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専門コラム「指揮官の決断」

第20回 

No.020 危機管理:危険予知能力の低下

カテゴリ:コラム

 先に話題になったポケモンGoの副次的な効果として、家の中に引きこもっていた若者たちが外に出るようになったことがあげられ、思わず笑ってしまいました。しかし、笑ってばかりいられない問題がこの話題には潜んでいます。
 
 私が子供のころ、およそ半世紀前にすでに、「最近の子供たちは小刀の使いかたも知らない。」と言われたものでした。私の小学校入学のころは、電動ではなかったものの鉛筆削り器が普及しており、確かに鉛筆の先を小刀で鉛筆を削るということは小学生の頃にやった記憶はありません。大学に入って、論文を書く間に気分転換に削ったことがある程度です。しかし、当時私たちが遊んでいたのは、近くにあった山だったり季節外れの海水浴場だったり、磯の岩場だったりでした。遊んですり傷だらけになって帰ってくるというのは日常茶飯事でした。しかし、子供たちはどこの崖は登っても大丈夫だけど、どこは危ないということを知っていましたし、磯で遊んでいるときも、波に背中を向けて何かに熱中することは危険だということも知っていました。
 
 中学・高校ではラジオを作ったりする中で電気コテを振り回して火傷したり、テスターの使い方を誤って回路をショートさせて火花を飛ばしてびっくりしたりということもよくやりましたし、つまらないことで殴り合いのけんかになったりもしました。何せ「花の応援団」などという映画が流行っていた頃でしたから、学生服の内側に虎や龍が住みついている荒っぽい連中も大勢いました。
 つまり、何をやると危ないか、どこまでなら大丈夫かという加減を体で覚える機会がいくらもあったのです。
 
 私の息子が小学校の頃は、近所にあった空き地が次々に公園などに作り替えられていきました。
 彼らが子供同士で遊んでいた空き地が公園や運動公園になって、彼らが安全に遊ぶことができるようになったのかというと、そういうことでは全くありませんでした。
 公園でのボール遊びは禁止され、運動公園は月に一回市役所で行われる抽選で予約が決められ、それも子供だけのグループでは抽選に参加できず、何らかの団体に入るか、保護者に頼んで抽選に参加しなければならないのです。
 海岸でのバーベキューも禁止され、焚火ができる場所は一部のキャンプ場に限られてしまいました。すべてが管理されているのです。
 したがって、焚火などしたことがない若者が、たまたま焚火などをすると、後をどう片付けるべきかを知らないのでやりっ放しになります。そうするとますます焚火が禁止されていきます。ついにはBBQをやってはならない砂浜ばかりになってしまいました。
 
 運動会では運動の苦手な子への配慮のため、徒競争もみんなで手をつないでゴールさせるなどということが行われています。さらには、「頑張らなくてもいい、黙っていてもあなたはオンリーワン」という歌でダンスをさせて教育したつもりになっています。
 
 そもそも教育とは、子供が大人になるのに必要なものを身に付けさせるのが本来の目的であるはずなのに、大人になったらどのような現実が待っているのかを教えもせず、言葉だけが美しい歌の文句を幼い頭に刷り込んで、現実を直視させないというのは如何なものでしょうか。
 本当に教育をするのであれば、オンリーワンの存在になることがどれほど大変なことか、そして、世の中には理不尽なことが山ほどあり、不平等であるばかりか不公正なのも現実であり、しかし、その中にあっても正しいことは信念をもってつらぬかなければならないということを教えなければならないはずです。花屋の店先に並ぶだけでも、凄まじい数の間引きに耐えなければならないのです。
 
 私が小学生や中・高生の頃、勉強は全然だめでも運動が得意なものは運動会でヒーローになることができ、その限りにおいて自己実現できました。
運動が苦手な秀才たちは、勉強して難易度の高い学校を目指して競争していました。
 各自が、自分の勝負できる分野で何とか頑張っていたのです。
 欲しいものを手に入れる、なりたいものになる、そんなことに一生懸命になっていました。自分探しをしている者も多数いましたが、ろくに金もないのに世界中を放浪してきたり、ヨットで世界中の海を回ったり、半端な覚悟ではできない自分探しでした。
 本当にやりたいことが見つかるまではフリーターで、などという自分探しをしている若者はほとんどいなかったように思います。
 
 現代は、社会が、大人たちが、若い者の牙を抜き、その果てしないエネルギーを閉じ込め、いろいろなものに対する免疫も抵抗力もない、欲しいものやなりたいものに対して動物的なまでにどん欲になることもない世代を作り出してきたのです。
 ところが、社会に出れば、情け容赦ない現実が待ち受けており、何の免疫もなく育てられてきた若者たちは、その現実にいとも容易に押しつぶされてしまいます。それを「今の若い者は・・・」という言い方でひとくくりにして、しかし、真剣に面倒を見ずに、不適応なものは切り捨ててしまうのが私たち大人です。
 「今どきの若い者は、」などということを言ってはならないと山本五十六がすでに言っておりますし、さらにはエジプトのパピルスにもそのようなことが書いてあるそうで、若い世代が自分たちの頃に比べて頼りなく見えるのは齢をとった証拠なのですが、そうなってしまったのは若い人たちの責任ではなく、私たち大人の責任であることを我々は自覚しなければなりません。
 
 若い世代の危険予知能力の低下は紛れもなく、私たち大人の責任なのですが、何とかしなければなりません。なぜならば、そのように危険な状態を認知する能力が低くなっている世代が親になると、その子供の世代を教育することができず、その悪循環が加速されるからです。
 
 危険を判断できないためにけがをしたり命を失ったりした場合、個人の責任の観念が確立されていない日本では、管理責任が問われることになり、行政や社会全般はますます管理を強化し、いよいよ若い人たちの牙が抜かれていくようになります。
 ちょっとでも危険な要素のあるものは、軒並み禁止されていくことになるでしょう。
 
 本来、自由や権利を主張したければ、その反射的効果として自ら責任を負うことを覚悟しなければなりません。自らの行動に自分で責任を負うという経験から人は多くを学びます。
 手痛い目にあうことにより危険を予知できるようになるのです。
 子供たちが可愛ければ、彼らが窮地に陥っても何とか切り抜けられるだけの能力を身に付けさせてやることが必要であり、そのためには心を鬼にしてでも、いろいろな目に合わせなければならないのです。
 
 また、社会は、そういう免疫を持っていない若い人たちに適切に対応しなければなりません。プライバシーの侵害やセクハラ・パワハラなどと言われることを恐れるばかりに、積極的に接することをためらっていてはならないのです。
 「今の若いものは・・」と言って切り捨ててしまったり、どう扱っていいかわからないまま放置してはなりません。
 大人たちの責任を取らなければならないのです。