専門コラム「指揮官の決断」
第335回気球に関する諸問題 その1
はじめに
今年になって急に浮上してきた問題の一つに気球があります。
1月末に北米で発見された気球をサウス・カロライナ州の海上に出たタイミングで米空軍戦闘機がミサイルによって撃墜したのを皮切りに、アラスカ、カナダ、ミシガン湖などで次々に撃墜事例が生じ、日本においても3年前からの目撃事例が取りだたされ、遂には航空自衛隊の対領空侵犯措置が改訂され、この撃墜が公的にも承認されることになりました。
この問題は外交上の大きな問題となっており、当コラムにとっては必ずしも専門の領域ではありませんが、安全保障上の危機管理の問題でもありますので、危機管理のフレームワークから見るとどう見えるのかについて議論を起こしたいと考えます。
気球の飛行が問題となった理由
まず、何故この問題がこの時期に大きく取り上げられるようになったのかを考えます。
中国発と見られる気球自体はここ数年間に何十という数が飛んでおり、今さら珍しいものでもないからです。
この問題の表面化の原因は中国の面子が潰れたことにあります。
米国でこの気球問題の騒ぎが始った頃、中国製だと主張する米国に対し、中国はすぐには反応しませんでした。2月2日です。
そして次の日、声明を出し、気球が自国のものだと認めました。ただ、「主に気象学の研究に使用される民間飛行物体」だとして、「航路を外れて飛ばされたもので、不可抗力により意図せず米領空に入ったことを遺憾に思う」と、珍しく謝罪に近い言い方で説明しています。
当コラムは国際関係論は専門外ですが、筆者の知る限り、中国が自国の行った行為について遺憾の意を表した事例は、少なくともこのコラムの連載開始以来初めてではないかと思料しています。
この中国の対応を見ていると、多分習政権はこの気球について承知していなかったものと思われます。解放軍が独自に行っていた情報収集活動であった可能性が強いのではないかと思料いたします。一晩かけて、中国のものではないと言い繕うことができないと判断した結果、科学的調査が目的であったということにして、それが意図せずに北米領空に入ったという不可抗力による侵犯を起こしたことは遺憾であるという理屈が作られたのでしょう。
何故このような対応になったかというと、これも推測の域を出ませんが、翌日にブリンケン米国務長官の訪中を控えており、この訪中に影響を与えることを恐れたからでしょう。
ところが、ブリンケン長官は中国政府の反応を不満として訪中自体を取りやめてしまいました。
中国にしてみれば、何とか穏便に済ませようと、彼らにとっては精一杯の表現を使ったにもかかわらず訪中が取りやめられたため、何としても責任を米国に転嫁しなければならず、
「民生用の気球を撃墜するなどは、明らかに国際慣例に反する。」と非難し、挙句の果ては「米国の気球も昨年来10回以上にわたって中国の高高度上空に気球を飛ばしている。」という子供の喧嘩のような声明を出しています。
気球が中国の物であることを認めてしまっているので、後に引けないのでしょう。こうなった時に何が何でも相手の責任にするのが中国や韓国の基本的な立場です。そこには論理などは存在しません。
国際慣例上も他国の上空に飛行物体を飛ばしたら撃墜されるのは当然であり、中国政府は相変わらず国際法を知らないものとみえます。
国際法上の扱いは
気球は有人であろうと無人であろうと国際法上の航空機であり、許可なく他国領空に入ることはできません。許可なしに侵入すると領空侵犯となり、領空を侵犯している旨の通告をし、針路変更または着陸の要求を繰り返しても飛行を継続するなど一定の要件が揃うと撃墜されても文句は言えません。
航空機の場合、民生用か軍事用かは問われません。飛行中にそれらを解明することができないからです。つまり、科学的調査に用いる気球を撃墜したのは国際慣例に反するという中国の主張は間違っています。
中国政府のこの態度に別に驚きませんが、びっくりするのは日本のメディアの対応です。
以下は朝日新聞の社説です。
