専門コラム「指揮官の決断」
第27回No.027 「我思う、ゆえに我あり」
私が大学院で専攻したのは、組織論と呼ばれる分野であり、特定の目的の下にある人間の集団が研究対象でした。組織論にもいろいろな分野があり、組織をいかに動機づけ、目的に向かって活動させるかというのがリーダーシップ論で、組織の中でどのように意思決定が行われるのかを研究するのが意思決定論でした。
この組織論は大きくいえば社会科学の一分野であり、政治学や社会学、心理学、経営学などの様々な分野の研究者が研究を行っており、それぞれのアプローチの仕方によって特色が別れていました。
ただ、一般に社会科学全体について言えるのですが、方法論が自然科学ほど厳密ではなく、厳格な検証に耐えられない学説がかなりまかり通る世界でもありました。扱っている対象が生身の人間だったり、研究室に収まらない実社会だったりするため、自然科学のような理想的な環境における再現性などを求めることができず、事実もしくは論理的一貫性で説明できればよしとされている世界だったのです。
その結果、自然科学では事実と価値は完全に分離して考えますが、社会科学では一定の価値観のもとに事実を解釈するということが平然と行われていました。
私は自分自身が社会科学の研究者の卵として勉強を始めようとしているにもかかわらず、この社会科学の事実と価値を峻別しない研究態度に不満を抱いていました。
専門の組織論についても、当時のリーダーシップ論はリーダーシップスタイルを比較検討する議論が主流で、時代の潮流として「専制的・独裁的」リーダーシップよりも「民主的・参加的」リーダーシップが優れている、などという学説が支配的でした。私に言わせれば、このリーダーシップの類型におけるネーミング自体が価値から離れていないではないかということなのですが、若造の研究者の卵が何か言えるわけではありませんでした。
21世紀に入り、社会科学も大きく変質してきているようです。情報処理技術の著しい進歩により膨大な量のデータを扱うことが可能となったことや、脳科学や心理学の発展により、人間行動をかなり客観的に観察することができるようになり、方法論が自然科学のような厳密な議論に耐えられるものになりつつあるようです。
ただし、それでも事実を解釈する際には十分な注意が必要です。
つい最近も行動経済学の論文を読んでいたところ、プロのパイロットですら着陸のため滑走路に近づいている時、滑走路を十分見ているようでも滑走路の先端に別の飛行機がいることに気が付かないという実験結果が紹介され、目に入っているものを必ずしも全て認識しているわけではない、という例として解説されていました。
これはプロのパイロットを対象として、シミュレーターで実際と同様に機長と副操縦士の二人に対して実験した結果だそうで、実験では正・副の両操縦士とも滑走路の先端に現れた別の飛行機に気が付かなかったそうです。パイロット達には実験の目的は伏せられていたそうです。つまり、目的が伏せられていなければパイロットは滑走路の先端にある障害物を注意するであろうが、通常の場合は、先端にある障害物をかならずしも認識しないということなのです。
この論文を学生時代の私が読んだならば、なるほどそうか、と納得したであろうと思います。しかし、今の私はそう素直に読んでいるわけではありません。
私はプロではありませんが飛行機を操縦する資格を持っています。もちろんフライトシミュレーターで訓練を受けたこともあります。その経験から申し上げれば、確かにフライトシミュレーターで、内緒で障害物を滑走路の先端に出現させられれば気が付かないことはあるかもしれません。しかし、実機で実際に滑走路に進入しようとしているときに、同じことが起こることが全くありえないとは言いませんし、実際に同じケースの事故事例もありますが、それはこの例が示すような単純な理由ではないのです。
実際に着陸する際、パイロットはそのフライトの中で一番緊張しています。通常のフライトで一番難しいのが着陸だからです。だから、着陸の作業に集中するあまり、先端にいる別の航空機に気が付かないことがあると言いたいのだろうと思いますが、そう単純ではありません。
なぜなら、実際に飛行機が着陸する際には、着陸が許可されているからです。つまり、滑走路上に障害物はない、着陸しても安全なので着陸してよろしい、という情報をタワーから与えられているのです。したがってパイロットは管制官を信頼して最も神経を使う着陸の作業に集中しており、滑走路の先端に対する注意力が下がっているのです。
