専門コラム「指揮官の決断」
第336回気球に関する諸問題 その2
再び気球について
前回取り上げた気球に関する問題を再度取り上げます。
この気球に関する問題はいろいろな側面を含みます。
科学技術的な側面、安全保障及び軍事的側面、国際関係論的側面などです。
巷では例によって陰謀説などが喧しくなっています。
陰謀説を主張する人々は、この気球問題がクローズアップされたタイミングを問題としています。
対立が激化している米中間に、それでも何とか対話を通じて問題が深刻化しないようにしなければならないという機運が生じていた時期に、なぜこのような事件が明るみになったのかということです。
確かに、騒ぎが大きくなったのはブリンケン米国務長官が訪中する予定の前日でした。
中国政府は、彼らとしては異例の対応を取り、気球が自国のものだと認め、主に気象学の研究に使用される民間飛行物体であるとして、航路を外れて飛ばされたもので、不可抗力により意図せず米領空に入ったことを遺憾に思うと、珍しく謝罪に近い言い方で説明しました。
これは米国の制裁に対して経済的に厳しくなっている現状を何とかしたいという周政権の米国への配慮だったと思われます。
しかし、そこまでしても米国務長官は訪中を中止してしまったので、習政権は面子が丸潰れとなってしまい、「民生用の気球を撃墜するなどは、明らかに国際慣例に反する」とか、「米国の気球も昨年来10回以上にわたって中国の高高度上空に気球を飛ばしている」などという訳の分からない非難をせざるを得なくなりました。後者の反論に至っては子供の喧嘩のようです。
気球撃墜が国際法にも国際慣例にも反しないことは前回のコラムで解説いたしました。
この中国政府の狼狽ぶりを見ていると、習政権はそんなところに中国の気球が飛んでいることを知らなかったのかもしれません。
陰謀説
陰謀説を唱える人々は、このタイミングを根拠に、これは中国内部における反周勢力による陰謀であると主張しています。つまり、このタイミングで事件を起こして習近平氏の面子を潰し、その外交の円滑な遂行を妨げようという陰謀であるということなのです。
筆者は陰謀論と言うのが基本的に好きではありません。
あたかも自分だけが特別な情報源を持っているかのように振る舞い、その情報源については明かさず、突飛でもない見解を披瀝しておきながら証拠も示さず、事後的にそのようなことが事実でなかったことが分かっても何の説明もしないからです。
某参議院議員でこの手の話を得意になってする方がいます。「知り合いの防衛省の高官」とか「親しい米軍の提督」などの情報を持ち出してくるのですが、内部にいればそれがガセネタであることなどはすぐに分かります。甚だしきは、「太平洋上を日本に向って最大速度で驀進中の米海軍機動部隊指揮官から電話を貰って云々」というような話までするのですが、太平洋の真ん中にいる米海軍の艦艇から、日本の加入電話や携帯電話に直接どうやって電話をするのか知りませんが、国際通信上の問題がクリアされたとしても、米海軍の指揮官が日本の政治家に直接電話をして自分たちの行動について説明するということがあるかないか、筆者をはじめとする海上自衛隊幹部経験者なら分かります。
一言で言うと「あり得ません。」
この度の気球問題についてもいろいろな憶測が飛び交っていますし、まことしやかな陰謀論なども主張されていますが、当コラムの議論の対象ではありません。
この問題の技術的側面や国際政治上の考え方なども当コラムの専門外であり、ここでは触れません。
ただ、危機管理上の問題点として指摘すべき事項が目につきますので、その点について皆様にもお考えいただきたいと思っています。
何が問題なのか
先に、気球を撃墜することの国際法・国際慣例上の問題について解説しました。民間の学術研究用の気球であっても撃墜することに問題はありません。一定の手続きを踏めば何の問題もありません。
しかし、日本国政府は問題があると考えたようです。
一般に国籍不明の航空機が我が国の防空識別圏に侵入した場合、航空自衛隊に対して「対領空侵犯措置」という行動が下令されます。いわゆるスクランブル発進です。
外国の航空機が日本の領空に許可なく侵入すれば国際法違反で、自衛隊は自衛隊法84条に基づく対領空侵犯措置をとることになります。そして、着陸や退去を促すために「必要な措置」を講じることになり、これまで政府は正当防衛と緊急避難に限って武器を使用できるとの見解を示してきました。
ところが、米軍が中国の偵察気球を撃墜した事例も踏まえ正当防衛などに該当しなくても、他の航空機の飛行経路の安全確保に影響を与える場合に撃墜の対応ができるよう「対領空侵犯措置」の実施要領を改訂しました。
ここに今回提起しなければならない問題が存在します。
どうも政府は「緊急避難」という言葉を理解していないようです。
言葉を正しく理解しているか
この言葉は法律用語です。