「米軍が撃墜した四つの飛行物体のうち三つは民生用の可能性が高く、最初に撃ち落とした中国の気球も、風の影響でコースをはずれ、米本土に達した可能性が指摘される。ことほどさように、その目的や性格を見極めることは簡単ではない。
日本に飛来する気球をどうやって探知し、民生用ではない撃墜すべきものと識別するのか。航空自衛隊の戦闘機が対処する際に技術的な困難はないのか。多くの課題は残されたままだ。
沖縄など日本周辺で、領空侵犯には至らなくても、中国の無人機の活発な活動が報告されている。今回の要件緩和は、無人機にも適用される。不測の事態が生じないよう、日中間の政治対話の強化を急ぐべきだ。」
繰り返しますが、航空機の領空侵犯に対して「民生用」か「軍事用」かを判断する必要はありません。朝日新聞はその程度のことを理解していないのです。
船舶と航空機では領域内での航行の扱いは異なる
航空機の領空侵犯と船舶の領海侵犯は基本的に対応が異なるのです。
船舶の場合、他国の領海を航行することに許可は不要です。入港するとなると、外国に対して開かれている港にしか入港は出来ませんが、領海内を航行するだけなら国際法上も問題はありません。
問題となるのは単なる航行ではない場合です。
漁業を行ったり、海洋調査を行ったりする場合には、主権国の経済的主権を侵すため、許可が必要です。その範囲は領海に留まらず、領海の外側200マイルに拡がる排他的経済水域にも及んでいます。単なる航行であれば、他国の領海内においても行うことができます。
軍艦も同様で、他国領海内を一定の目的地向けて最短の進路で、適切な速度で通り抜けるだけなら国際法上は旗国の許可は不要とされています。これを無害航行権と呼びます。
つまり、軍事上の訓練、威嚇、情報収集などをせずにただ最短コースを走り抜けるだけなら問題はありません。領海内を航行している一般船舶に砲身を向けたり、航空母艦が発着艦訓練を行ったりしなければ軍艦も航行すること自体は妨げられることはありません。
ただし、領海の外側に設定されている接続水域と呼ばれる海域にこれらの軍艦が入ると、間もなく領海侵犯となるおそれがあるので退去するようにという警告が出されます。
一般に、軍艦が他国の領海を無害で航行する必要は認められないからです。
例えば、ロシアの艦艇が房総半島の鼻先をかすめて航行しなければならない必要性などありません。
ところが、ある国の排他的な管理権が及ぶ海域であっても、そこを通航しなければ安全かつ経済的な航行ができない場合があり、そのようなところは、例えば「国際海峡」などと呼ばれ、軍艦であっても航行することができることになっています。
中国の艦艇がよく領海に関して問題となるとなるのは、彼らの航行がそのような海域ではなく、わが国固有の領土である尖閣諸島周辺において行われ、かつ、無害ではないからです。
無害航行であるためには潜水艦は浮上して国籍を示す旗を掲げなければなりませんが、彼らは潜航したまま領海内に侵入するので、「海上における警備行動」が発令されるのです。
また「海警」の船舶が接続水域に入って問題となりますが、これは彼らが警察活動を実施しているからです。他国の領域で行使できる警察権は存在しません。
中国は尖閣諸島を日本の領土と認めておらず、他国領海と考えていないのですから、彼らに無害航行権を認める必要がないのです。
このように海の場合は、軍艦でも無害であれば他国領海にも入ることができるなど、軍艦と民間船舶において取り扱いが若干異なるのですが、空の場合は事情が異なっています。
この事情が異なる原因は、船舶と航空機の速度の差にあります。
航空機の場合は、機種によっては音速を超える速度を出すことができるものもありますので、有害か無害かを見極めてから対処するということができないのです。
航空機の取り扱い
このため、領空の外側のかなり広い範囲に「防空識別圏」という空域を設け、そのエリアに入ってきた航空機に対し警告を与えます。
他国の防空識別圏に航空機が侵入するのは、いろいろな理由が考えられます。
