専門コラム「指揮官の決断」
第268回数学的確率と統計的確率
問題は専門家たち
昨年の2月頃から当コラムでは新型コロナウイルスの感染状況に関心を持ってきました。
当コラムが医学を専門とするコラムではなく危機管理を専門とするコラムであるところから、この感染症に関して医学的な関心ではなく社会学的な関心を持ってきたところです。
具体的にはこの問題をメディアがどう取り扱い、それが社会や政治にどのような影響を与えるのかという観点から情勢を見ていました。
当初の予想は的中し、メディアが視聴率や購読者数拡大優先の報道を行い、それに世論が引きずられ、その結果支持率を意識する各政党の主張が形作られていくというパターンが見事に形成されました。満州事変に新聞が果たした役割を見事に令和の時代に再現してみせたのです。
ただ、筆者の予想が外れたのは専門家といわれる人々の能力でした。
正直なところ、「専門家と呼ばれる人々のレベルってこの程度か?」とがっかりすることばかりでした。
この表現は厳密には正しくありません。
この1年間、かねてからあるプロジェクトに加わっていた筆者は大変ありがたいことに多くの様々な分野の専門家に紹介され、その話を伺う機会を得ることが出来ました。
その多くはすでに現役を引退した研究者とそのお弟子さんたちでしたが、それらの方々は素晴らしく、それらの方々とお目にかかっていろいろな話を伺うことができるのは大きな楽しみでしたし、それらの方々と面識を得たこと自体が筆者にとって大きな財産になるものでした。
多くの方々には筆者が疑問に思い、それなりに考えたことについて、自分の考え方がどうなのかをよく質問させて頂きましたが、それぞれの方々からそれぞれの専門の見地からの考え方やモノの見方を教えて頂き、本当に勉強になった一年でした。
ひどかったのは感染症の専門家たち
つまり、同じ専門家といっても凄い人たちと、びっくりするほどのレベルの専門家がいるということであり、筆者がびっくりするほどのレベルであると考えているのは感染症の専門家に多いかもしれません。
感染症の専門医として認定されるためには論文を何本も書かねばならず、厳しい審査があると聞いたことがありますので、それなりの医師でなければならないはずなのですが、テレビで彼らの解説を聞いていると素人の筆者でもびっくりするようなことがよくありました。
筆者ですら気が付くというのは医学的な常識の問題ではありません。
筆者は医学については教育を受けたことがありませんので、彼らの発言の真偽を判断することはできませんが、しかし、彼らの多くが数字で示されたデータを読み間違っている時にはすぐに分かります。
彼らの多くがグラフの読み方を知りません。
さらに、もっと酷いことに致死率の計算方法すら理解していません。(専門コラム「指揮官の決断」第240回 王様はハダカだと言う勇気 https://aegis-cms.co.jp/2368 )
全国のコロナ死と認定された人数をPCR検査の陽性判定者数で割るという信じられない初歩的な誤りを犯しています。
このことは当コラムで何度も指摘してきましたが、分子に全国のコロナ死者数を使うのであれば、分母は全国の陽性判定者数(推定値)でなければならず、分母にPCR検査陽性判定者数を使うのであれば、その陽性判定を受けた人中で亡くなった人数を分子にしなければなりません。
その程度の初歩的な知識すらないのです。
さらには共同通信がGoToトラベルと感染者数の関係を東京大学の研究者チームが統計的に証明したと配信したものを丸吞みにしたのも彼等です。
このことも当コラムで何度か指摘してきましたが、東京大学の研究者たちは統計学的な証明をしていないことを自分たちもしっかり認識しているために、その論文では統計学的証明とは一言も書いていないのですが、共同通信の記者が英語を理解せず、また統計学によく用いられる数式が記載されているので統計学的証明だと思い込んだだけなのです。
しかし、感染症の専門家なら、その論文を読んでものを言うべきなのですが、共同通信の配信を何のファクトチェックもせずに信じ込んだか、あるいは読んでも理解できなかっただけなのでしょう。(専門コラム「指揮官の決断」第226回 危機管理における事実の理解の仕方 https://aegis-cms.co.jp/2264 )
これを総じてみると、感染症の専門家というのは統計学を知らないようです。
公衆衛生に関する学問なので統計学は必須だと考えるのですが、どうもテレビに出てくる感染症専門医たちは数字が分からないようです。
医師という職業は目の前の患者さんの病気を治すのが仕事ですので、目の前の患者の様態を正しく見極めることに関しては優れているはずです。ですから、家庭では何を気を付ければいいのかとか、発症した場合、重篤化するとどうなるのかなどの話であれば傾聴に値する解説をしてくれるはずです。
しかし、社会全体の感染者数の推移などについては公衆衛生の範疇であり、必ずしも医師が得意とする分野ではないようです。その証拠に、テレビに出てくる医師たちのコメントを聞いていると、グラフを読む力がほとんどありません。大学の教員であっても、医師である教員は多分統計学を教えているのではないのだと思われますが、ピークアウトの点がどこにあるのかを理解していませんし、そもそも致死率すらまともに計算できないのです。
その程度だったのか
最近、ある感染症の専門家と話をすることがありました。注意して見ているとテレビに時々出てくる方です。出演するのではなく、ニュースである自治体の諮問委員会のような場面が放映されるときに映る程度なのですが、少なくともその自治体では専門家として評価を受けている方です。
その方と話をしていて、どうも話がすれ違ってしまうことがあり、当初、筆者がよく理解していないからだと考えていたのですが、二度目にお目にかかった時に、筆者がよく分からなかった点を伺ったところ、ある重大な事実に気が付きました。
