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専門コラム「指揮官の決断」

第28回 

No.028 『決定の本質』

カテゴリ:コラム

 国際関係論や意思決定論を学ぶ者にとっての必読書にグレアム・アリソンの『決定の本質』という本があります。
 私が学部の学生で、組織論を専攻しようと決めたものの、組織論の中で何を勉強しようかと悩んでいた時に出会った本で、ひょっとすると私のその後の進路に極めて大きな影響を与えた本かもしれません。
 
 組織論の中で何を勉強するかというと、大きく分けると意思決定論かリーダーシップ論かという区分けができます。私は当初リーダーシップ論に興味を持っていたのですが、勉強すればするほど当時のリーダーシップ論は胡散臭く、これは科学ではないなと感じるようになっていました。と言って、意思決定論はどう勉強しようか皆目見当がつかない状態にあった時でした。ある教授が、意思決定論を勉強したいなら推薦の本があると紹介してくれたのがこの本でした。
 
 早速日本橋の丸善へ出かけて行って注文したのですが、当時の日本橋丸善の3階にあった洋書売り場にいた店員は、今の丸善の店員とは月とスッポンどころではない違いがあり、○○大学の□□先生のゼミです、というと、じゃあこれを読んだ方がいいよ、といって適当な本を取り出してくれるという凄い店員が何人もいましたので、私が注文した本のタイトルを確認して、「ホウ、あんた意思決定論の専攻かね。これはいいよ。」と言ってくれたのを覚えています。
 
 多分、注文してから1か月以上たって入荷したのだと思いますが、年末の慌ただしいある日、丸善まで本を取りに行き、もどかしいので包装を断って、2階にあったカフェに飛び込んで読み始めたのを覚えています。
 当時の日本橋丸善の2階にあったカフェは、著名な作家や学者が買った本を持ち込んでコーヒーを飲みながらページを繰っている光景を見かけることが多く、大きなタライのような鍋で湯せんにかけられたホーローのポットから真っ白いコーヒーカップにかなり濃いコーヒーが注がれ、その香りが何とも言えなかったのと、そのアカデミックな雰囲気に憧れがありました。
 その日、私の横にちょっと遅れて座ったのがエッセイストの植草甚一さん(巷ではJJおじさんと呼ばれていました。)で、コーヒーをズルズルと音を立てながら、いかにもうまそうに飲んでいたのが鮮烈な印象だったので、その日のことをはっきりと覚えています。
 
 さて、この『決定の本質』ですが、私が紹介されたときは翻訳がありませんでした。仕方なく原書を買わざるを得なかったのですが、学術書や原書の読み方もろくに知らなかった当時の私にとっては荷が重く、辞書を片手に、第1ページから逐語訳をしながら読んでいったようです。ある程度読み進んだところで、とてつもなく面白い内容であることがわかり、その後は夜の更けるのも忘れて読みふけったこともありますが、最初は1日で3ページくらいしか読めない日々が続いていて、かなり苦しい日々でした。当時読んだ本がいまだに本棚にあり、読んだ日の日付が入っているので、その進捗の遅さがわかるのですが、わからない単語に訳を書き込んだりしている跡を見ると、よくこの程度の英語力で原書など読もうと思ったなと感心してしまいます。
 
 この本の著者のグレアム・アリソンという人物は、ハーバード大学とオックスフォード大学の両方を卒業しており、ハーバードの公共政策大学院の助教授の時に博士論文として提出したのが『決定の本質』です。彼はその後、クリントン政権の政策担当国防次官補として対ロ政策を担当しています。
 
 『決定の本質』の何が凄いのかというと、意思決定論が前提としていた意思決定者のモデルを覆したことにあります。それまでは、当時の経済学と同様、合理的意思決定者をその分析の前提として仮定して議論が展開されていたのですが、アリソンは、キューバ危機の分析に際して合理的行為者としての第一モデル、組織過程としての第二モデル、部内政治としての第三モデルという三つのモデルを用い、アメリカがキューバ危機に対して、いかにして海上封鎖という結論を導き出したのかを描き出して見せたのです。
 
 合理的行為者とは、問題を客観的に認識し、国家目標の優先順位が明らかであり、あらゆる選択肢から最適の手段を選択する合意的行為者を意思決定者として仮定するモデルです。
 組織過程モデルとは、対外政策の主体は国家ではなく、その構成要素である種々の政府組織であり、それぞれがそれぞれの合理性に基づき、その標準的手続きや、受容できる行動の範囲などの制約の中で意思決定をしていくと考えるモデルです。
 そして部内政治モデルとは、意思決定の組織をさらに細分化し、意思決定の過程に影響を与える役職についている個人レベルまで観察を広げ、それぞれの価値感、宗教観、その時点での思惑などを分析し、それらの政治的ゲームの結果、対外政策が策定されるというモデルです。
 これはつまり、意思決定過程の分析に関する大きなパラダイムシフトであり、今となっては当然でしょうが、当時の私たちにとっては劇的なものでした。
 
 この分析的枠組みは、すでに40年以上前に発表されたものですが、いまだにその輝きは失っておらず、様々な組織で行われる意思決定を、この三つの枠組みで切ってみると非常に面白い発見をすることができます。
 このパラダイムと、最近進展が目覚ましい行動経済学の成果を巧みに取り入れることにより、意思決定過程の分析はその精度を向上させることができるはずですし、それは特に競争の戦略を立案する上では非常に有力な武器となるものと考えます。
 
 競争の戦略についてはランチェスターを持ち出すコンサルタントがいます。私も自衛隊在職時、ランチェスターの法則については勉強をしましたが、これは軍事上の数学的な法則であり、これをビジネスの現場に直接適用するのは非常に難しいものがあります。大方のコンサルタントはしっかり勉強されていますので、それなりの方法論を作り上げられているようですが、付け焼刃でこじつけとしか思えないランチェスターの戦略もよく見受けられますので注意が必要です。「ランチェスター戦略」と「ランチェスター経営」の違いを理解していない著名評論家すらいます。
 
 いずれにせよ、相手がどのような思考過程を経てひとつの意思決定を行ってきたのかをしっかりと分析することは、競争の戦略においてとても意義のあることです。
 社会科学の世界において独自のパラダイムを構築するということは、自然科学の世界における新発見に等しい業績と評価されます。
 私は危機を機会に転ずる方法論をイージスクライシスマネジメントシステムという体系にまとめました。これは一つのパラダイムと言えるのですが、皆様も自分で何らかの分野において一つのパラダイムを構築してみることをお勧めします。それができると、その分野における専門家とみなされます。
 自分で作り出した武器は、借り物の武器とは異なり、自分がその長所・短所を知り尽くしており、もっとも使い勝手がいいものであるはずです。
 百戦錬磨の戦士は、自分の武器を持っているべきだと思います。
 私は、危機管理に重要な要素として、まず「的確な意思決定」をあげていますが、意思決定論を学ぶ際、『決定の本質』は一番最初に手に取るべき書物です。