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専門コラム「指揮官の決断」

第437回 

民主主義とシビリアンコントロール

カテゴリ:

豚よりバカ?

危機管理の専門コラムとしては、異例のタイトルで語ろうとしています。

言うまでもなく、現政権はわが国の最大の危機をもたらそうとしていますが、これについて言及する気力がありませんので、危機管理の問題としては今回は取り扱いません。

そこで、ちょっと見方を変えて、現在わが国が置かれている危機的な状況に言及したいと思っています。

ちなみに、今回、冒頭に掲げた写真は、YouTubeの「今日の日本」というチャンネルにアップされた動画のサムネイルですが、この動画は、失礼にもほどがあります。「緊急速報!鳥取県民絶叫 石場は豚よりもバカ」と言っています。「石破」ではなく「石場」と呼んでいますが、写真は現政権のトップが国会で居眠りをしているシーンですので、多分、政権に居座っている〇×のことを指しているのでしょう。

こんな失礼な表現はありません。

比べるに事欠いて、豚よりもバカとは、モノを知らないのにもほどがあります。

豚の知性は、犬よりも優れていると言われるくらい高度なものです。

迷路やパズルを解いたり、鏡を認識したりできます。自分の名前を覚える能力もあり、豊かな感情表現力を持ち、仲間とのコミュニケーションをとるために鳴き声を使い分けたりしています。

つまり、自己認識能力や社会性が高度であり、認知能力や記憶力も優れており、何年も会っていない人を覚えていることが観察されています。

犬やチンパンジーと同程度、あるいは個体によってはそれを凌ぐ知能の高さをもつとされています。

そんな豚と比べること自体が豚に対して失礼極まることです。

豚は、確かにえさを食べているところなどを観ると、品性が欠けるようにも見えます。しかし、現政権トップのおにぎりの食べ方の方がはるかに品位を欠いています。

こいつがおにぎりを試食しているシーンを見ると、どういう家庭で育つとあれほど下品な食べ方になるかと吐き気を催します。一方の豚は、いかにもうまそうにガツガツと食べているという印象です。

本論に戻ります。

世の中では、民主主義というのは至高の価値であり、絶対に侵してはならないものとして位置づけられています。特に法律学ではそう教えられますので、そう信じている法学部出身者は多いかと思っています。

日本国憲法の民主主義の精神を変えるような改憲は、改正の限度を超えており、許されないと多くの法学部では教えられています。

筆者は法学部出身ではなく、学校を卒業してから法律を学び直し、ある程度の歳になっていましたので、それなりに自分の頭で考えることができるようになっていましたので、民主主義に関しては、法学部の授業とはちょっと違う解釈をしています。

筆者の解釈によれば、民主主義というのは、これまでの歴史上の政治形態のなかで、一番ましなものになる可能性がある政治形態でしかありません。唯一絶対の価値とは到底考えることができません。

その明快な証拠は、現在の日本です。この下品で愚劣な売国奴政権を生み出したのが民主主義です。つまり、筆者の解釈によれば、民主主義と言うのは愚衆政治にすぎません。私たち愚かな国民がこの屑を生み出した責任者にほかなりません。

シビリアン・コントロールとは

その民主主義の下で、軍隊に対してはシビリアン・コントロールという原則があります。

筆者は、30年ほどですが、海上自衛官として過ごしてきました。

その経験から、シビリアン・コントロールに異を唱えるものではありません。

軍人が政治を執るとろくなことになりませんし、むしろ軍人は政治から遠く距離を置くべきだと考えています。

理由は二つあります。

まず、軍人は戦いにおいては、何としても勝とうとします。どのような劣勢に置かれても、彼らはあっさり敗北を認めようとはしません。

と言うことは、軍人には戦争をやめるという判断が出来ないのです。

やめる判断ができない者に始める判断をさせてはなりません。

つまり、戦争を始めるかどうか、始まった戦争をやめるかどうかは軍人に任せてはならないのです。

もう一つの理由は、政治などは、金や権力や名声が至高の価値だと思っている卑しい連中に任せておけばよく、忠誠心、自己犠牲や名誉を大切にすべき軍人が近寄るべきものではないということです。

したがって、シビリアン・コントロールという原則は貴ぶべきと考えています。このおかげで軍人が汚い政治に手を汚さなくてすむのですから。

歪曲されたシビリアン・コントロール

ただし、筆者が制服を着ていた頃、この「シビリアン・コントロール」という概念が誤って解釈されていました。

今でもそうですが、civilian controlは、「文民統制」と訳されます。

しかし、シビリアンというのは、本来は「民間人」を指しています。

「民間人」という言葉は英語では二つの表現があります。citizenという言い方とcivilianという言い方です。citizenという概念は、市民権を持つ人々を指しています。つまり、政治的な権利や義務を持つ人々を指します。civilianは nongovernmental personであり、国家公務員は入りません。