「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為」で、「これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えない場合」を指します。この場合、その行為について責任を問われることはありません。
つまり、失われる法益と得られる法益を比較衡量した結果に関する違法性阻却事由なのです。
もともと他国の領空内に航空機を承認なしに侵入させること自体が違法な行為なので、それを排除しても違法ではありませんが、百歩譲って科学的調査目的であれば許容されるとしても、航空機の安全運航に支障を与えるようであれば、それを排除することは緊急避難行為として違法性が阻却されます。
つまり、これまでの「対領空侵犯措置」に関する政府答弁に基づく解釈で何ら問題なく撃墜できるはずです。
それをわざわざ実施要領を改定することによって可能とするということは政府が「緊急避難」という言葉を理解していないからです。
政府が「緊急避難」という言葉を理解していないとする筆者の見解は、単なる「憶測」ではありません。証拠があります。
オミクロン株への対応が問題となっていた一昨年11月、岸田首相はインタビューに答えて次のように述べています。
「オミクロン株への対応につきましては、緊急的な対応について是非国民の皆さんに直接御協力をお願いしたいと思っています。オミクロン株の病毒性ですとか、あるいはブレイクスルー感染力など、いまだ世界的に専門家ネットワークの分析が行われている、分析途上の状況にあります。しかしながら、WHO(世界保健機関)は26日に懸念される変異株に指定いたしました。よって我が国も最悪の事態を避けるために、緊急避難的な予防措置として、まずは、外国人の入国については11月30日午前0時より全世界を対象に禁止いたします。」
これは緊急避難でも何でもありません。単なる出入国管理法上の防疫のための措置であり、当事国に排他的権限が認められています。
また、最近ですが、マイナンバーカードの申請期限切れ直前に駆け込み申請が多く、サイト申請すら混みあって混乱が起こったことに関し、尾身朝子総務副大臣が「本日非常に混み合ったことを踏まえまして、緊急避難的に対応を行います。混乱を生じてしまったことに対しましてお詫びを申し上げたい。」と記者会見しました。
これも総務省が自分で決めた申請期限を延長するだけのことであり、緊急避難でも何でもありません。
首相にしても総務副大臣にしてもわざわざ「緊急避難」という法律用語を持ち出さずとも、緊急の措置と軽く言えば済むことなのに、何故この専門用語を得意になって使いたがるのでしょうか。
首相は早稲田大学法学部、総務副大臣は東京大学法学部の出身です。筆者は経済学部であり、一般教養で憲法と学部講義で商法は学んだものの刑法は学んでいません。そのようなド素人でも知っている法律用語をこの二人の法学士が知らないというのは、大学で何を勉強していたのか、その後の職業経験から何を学んだのかを疑いたくなります。
よく幼児が覚えたての言葉を使いたがるのと同じかもしれません。
危機管理において言葉は重要
これは単に政治家の上げ足取りをしているのではありません。
言葉には意味があり、それを正しく理解して使わないと、真意が伝わらないのです。
当コラムでは度々「独断専行」という言葉が正しく理解されていないということを指摘してきましたが、この言葉が正しく理解されないことによって、「独断専行」というのはやってはならないことのように解釈されているのが現状です。
本来の独断専行は、現場指揮官が上級指揮官に与えられた命令と現状が一致せず、上級指揮官が現場の状況が変化していることを理解していないことが明らかである時で、上級指揮官に報告する余裕がない場合に、自分の責任において上級指揮官の命令から離れて独自の判断に基づいて行動することを言い、それは現状をよく知ることのできる立場にいる現場指揮官の責任でもあります。
したがって、独断専行をしなければならない事態において、現場指揮官が上級指揮官の命令に固執して失敗した場合、それは免責されないのです。
しかし、独断専行と言う言葉が誤って理解されてきた結果、それはやってはならないことという認識が定着してしまい、現場指揮官の裁量による問題解決ができないということが多くなってしまいます。
同様に緊急避難と言う言葉も正しく用いられていかないと、本来の緊急避難ができなくなる恐れがあります。
本来の意味を理解してれば、何か不都合が生じた際に法益の比較衡量を行ってそれなりの措置を講ずることができますが、その言葉に対する理解がないと、適切な対応ができない怖れがあります。
緊急時に独断専行ができなかったり、緊急避難ができなかったりするのは危機管理上の大きな問題なのです。
当コラムでは岸田首相には危機管理ができないということを、自民党総裁選の頃から主張してきましたが、やはり彼には危機管理を任せることができません。(専門コラム「指揮官の決断」第261回 「危機管理の要諦は最悪の事態に備えること」?https://aegis-cms.co.jp/2510 )