専門コラム「指揮官の決断」
第390回指揮官のあり方
はじめに
これまで数回にわたって、意思決定の問題について語ってきました。
意思決定に際して、その決定の目的を忘れてしまうと、いくら詳細な計画を立てても意味がないことに言及しています。
今回は、意思決定の問題から一度離れ、リーダーシップの問題について言及します。
弊社は危機管理のコンサルティングファームですが、危機管理を「意思決定」「リーダーシップ」「プロトコール」を三本柱として捉えるという基本姿勢を持っています。
しっかりとした誤りのない意思決定を行い、組織が一丸となって危機に対応するリーダーシップを発揮し、どこから見ても隙のない、信頼できる組織を作ることが危機管理において最も重要であるという認識からです。
しばらく、意思決定の問題が続きましたので、今回は昨今の私たちの社会におけるリーダーシップの危機について言及します。
唾棄すべき連中
報道によれば、自民党の所謂「裏金」問題で、キックバックを受けていたといわれる議員は88名に上るそうです。
衆議院でも参議院でも倫理審査会が行われましたが、素直に出てきた疑惑の議員は極めて少数で、出てきた議員たちも、会計担当者が行ったことであり、自分は知らなかった、と述べています。
在宅起訴された大野泰正参院議員に至っては、「私が収支報告書に関与したことはございません。事務所スタッフを全面的に信頼し任せていたので、収支報告書は適正に作成・提出されていると認識しておりました。私としましては、検察との間の意見の相違がございますので、裁判においてしっかりと自身の主張をしていきたいと思います。やましいことはございませんので、しっかりと(議員として)職責を果たしていきたい」と述べています。
つまり、事務所スタッフがやったことで、自分に罪はないということです。
この感覚が筆者には信じられません。
リーダーシップ論
リーダーシップにはいろいろなスタイルがあります。
かつて、リーダーシップ論には、特性論という考え方があり、リーダーにふさわしい姿、性格など様々なものが研究されていた時代がありました。この特性論はリーダーシップ論が学問的に研究されるようになると早々に否定されてしまい、代わって現れたのがリーダーシップ類型論でした。
つまり、背が高いとか口ひげを生やしているとか、声が大きいというような個人的な特性ではなく、リーダーシップのスタイルをいくつかのカテゴリーに分けて、どのスタイルが好ましいかという議論です。
社会心理学者クルト・レヴィンの指導の下に行われた「アイオワ研究」やレンシス・リッカートの研究などが有名です。
筆者は大学院の研究科で組織論を専攻し、リーダーシップ論の論文も読んでいましたが、バカバカしくて早々にリーダーシップ論からは撤退してしまいました。
その類型の作り方がバカバカしすぎたのです。曰く、「民主的・参加型」「専制的」「友達型」「放任型」など、ネーミングからして結論ありきの議論だったからです。日本でもPM理論などというのがもてはやされ、全国各地でPM理論を学ぶための勉強会が開かれていた頃でした。このPM理論に至っては、新興宗教ではないかと思われるような勢いで、各地で布教が行われていました。
さすがにリーダーシップ論の研究者たちもそのバカバカしさに気づいたらしく、この類型論も次第に影を潜め、代わって登場してきたのが「コンティンジェンシー理論」です。リーダーシップの有効性は、その組織の置かれた状況に依存する、という当たり前すぎる議論です。
筆者は、やっと当たり前のことに気付いたかとは思いましたが、リーダーシップ論自体の科学性に疑問を感じて愛想尽かしをしていたので、リーダーシップ論にもどることはありませんでした。
筆者は組織学会の会員なので、学会誌は毎号読んでいますが、筆者が研究室を出た後、この40年間、リーダーシップ論には評価できるような進展はありません。
多分、社会科学の議論として研究しにくい分野なのだと思います。
個人の性格、人柄が組織のメンバーの貢献意欲にどれだけの影響を与えるかということなので、科学的議論をするには、まだ解析手法が未熟なのかもしれません。
したがって、論理性や根拠を重視する専門コラムである当コラムではありますが、ことリーダーシップ論に関する限り、そのような論理性は追及できません。
したがって、当コラムで展開するリーダーシップの議論は、論理とか根拠などとは無縁の次元で展開しています。
軍隊では
さて、筆者が30年間暮らした海上自衛隊では、「リーダーシップ論」とは呼ばず、「統率論」という古めかしい呼び方をしています。つまり、社会科学の議論ではないぞ、ということです。
その統率に関して、学校で上級指揮官としてどう振る舞うべきかということを教えられることはありません。ただ、初任幹部としてどう部下と接するかということは教えられます。
