専門コラム「指揮官の決断」
第43回タイタニック号沈没
世界の海難史上、最も有名な海難はやはりタイタニック号の沈没事件かもしれません。
事故そのものは、見張り不十分と不適切な運航による100%人災であり、それほど複雑なものではないのですが、何故が映画になったり、本が何冊も出版され、船舶運航関係者以外にもこれほど知られている海難は他にありません。
有名になった背景としては、この船が当時世界最大の豪華客船として設計されたオリンピック級客船の2番船であり、その処女航海において事故を起こし、1500人の人命を失うという、当時の海難の記録的な事故であったことが挙げられます。
タイタニックはイギリスのサウサンプトン港からニューヨークに向けて出港しました。1912年4月10日のことです。
4月12日午後11時40分、ニューファンドランド沖で前方450mに高さ20m弱の氷山を発見したタイタニックは、当直の一等航海士が舵を取り、行き足を止める号令を次々に発し、必死で衝突を回避しようとしましたが、かろうじて船首の衝突は免れたものの、右舷の船腹を切り裂かれ、その破孔からの浸水によって2時間40分後に沈没してしまいました。
この日、天気はそう悪くはありませんでした。月は出ていませんでしたが風は全く無く、海面は鏡のようで星が映っていたと言われます。ただ、この季節、この海域は暖流と寒流がぶつかる境界面にあり、海霧が発生しやすい海域として有名であり、プロの船乗りやヨット乗りが航海計画を立てるときに必ず参照するパイロットチャートと呼ばれる本にもその旨が記載されています。
この日も濃霧ではなかったものの、海面付近には靄のようなものが漂っていました。
鏡のような海面で、星も見えるような状況で何故見張り不十分で大きな氷山との衝突が起きるのかということが分かりにくいかと思います。
決して当直の航海士以下が怠けていたわけでもありません。これが自然の恐ろしいところであり、船舶運航の難しいところでもあるのです。
原因は、タイタニックが客船だったからです。
同じ時間に同じ場所を走っていたのが貨物船や軍艦であったらあの衝突は起きていなかっただろうと思います。
真夜中に大洋の真ん中を航海中の船のブリッジに上がったことのある経験をお持ちの方はそう多くはないと思いますが、霧に囲まれていない限り、周囲が全く見えないということはありません。凄い雨に降られている時には視界が恐ろしく悪くなることがありますが、普通の雨なら全く見えないということはありません。特に月が出ていれば夜でも水平線さえ見ることができます。
タイタニック遭難の夜、現場海域では月が出ていませんでしたが、星は見えていたということですので、鼻をつままれても分からないような真っ暗闇ではなかったはずです。
しかし、鏡のような海面だったので、波が無かったのです。もし風が吹いていれば、氷山に波が当たって白く砕けるため、それが遠くからでも視認できたはずです。
しかし、その波が無く、かつ氷山の高さが20m弱でした。タイタニックのブリッジからは見下ろすような高さしかありません。
それでも貨物船だったら氷山を余裕をもって視認できたかもしれません。
タイタニックは客船でした。
私も夜の航海中に大型客船と行違ったことが何度もありますが、客船ははるか遠くからはっきりと分かるくらい明るいのです。ありとあらゆるキャビンの窓から光が漏れ、ダイニングルームやサロンからは明るい光が輝き、デッキ上のプールサイドにはイルミネーションが飾られています。
貨物船には窓がほとんどありませんし、軍艦は通常は夜は灯火管制をして走っていますので航海灯以外は見えないのですが、客船はとにかく明るいのです。
この明るい客船のブリッジにいると、自分の船の灯りで外が見にくくなっています。
まして、タイタニック遭難当夜、海面には靄が漂っていました。この靄に自船から漏れる灯りが反射して余計に見にくかったかと思います。皆様も霧や靄の中でヘッドライトがほとんど役に立たなかったという経験をお持ちかと思いますが、それと同じです。
タイタニックは航行警報として流氷群の存在に関する情報を受け取っていましたが、この時期、この警報はよく発せられるので特に注意をされなかったようです。
タイタニックはゆったりとした船旅を楽しむように設計されており、高速船だったわけではないのですが、それでも氷山発見時には22ノットの速力で航海しており、変針も後進のエンジンも虚しく氷山に船腹を切り裂かれました。氷山は見えている部分よりも海面下にある部分の方が大きいので、喫水線より下の部分が切り裂かれたのです。