ところが、「文民統制」という誤訳のお陰で、内局の役人が勘違いして、制服自衛官を統制するは自分たちだと思い込んでいました。

21世紀になると、技術的な問題で内局が各自衛隊に教えてもらわなければならないことが多くなり、内局の姿勢も随分変わってきましたが、それまでは酷いものでした。

現在に至っても、基本的には内局優位は変わっていません。

このシビリアン・コントロールが日本の防衛を大きく歪める原因の一つになっていることを皆様にもご理解いただきたいと思って、今回のテーマとなりました。

歪曲されたシビリアン・コントロールの逆機能

シビリアン・コントロールの逆機能の例を挙げましょう。

数年前に、イージス・アショアという武器が話題になりました。

イージスシステムを陸上の基地に置こうという発想です。これには弾道ミサイル対処で日本海へ出動しなければならないイージス艦の負荷が非常に大きいため、海上自衛隊の負担軽減のためという理屈が付けられました。

しかし、防衛省の役人がしっかりとした測量を行わず、Googleの地図か何かで仕事をしたため、地元への説明に齟齬をきたし、設置場所に関して地元の了解を得られず、また、その説明会の席上、担当者が居眠りをするという不始末のお陰で地元対策がまったくできず、しかし、ロッキード社へ違約金を払いたくないために、本来陸上に置かれるべきイージスシステムを船に載せるということになりました。

俗にイージスシステム搭載艦と言われる船です。

この船は、従来の海上防衛戦略には無かった船なので、どういう装備を載せるのかも決まっておらず、海上自衛隊の負担軽減のはずが、海上自衛隊だけが重荷を背負わせられる船になりました。

この騒ぎの発端となったイージスアショアの導入を推進したのは小野寺元防衛大臣です。発想そのものは悪くはありませんし、ちゃんと作っていればそれなりに威力を発揮したはずです。ただし、海上自衛隊が欲しがったのではなく、政治が何らかの理由で(利権があったのかどうかは分かりません。)、内局が喜んで後押しをした結果です。

しかし、実は見逃してはならない大問題があります。

このシステムをコントロールするのがSPY7というシステムなのです。

海上自衛隊のイージス艦はSPY6を積んでいます。

6より7の方が新しいということではありません。異なるシステムなのです。

米海軍のイージス艦もSPY6を積んでおり、アップデートしてもその延長上のアップデートになります。

これがどういうことかと言うと、プログラムのエラーやバグなどは米海軍の実用化の段階で修正されていきます。また、米海軍は訓練装置も持っていますので、海上自衛隊のイージスシステム関係員は米国へ留学して、米海軍の学校で勉強してきます。

一方、米国はSPY7のイージスアショアを開発はしていますが、実戦配備していません。

つまり、海上自衛隊がSPY7を積んだ船を就役させるためには、訓練施設を自分たちで作らなければならず、プログラムの修正も自分たちの費用でおこなわなければならないということです。

しかも、イージスシステム搭載艦の建造予定は2隻です。

たった2隻のシステム要員のために別の訓練をして、プログラム修正の費用を自分で出すのです。

海上自衛隊の負担は計り知れないほど大きなものになります。

財務省の役人たちはよく「昭和の三大馬鹿査定」と言って「戦艦大和、伊勢湾干拓、青函トンネル」を挙げますが、緊縮財政を標榜する財務省が、このイージスシステム搭載艦の予算を査定したことに呆れかえっています。これは令和の最大馬鹿査定であり、二度と奴らに昭和の三大馬鹿査定などと言わせるつもりはありません。

実際に、筆者は財務省の若手官僚との付き合いがありますが、彼らには時々「お前らが最大馬鹿査定をしておきながら、プライマリーバランス黒字目標などと、どの口が言うんだ。」と毒づくことがしばしばあります。

連中が「好きであんな査定をしたんじゃないですよ。」と言うところを見ると、凄まじい利権が働いているんでしょう。

政治家が軍事を考えると、その程度の話になります。

連中は軍事に関してはド素人であるにもかかわらず、利権など様々な考慮事項があって、筆者が考えるほど単純な思考プロセスで結論を出したのではないかと思っていますが、とにかくこれはシビリアンコントロールの逆機能です。

本来あるべき姿

軍隊に対するシビリアン・コントロールは、戦争をするかどうかの判断は政治が行うべきというものです。これを軍人に任せてはならないという理屈は理解できます。

先に述べたように、軍人は、「もう戦えません。」とはなかなか言えないからです。

第2次世界大戦も、まともに数字を読める者なら「特攻」などを始めなければならない頃には「もう勝てない」と考えるはずですが、軍人はどんなに劣勢に立たされても、何としても勝てる戦いに持ち込むためにはどうすべきかを考える習性を持っていますので、彼らに終戦の判断はできないのです。

だからこそ、シビリアンが決めなければなりません。

つまり、戦うか戦わないかを決めるのがシビリアンで、どう戦うかはプロである軍人が考えればいいことなのです。

それが本来のシビリアン・コントロールなのですが、現在では逆機能が目立ちます。

この逆機能のお陰で、もっと恐ろしいことが国民の知らないうちに進んでいるのですが、それについては長くなりますので、次回のテーマとさせていただきます。

今回は、シビリアン・コントロールという考え方自体は極めて正しく、本来堅持しなければならない考え方であること、民主主義と言うのは至高の価値でも何でもなく、単なる愚衆政治にすぎないこと、豚は下手な指導者よりもはるかに品があり、知性も高いことをご理解頂ければ、本稿の目的を達したかと考えます。

次回は、一般の皆様が気付かないところで恐ろしい計画が進んでいることについて言及します。お楽しみに。