要である。」ということを意味しているにすぎません。

この国のメディアなど、その程度です。

何度も申し上げていますが、彼らは外務大臣と防衛大臣が兼務になっても何の問題も感じない感度の鈍さですから。芸能人のゴシップを追いかけるのが身の丈なのです。