この専門家が確率には数学的確率と統計的確率の二種類があることを知らないようなのです。筆者はそんな可能性を考えることなく、専門家としての考え方を伺おうといろいろな話をしていたので、話がすれ違ってしまっていたことが分かった次第です。
数学的確率とは
一般に確率という場合、この数学的確率について語られることが多いと言っても過言ではないでしょう。
代表的にはコイン投げです。表や裏が出る確率はいずれも1/2です。
サイコロで特定の目が出る確率は1/6です。
この確率論は要素となる事象が同じくらいの確かさで生ずるという前提のもとに成立します。
数学的にはこの前提の正しさは否定されません。理由不十分の原理と呼ぶ原理が働いています。
これを覆そうとするのが「祈祷」とか「呪術」などと呼ばれるもので、数学的な確率を何らかの超自然的な力によって変えてしまおうとする試みです。
その効果はまだ科学的には証明されていません。
統計的確率とは
一方で統計的確率と呼ばれる確率もあります。
過去のデータを蓄積して調べることでその傾向を読み取ったり、将来を予測したりするものです。
競馬の予想などがこの典型でしょう。
この確率論は、一般に知られない未知の要因によってランダムに生ずる現象についてのものであり、得られる数字も不確実性を含みます。
そのような限界を持ちながらも、データの持つ性質をしっかり理解すると広範な利用が可能となります。
例えばじゃんけんです。
これは数学的確率で考えると相手が特定の手を出す確率は1/3になりますが、過去の実績を考慮すると相手の「くせ」を見抜くこともできるようになります。
競馬の予想屋がやっているのがこれであり、単純に1/出走馬数と計算しているわけではありません。
例えば、相手のくせを分析することができるようになって、それを戦略に組み入れて勝負をしていくと、その後は成行きに従って確率が変化していきます。
そして前提となる相手の出す手の確率を1/3から修正していくことによってさらに精度の高い戦略を立てることが出来るようになります。
そのような確率の考え方をベイズ確率と呼ぶことはすでに当コラムでも紹介しています。
しかし筆者が話をした感染症の専門家は数学的確率しか理解していないので、話が絡み合わないのです。
その程度の専門が知事に対するアドバイザーグループの一員として起用されているのですから、行政がアタフタするのも無理はありません。
少なくとも考え方の理解を
危機管理上の事態においては十分な情報が得られないことについては何度も言及してきました。
経営者はその中で正しく情勢を判断して正しい意思決定をしていかなければなりません。
情勢を判断するためにはいろいろな手法があります。
大昔は占い師が活躍しました。そのような神秘的な能力を持った者自身が権力を持っていたこともあるようです。卑弥呼などはそのような存在だったのでしょう。
時代が進んでいろいろな歴史的な教訓をよく知っている者たちが、過去の史実に基づいて経営トップにアドバイスすることが行われるようになりました。
日本の戦国時代では「軍師」と呼ばれる人たちがそれです。彼らはあらゆる軍学に関する書を読み漁り、兵法書を学び、歴史を分析しています。
戦前の軍隊でよく行われていたのがこの教育です。そこで学ぶエリートの軍人たちにとって戦史は必須の科目だったはずです。
筆者は軍人が戦史を学ぶことの意義を否定するものではありません。
兵器の飛距離や破壊力が桁違いの時代になっても、人間がいざという時にどう考えて、どう行動するかという本性に根差すものはそれほど大きく変わらないと考えるからです。
しかし、戦史に学ぶ際には、指揮官個人の属性やその組織の置かれている環境などを合わせて理解する必要があり、それらを抜きに考察すると極めて皮相なものの見方しかできないからです。
つまり、戦史研究ではそのような主観的要素の影響が極めて大きいので分析がかなり難しいということを理解しなければならないということです。
その観点から当コラムでは、ビジネスマン必携の書として名著と謳われている『失敗の本質』について批判をしてきました。
この書物は経営学者と戦史の専門家によって執筆されているので、危機管理の現場を知らない学者の机上の理論になるのは仕方ないのですが、しかし社会科学を専門とする学者によって執筆されたにもかかわらず社会学的な考察を欠いており、結論ありきの強引な説明がなされています。
戦史研究の難しさがここに露呈しています。
一方で、数字で表されるデータの解析では主観的要素を排除することが可能であり、また、たとえ主観的要素を完全に排除できなかったとしても、ベイズ確率のように現実に生じた事象を元に修正していくことが出来ます。
今後、AIが発達していき、ベイズ確率の考え方を反映した情勢分析の手法が開発されるかもしれません。
そうなるとますます数学的確率しか理解できないのでは、せっかくの手法を生かすことができないということになります。
統計学的な計算ができることが重要なのではありません。その考え方を理解しておくことが重要なのです。
複雑な計算は、考え方さえ理解していれば卓上のPCでエクセルがやってくれる時代になっていますから。
テレビで見かける感染症の専門家が酷いだけなのかもしれない
感染症の専門家の方々の名誉のために言い添えておきますが、多分、連日テレビに出てきてコメントを述べている感染症の専門家や医師たちというのは、その世界を代表する人たちではないはずです。
もし彼らが本当の意味の専門家であったなら、この1年半、連日テレビに出てくるような暇があったはずがありません。渦中の人たちがそのような時間を作れるとは思えないからです。
つまり、テレビに出てきたり、諮問委員会のメンバーになったりするのは、その渦中の場で思う存分働くことのできない人々なのだろうと思っています。
テレビに出ることなく、現場で必死で治療に当たってきた専門医たちは相当優秀なのだと思われます。第5波で陽性判定者が激増し、発症する人も人数的には増えて行ったにも関わらず、死亡者をかなり低い値に抑え切ったのは、それらの専門医たちの努力の成果でしょう。
テレビに出てくる専門家だけを見て全体を語ってはいけないのかもしれません。