小型機が使う飛行場の中には、管制官が常駐していなかったり、タワーそのものがない飛行場があります。そのような飛行場に着陸する際には、パイロットは自分の責任で滑走路の安全を確認して着陸しなければなりませんので、滑走路全体や滑走路に繋がるタクシーウェイなどをよく見ています。それでも滑走路上の事故が起こるのは、それらの飛行場を使うパイロットはほとんどがアマチュアなので、経験が浅く、他機への配慮があまりできないパイロットが多いからです。
管制官から着陸許可をもらって着陸する場合には、より着陸動作に集中していることは確かなので、先端に不意にあらわれた障害物に気が付かないということは起こりえないことではありません。しかし、パイロットに着陸の許可がタワーから与えられている場合と、シミュレーターで飛行作業だけ行っている場合とではパイロットの心理状況が全く異なるという視点を持っていないと、この論文の実験が何らかの有意な仮説を引き出しているとは言えないのです。
最近のシミュレーターはびっくりするほどよく出来ていて、特に夜間の空港の映像などは、実機を操縦しているときと全く同じように見えます。しかし、後ろに生身の乗客を乗せて、失敗すれば大事故になる実機の操縦をしているのと、いくら精巧にできていても、そのような緊張感を持たずに扱うことのできるシミュレーターで操縦をしているのでは、パイロットのメンタリティは全く異なります。私が読んでいた行動経済学の論文が何らかの有意義な結論を導き出しているとは到底思えないのです。
おなじようなことは様々な分野の学説についても言えるのではないかと思います。
私が学生時代、経済原論を近代経済学で教えている大学は少数派で、マルクス経済学で教える大学の方が多かったように思います。しかし、その後、マルクス経済学の学者たちはどうしているのでしょうか。
当時の支配的歴史観であった弁証法的唯物論・唯物史観による予言はどうなったのでしょうか。マルクス・エンゲルスの予言が正しかったと評価できるのでしょうか。
私たちは、どれほど偉大だと言われる学説であろうと、世間の通説であろうと、とにかく自分の頭で一度しっかりと考えてみる必要があるのではないでしょうか。
デカルトは『方法序説』で、すべてを疑って、自分で検証しなおしてみたところ、すべてを疑っている自分が存在することは間違いないことに気が付き、「我思う、ゆえに我あり」と言い残しましたが、この態度が正しいのではないかと思っています。
通説に流されてしまう、俗説を安易に信じてしまう、このような態度では大切なものを見失いかねません。時代が大きな転換期を迎えている現在、しっかりと自分の眼で現実を直視し、自分の頭で判断しないと将来にわたって大きな後悔を残すことになりかねません。
本コラムで度々お伝えしていますが、南海トラフに起因する大地震や富士山の噴火などの危険性は高くなる一方です。また、東シナ海における中国の動向や北朝鮮の核及びミサイルの開発も新たなフェーズを迎えています。これに呼応して我が国の安全保障のあり方や憲法改正問題などの議論が本格化するのも時間の問題でしょう。
政府やマスコミの論調に惑わされることなく、自分で考えないと後で後悔することになるのではないでしょうか。迫りくる脅威はしっかりと見据えるべきですし、有権者としての権限を行使する際には自分で考えて、おかしいと思ったら、おかしいと主張すべきなのです。王様が裸で歩いていたら、「王様は裸だ。」と言うことが正しいのです。空気を読む必要などはありません。
日本的風土の中ではこの「空気を読む」ということが非常に重要視されますが、このために私たちは歴史的にどれほどの過ちを犯してきたかを一度考えてみる必要があると思っています。
著名な評論家や学者の説を鵜呑みにせず、空気にも流されず、自分の頭で考えるということは大変なことように思えますが、実はそれほど難しいことではありません。ちょっと立ち止まって考えてみるという基本的な態度を身に付ければいいだけのことです。そのうえで「なるほど」と思うのであれば、その時点ではそれでいいのです。常にそのような態度を持ち続けることにより、いろいろなことが見えてくるはずです。若い方々には特にこのような精神的態度を持って頂きたいと思っています。
そのためには、まず、このコラムの主張をまず疑ってみる必要があるのかもしれません。