幹部候補生学校を卒業し、任官し、部隊に着任すると、いきなり数十名(筆者の場合は、護衛艦の機関士として機関科員80名)の部下を持つことになり、しかもその大半が自分より年上で、かつ部隊経験も圧倒的に豊富であるという、民間ビジネスでは考えられない配置に放り込まれるからです。
その教科書というものがあります。「初級幹部勤務参考」という小冊子であり、旧海軍で「次室士官勤務心得」と呼ばれていたものを現代風に書き直したものです。
「次室士官」という言葉はちょっと説明の要があるかもしれません。
航空母艦や戦艦、巡洋艦などの大きな軍艦は、乗組み士官の数も多かったため、士官室に入るのは大尉以上の士官であり、少尉や中尉などの若い士官は士官次室という別の部屋で食事をしたりしていたので、それらの若い士官を「次室士官」と呼びます。
その「次室士官心得」にしても「初級幹部勤務参考」にしても、若い中間管理職が部下をどうやって率いていくかというコツを諭しています。
近年、管理職になるのが嫌で、鬱症状を発症してしまう中間管理職が多くて社会問題となっていますが、幹部候補生学校のような教育機関で教育を受けていない管理職が、部下指導に自信を持てずにメンタルダウンしてしまうのでしょう。
筆者たちも幹部候補生学校在校中に、「任官して部隊に赴任したら、ほとんどの部下はお前たちよりも年上で、技量も圧倒的に優れている。しかし、そのような部下をお前たちは率いていかなければならない。」とことあるごとに言われ、「初級幹部勤務参考」についても、それを熟読して部隊に赴任するように躾けられてきました。
そこには、部下指導について、若年幹部はどのように臨むべきかが、いろいろな事例とともに説かれています。
例えば、部下が寒い、雨の降るときに外で作業をしている場合などは、若年士官は温かい艦内にいるのではなく、部下の作業に立ち会い、熱い風呂や飲み物を準備しておけ、というような具体的な指導がなされています。
その中でも強調され、部隊における人事評価でも重視されているのは、責任の取り方です。
海上自衛隊では「功は部下に譲り、責任は自分が取る。」というやり方が尊重されており、その逆は忌み嫌われています。
旧海軍でも「功は部下に譲り部下の過は自ら負うは西郷南洲翁の教えし処なり。」と言われ、それが海軍から海上自衛隊が引き継いだ伝統の一つとなっています。西郷南洲(隆盛)
は陸軍の軍人でしたが、海軍は薩摩の影響が色濃く残り、海上自衛隊もその伝統を継いで、薩摩的リーダーシップを尊ぶところがあります。
そのような海上自衛隊で育った筆者にとっては、自民党の裏金疑惑の渦中にある政治家たちの弁明は聞くに堪えません。
筆者が勤務評定の評定官であったら、たとえどんなに優秀な幹部であってもその一言だけで勤務評定は「C」を付けますし、補職担当者であったら、絶対に指揮官配置には補職しません。上司への報告は簡単です。「こいつは責任を部下に負わせる奴です。」の一言で十分です。
そもそも「人」としての在り方が問われる
経理担当者が適正に処理していると考えていた、裁判で明らかにしていきたいなどという奴は唾棄すべき存在です。たとえ、自分が知らなかったとしても、その責任を担当者に負わせるという神経は筆者たちには理解できません。
倫理審査会に出てきた議員が全員そのような答弁をしているところを見ると、彼らの指揮官としての在り方に関する考え方が、筆者たちの考え方と根本的に異なるのでしょう。
それが筆者が政治家を嫌う理由でもあります。正直なところ、政治家と握手をしてツーショットを撮るなどということは、筆者にとってはマムシと頬ずりをするよりも苦痛です。
(これは筆者個人の感想であり、もちろん政治家にも高潔な人格の、理想的なリーダーの人物がいると信じたいとは考えますが、不幸にしてそのような政治家を知りませんし、筆者個人の思いですので、他の方々の批判を受け入れるつもりはまったくありません。このコラムは、全編がそのような筆者の独断と偏見だけで執筆されていますので、もしご不快な思いをされる方がいらっしゃるとすれば、お読みにならずにサイトを離れていただいて結構です。筆者が政治家を嫌いなのは、このサイトでは再三表明しており、また、政治家にも面と向かって公言しており、それはすべて匿名ではなく実名のもとに行っております。したがって、そのような筆者の見解に対して反論はあってしかるべきかとは考えますが、それらにいちいち反応することはありません。単に黙殺するだけです。)
いずれにせよ、自分の事務所の不正処理を担当者の責任として、自分は知らなかったとして批判をかわそうとするという態度は、筆者から見ると最低の対応であり、そのような指揮官のもとで、まともな危機管理ができるとは到底考えることができません。
そもそも「人」として如何なものかと考えます。