タイタニックの事故の記録を読むと、事故発生後の乗組員は落ち着いて対処しているようですが、まだ就役間もない船で不慣れなことが多く、救命艇の揚げ降ろしに時間がかかったりして救命ボートに多くの船客を収容することができませんでした。また、当時の規則では船客の定員分の救命ボートを搭載することが義務付けられていなかったことも被害を大きくしたようです。
この当時、大型客船が短時間で沈没することは想定されておらず、救助に来た船への移送手段くらいにしか考えられていなかったのです。
タイタニックが発信した救助を求める遭難信号は様々な船で受信されましたが、最も近くにいた船では一人しかいない通信士が就寝中であったため受信されず、その次に近くにいた客船は、タイタニックから20km程度まで近づいたにもかかわらず、氷山を恐れてそれ以上近づかなかったため、さらに遠くにいた船足の遅い客船が危険を冒して救助にくるまでに沈没から2時間40分を要し、多くの人命が失われてしまいました。
この事故の結果、船舶の安全を国際的な基準によって確保しようという動きが起き、1914年1月「「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13カ国が参加して「1914年の海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS)」が採択されました。
タイタニックは当時最悪の海難事故で多くの教訓を残しましたが、その後のSOLAS条約など様々な安全確保のための努力が行われているにもかかわらず、営利優先主義の運航により海難事故の記録は塗り替えられていきます。
現時点で最大の海難事故は、1987年12月20日にフィリピンのミンドロ島付近のタプラス海峡において小型タンカーと衝突して沈没した貨客船ドニャ・パス号事件であり、海運会社の発表によれば4357名の死者を出しています。内航船であって乗船名簿が残っていないなどの事情から死者数は諸説ありますが、いずれにせよ平時における史上最悪の海難事故であることは間違いありません。
ただ、この時、ドニャ・パス号の乗員は一人も生還していません。
一方で、韓国のセウォル号の事故などは、安全を無視した違法な改造が繰り返されたにもかかわらず、事故後、船員が乗客を救助することなく先に逃げ出しています。特に船長は自分が船長であることを隠すために服を着替えて逃げ出すなどの行動を取っているので呆れてしまいます。
その点、タイタニック号の乗組員たちはさすがに英国の選び抜かれた商船乗りだっただけあって、見苦しい振る舞いはしていないようです。
就役間もなかったため救命ボートの揚げ降ろしに手間取ったりしてはいますが、自分から先に逃げ出した者はおらず、バンドのメンバーは乗客の不安を和らげるために最後まで演奏を続け、バンドマスター以下数名が船と運命を共にしています。
船長は最後までブリッジで指揮を執り、退船を拒んで自ら船と運命を共にしました。
タイタニックの映画では、衝突後、煙突から凄まじい蒸気が噴出しているシーンがありましたが、これは実際に起こったことであり、これは機関部への浸水を確認した機関科員がボイラーの蒸気圧を下げるために様々な努力をしたことを示しています。
沈没したタイタニックを撮影した画像でボイラー付近に破孔がないことが分かり、このため衝突から2時間40分間浮力が保たれたことが分かりました。これは衝突後も動いていたボイラーの圧力を下げるためにボイラー員たちが必死の努力をしてその圧力を下げたことによるものであり、この努力がなければ数百度になる蒸気をため込んだボイラーに冷たい海水が触れることによって水蒸気爆発が起き、船体側面に大きな破孔を生じて一気に転覆していたかもしれないのです。このため機関科のボイラー員の多くは生還していません。
機関長以下の多くの機関部員は最後まで電力を供給するために努力を続け、ほとんどが船と運命を共にしました。事務長も旅客の誘導にあたり、船内の乗客を探しに行ったまま生還しませんでした。通信士も電力が続く限り遭難信号を発信し続け、最後に脱出しましたが、1名は救命艇上で死亡しています。
やはり名誉を重んずる国の船乗りたちはそれなりの覚悟を持って乗組んでいたことが分かります。