攻撃の意図、あるいは情報収集の意図があって侵入する場合もありますが、民間機の場合には航法上のミスで進入してしまうということがないとは言えません。あるいは機材の故障や燃料の不足により予定の飛行を続けられない場合もあるかもしれません。
そのため、防空識別圏に入ったところで、緊急発進した戦闘機等により警告が行われます。
地上からの交信だけで警告を行わないのは、操縦士が意識を失っている場合もあり、それを直接目視で確認する必要があるからです。警告は防空識別圏に侵入している旨を伝え、針路を変更するか着陸するかを求めるものですが、様々な周波数で、様々な言語で行われ、無線機の故障という事態も考慮して、コックピットからパイロットがボードに書いたものを見せるということまで行います。
ロシアはこの手続きを行わずに撃墜します。
1983年9月1日に発生した大韓航空機撃墜事件がその代表例です。
朝日新聞の社説は、気球の目的や性格を見極めることは簡単ではないから、飛来する気球をどうやって探知し、民生用ではない撃墜すべきものと識別するのかという問題があり、慎重に議論すべきと言っているのですが、これは見当違いの議論です。
民生用であれば撃墜してはならないと勘違いしているようです。記事ではなく社説ですから、朝日新聞の新聞社として見解であり、朝日新聞という新聞社が国際法に関して無知であることを披瀝しているということです。
気球を国際慣例にしたがって飛行させるためには
本当に学術研究用の気球なら許可を取れば問題なく飛行させることができます。現に海洋調査においては、1980年代から中国は日本の排他的経済水域内における調査を公然と行ってきました。外務省が防衛省の大反対を押し切って許可を出していたからです。外務省におけるいわゆる「チャイナスクール」と呼ばれる派閥が権勢を誇っていた頃です。
このため、中国は沖縄周辺の海底についてはひょっとすると日本よりも詳しく知っているかもしれません。
それが分かったのは2004年の1月に発生した中国海軍漢級原子力潜水艦による領海侵犯事件です。海上自衛隊は「海上における警備行動」が発令されたため、この潜水艦を追尾し、領海侵犯に対する警告を続けました。その行動の中で海上自衛隊の追尾を逃れるため、この潜水艦が海底の様子を熟知していないと潜航できない海底の谷間のような場所に入り込んだことがありました。そこで海上自衛隊は中国海軍が日本周辺海域の海底に関する精密な情報を持っていることを知りました。
その後はさすがに外務省も排他的経済水域内における海洋調査活動を承認しなくなりましたが、このところは承認を求めず、勝手に調査活動を行っていることが目撃されています。
もし気球が学術調査目的であるのなら、その旨を通告してくればいいだけのことです。多分、許可されるには日中の共同研究であることなどが要求されるかもしれませんが、学術調査なら問題はないはずです。単なる学術調査ではなく軍事情報の収集であるから通告も共同研究もできないのでしょう。
つまり、この問題に関する中国政府の反応もメディアの対応も、国際法や航空法に関する無知がもたらす間違いだということができます。
ミスリードが危機を大きくする
中国政府の反応は彼らのいつものことなので驚きませんし、それを踏まえたうえで対応していけばいいのですが、メディアの無知は困ります。世論が誤って形成されるからです。
新聞が独自の主張をすることに問題はありません。それが本来の報道です。
ただ、不勉強、無知により誤った報道を行うことは、その影響力を考えると許されません。報道に関わる人々の知的レベルについて言及するつもりはありませんが、調べればわかることを調べもせず、独断と偏見で報道するのは無責任であり、ジャーナリストの取るべき態度ではないと思料します。
メディアの無知による出鱈目な報道は問題の本質を見失わせますので要注意です。
民生用気球なら撃墜することは国際法違反になると社会一般が信じ込み、そのような世論が形成されると、民意に迎合する政権が判断を誤ることになります。
正しい意思決定ができないというのが危機管理上の問題となっていきます。