専門コラム「指揮官の決断」
第440回陰謀論をどう考えるか その1 お詫びと訂正

お詫び
シビリアンコントロールの逆機能についての説明をする予定でしたが、ある事情により次回以降に繰り延べさせていただきます。
ある事情というのは、以前、参議院議員会館で行われた日航123便関連のシンポジウムの第2弾が衆議院第一議員会館で行われたことです。
今回は筆者は登壇しませんでした。というのは、第1回では4人のパネリストが登壇したのですが、元陸上自衛官2名、元航空自衛官1名が現場に行った人たちであり、自らの現場での体験を語ったのに対して、筆者は現場に行っておらず、ただ伊豆七島三宅島近海にいて、もし航空救難が命令されたらどうするかということで準備をしていただけでした。しかし、この事件に関してはその後も関心を持ち続け、社会学的な見地から考察をしていました。一時沈静化しつつあったこの陰謀論が森永卓郎氏によって再燃してきたことを受け、彼の議論があまりにもバカバカしいのに多くの方々が影響を受けている事態を看過できず、当コラムにおいて取り上げたりしました。
自衛隊の名誉を守るためにもこの陰謀論を何とかしたいというグループが現れ、現場に出動した陸上自衛官や航空自衛隊のパイロットだった人たちは見つけられたのですが、海上自衛隊で証言できる者がなかなか見つからず、元海上幕僚長から、お前はコラムなんぞを描いているんだから何とか協力しろ、と言われて登壇したところでした。
つまり、4人のパネラーのうち3人は現場経験者であったにも関わらず、筆者だけ、元自衛官ではあったものの現場には行っておらず、社会学的見地から意見を述べていたに過ぎなかったので、パネラーとして参加していても違和感があったのです。
ところが、そこに顔を出していた元海上自衛官の献身的な努力で、日航機に対してミサイルを撃ったとされている「まつゆき」に当日乗り組んでいたという元海上自衛官を二人も見つけ出すことができました。
当然、彼らに話をしてもらう方がいいので、今回は私は登壇しませんでした。
そこで、驚愕の事実を発見したので、急遽予定を変えて投稿することになった次第です。
訂 正
筆者が驚愕の事実と認識したのは、日航123便の事故があった日の「まつゆき」の行動でした。
筆者は当時横須賀地方隊の第33護衛隊の護衛艦「によど」の通信士として防衛大学校学生の海上実習支援を終えて横須賀に戻るところでした。事故があった日の夕刻、「によど」は明日は横須賀に帰港するというところで、伊豆七島沿いに北上していました。
夕刻、艦橋で航泊日誌の整理をしていた筆者に電信員長が話しかけてきました。彼は、電信室で傍受している米第五空軍のネットが変なことを言っているので、何と言っているのかを聞き取って欲しい、と言ってきたのです。
電信室に行ってヘッドホンを渡されて聞いてみると、第五空軍の空域管制官が日航機がロストポジションと言っている、現在どこにいるのか分からないので、近くを飛行中の米軍機は見つけたら報告するようにと繰り返しているのです。
ロストポジションというのは、自機の位置が分からなくなっているということです。
このことは、かつて当コラムで4回連続で取り上げたときも解説しています。この時は元航空自衛隊のジェットパイロットだったと称する男が、その定義が出鱈目で、記事全体としても元海上自衛官ということで信頼性を高めようとしている悪質なフェイクであるというコメントを残していますが、筆者のこの説明は間違っておりません。ICAO(国際民間航空機関)の定義通りです。
この元パイロットという男の文章も何を言っているのかよく分からないコメントで、誹謗中傷の代表のような文章なので、そもそも本当にパイロットだったのかを疑っています。
ちなみに、彼の名前を空自の元パイロットの誰に聞いても知りません。空自でも戦闘機パイロットというのは狭い世界なので、その中で名前が知られていないというのがどういうことなのかよく理解できません。
とにかく、日航機が行方不明になっているらしく、最後に分かっている位置が伊豆大島上空ということだったので、もし、南に針路を転じていたらこちらに向かっているということも考えられ、航空救難ということも視野に入れなければなりません。
筆者が乗っていた船には隊司令も乗っていたので、司令護衛艦として航空救難の指揮を執らねばならず、それなりの覚悟と準備が必要になります。
筆者はその旨を電信室に伝え、艦橋に戻ると艦長と隊司令に第一報として情勢を伝えました。
航空救難が下令された場合、どういう編成になるのかを調べて、その海域には筆者の乗る「によど」が所属する第33護衛隊の3隻しかいないことを知りました。当時、筆者の乗る地方隊の小さな護衛艦は自衛艦隊指揮システムを搭載しておらず、付近にいる船については、各艦が出航前に発信するDeparture”という電報と、帰港後に発信する”Arrival”という電報を元に航海科員が艦橋の海図に記入してくれていたのです。
また、出航前に総監部に命令受領に行った際、総監部の幕僚から、帰ってくる週はIHIで艤装中の「まつゆき」が運動能力試験を行っているという情報をもらっていました。
ただ、「まつゆき」はまだ防衛省に納入されておらず、納入前の最終的な試験を行っている段階でしたので、航空救難部隊に編成するわけにはいきませんでした。
初代艦長予定の艤装員長以下の初代乗組員は乗っていますが、所属はIHIであり、指揮を執っているのはIHIの船長でしたし、造船所の社員や下請け企業の技術者などが乗っていたので、自衛隊の指揮下に入れることはできませんでした。
「まつゆき」が海上自衛隊の護衛艦となるのは、その翌年の三月末の予定でした。
したがって、筆者は相模湾に「まつゆき」がいたものと思い込んでいました。
ただ、その時、「によど」は三宅島から針路を東北東に取り、相模湾の中央には行かず、浦賀水道を目指して航行していたので、「まつゆき」を目視することもなく、関係ないものという筆者の判断で気にもしていませんでした。
それが、横須賀に帰港後、日航機の事故で世間が大騒ぎになっていて、「まつゆき」が尾翼の破片を見つけたという報道もあったので、やはり「まつゆき」がいたんだと思っていました。ただ、報道では海上自衛隊の護衛艦「まつゆき」となっていたので、テレビ局ってなにも調査せずに放送するんだな、と思っていました。
ところがこの度、その「まつゆき」の艤装員だった機関長予定の方と補給長予定の方から、当日は「まつゆき」は出航せず、石川島播磨重工東京造船所の岸壁にいたと直接聞いてびっくりしました。「まつゆき」は翌日出航して相模湾に入り、そこで事故機の尾翼の一部を見つけたのだそうです。
そこで、当コラムの記事の訂正をしなければなりません。筆者は「まつゆき」が相模湾にいることを知っていたと記述しましたが、「まつゆき」は当日は相模湾にはいなかったというのが事実です。
筆者は総監部から、その週は「まつゆき」が相模湾で運動能力公試をしているという情報を得ていたので、相模湾にいたものと思い込んでいました。訂正いたします。
弊社の専門コラムは危機管理を専門とするコラムですが、基礎をおいているのは組織論、意思決定論などです。これらは一般には経営学に分類される体系を持っていますが、筆者の関心は経営学ではなく社会学にあり、大学院でも意思決定論は国際関係論を中心に学んでいました。
その観点からは、陰謀論というのは見過ごすことのできないテーマであり、筆者も若いころからいろいろと研究をしてきました。
そこで、今回から陰謀論を考える記事を何回かに分けてお送りしたいと思っています。
次回をお楽しみに。