専門コラム「指揮官の決断」
第137回安全推進活動期間・・・?
GWの海上保安庁
今年の10連休のGW期間中の4月27日から5月6日の間、海上保安庁は安全推進活動期間として全国で海洋レジャーの安全対策を強化していました。
海保が特に重点を置いたのはいわゆるミニボートの安全対策だったようです。
規制緩和の結果
ミニボートというのは全長3m未満、エンジンが2馬力以下のボートであり、免許なしで操縦でき、船舶検査を受けずに航行できる手軽なボートです。
2003年に規制緩和の一環として、それまで免許と検査が必要であったこれらの小型ボートが小型船舶操縦士の免許と船舶検査の受検義務を免除されました。
その結果、2005年にそれらの大きさの船が4800隻であったのが、2018年末には5万7500隻にまで増えたのです。そして、過去5年間に事故を起こしたこれらの船の数は343隻にものぼりますが、そのうち免許を持った者が乗っていたのは54隻であり、残余は免許を持った者が乗っていなかった船でした。
事故にならずともこれらのミニボートでは機関故障、特に燃料欠乏やプラグの汚れなどによる再起動不能などのトラブルが頻繁に起きており、通りがかった漁船に引かれて帰ってくるボートは無数にあります。これらのトラブルは操縦していた者が船について何も知らずに運航していたことの証です。少しでも船を知っていたら、出港前に燃料を確認しますし、プラグが汚れていたり燃料をかぶっていたりした場合の処置ができないなどということはあり得ないからです。
小さなレジャーボートに免許や検査は必要か?
私は若い頃には、旅客定員を持たないアマチュアのレジャーボートに免許と安全検査を義務付けるのはいかがなものかと思っていた時期がありました。
理由はいくつかありますが、小型船舶の運航に必要な免許はおそろしく簡単に取得できるので、その程度の知識や技量を持っていても実際の運航には何の役にも立たないので、免許を課すこと自体が無駄だと思っていたことが大きな理由でした。
安全検査については、昭和の時代は救命胴衣などは桜のマークの入った検定済のものを買って並べておけば合格でしたが、私たち外洋レース艇のクルーはそれらの救命胴衣に腕を通すことはありませんでした。荒れた海では1時間も持たずにバラバラになってしまうのが分かり切った安物だったからです。しかしメーカーが上納金を払って桜マークを取得していれば検査合格、私たちレーサーが着ていた48時間は浮いていられると言われた輸入品は検査不合格だったのです。
そして、それらの検査を行う小型船舶検査機構の職員はほぼ100%が当時の運輸省の役人の天下りまたは元海上保安官であり、その利権構造が水戸黄門のドラマを見ているようにあからさまだったことも安全検査などいらないと思うようになった原因の一つです。
しかし、全く見張りをしない漁船と行き会って恐ろしい思いをしたり、あるいはヨットとみるとからかいに来るモーターボートの連中にハラハラさせられたり(今で言う煽り運転より始末が悪い仕打ちをされたものでした。)することを繰り返すうちに、やはりしっかりと免許制度を確立し、これら無法船舶を取り締まってもらわねばならぬと思うようになりました。
また、その頃は空前のヨットブームで、私もCMの撮影に駆り出されたことが何度もあり、農協の信用金庫(現在のJAバンク)のテレビのCMにすらヨットが起用されたほどでしたが、同時にヨット乗りのレベルも急速に低下していき、沖でディーゼルエンジンが空気を吸い込んで止まってしまった場合に、どうやってエア抜きをするのかも知らないような連中が平気でクルーザーに乗るようになっていきました。
つまり自分ではどのように安全を確保するのかを知らないオーナーがやたらと増えたということで、検査が義務付けられるのも仕方ないかと考えるようになっていきました。
しかし、小泉政権の下で行われた規制緩和で、上述のごとく全長3m未満、2馬力以下のエンジンのミニボートに対する免許及び検査が免除されたのです。
この規制緩和は日本人に海に親しんでもらうための施策ではありません。
業界の圧力です。
バブル崩壊後長く続いた不景気のため、往年のヨットフィーバーは完全に消え去り、ハーバーは閑古鳥すら鳴く気力を失う様となったため、レジャーボートの普及の大きな足かせであった免許と検査を免除するように業界の圧力がかかった結果の船舶安全法及び船舶職員法改正です。
しかし、これは船乗りからすれば無謀な規制緩和です。
全長が3m未満、エンジンも2馬力しかないという小型の船を安全にしっかりと運航するためには技量が必要です。ちょっとした波で転覆するどころか、船の上で人がうっかり動いても大きく傾いてしまうからです。むしろ6m30馬力もあれば技量はいりません。自動車の免許を持っている人なら沿岸で走らせることにそう戸惑いはないでしょう。
免許を持っていない人が運航しているミニボートの何が問題かというと、海上で他船と衝突進路に入った船は相手が海上衝突予防法の規定を知っており、相手船がその規定に従った動きをするという前提で衝突を避けるための動作を行うのですが、ミニボートの場合は相手がそのように動くことを期待していいのかどうか分からないということです。
つまり、原付には免許なしで乗っていいよと言ったのと同じことなのです。
原付が道路の左側を走らねばならないことを知らない者が乗り回すようになったら怖いですよね。海の上で同じことが起きているのです。海上が右側通行なのを知らない者が乗っているかもしれないのです。
海を舐めているのか
Youtubeにはこれらのミニボートを紹介する動画がたくさんアップされています。ミニボートを使って手軽に釣りを楽しんで大物をゲットしてきたという自慢がほとんどで、観ているとよく無事に戻ったなと感心するような動画も数知れません。海を舐めているのかとしか思えない動画が溢れています。
つまり、海上保安庁がGWに安全推進活動期間を設けなければならなくなったのは自業自得なのです。もっとも現場の海上保安官は免許も検査も必要だと思っているはずですが、国交省の官僚たちが業界の圧力に屈してしまったため、そのとばっちりを受けているということなのでしょう。
規制緩和というのはやっていいものと悪いものとがあります。小泉政権の郵政民営化は、地方の過疎地域には大きな犠牲を払わせましたが、多分やって良かった改革なのかもしれません。しかし、ミニボートに対する規制緩和は百害あって一利ない施策です。
文化や国民性に根差した改革を
すべてを危機管理の観点から見なければならないわけではありません。ボートに対する規制緩和が人々にとって海を身近に感じ、この海洋マインドの全く欠如した我が国に少しでも海洋文化が根付くのであれば賛成です。
しかし、単に業界の圧力に屈して規制緩和しただけの施策では海洋文化の発展は望めません。免許をとらなくていいよと言うのであれば、そのかわりに講習の受講を義務付け、少なくとも海は右側通行であり、ぶつかりそうになったら右に舵を切ることくらいは教えるべきです。繰り返しますが、原付に免許は不要というような規制緩和はやってはなりません。
海の上ではガス欠やエンジントラブルでJAFを呼ぶようなわけにはいかず、自分で対処できなければ生還できないということを肌で知っている国民に育てる必要があると思っています。
逆に、私たち日本人がそのような国民であるのなら免許や検査は不要なのかもしれません。
小型船舶への免許及び安全検査の制度が導入された時、多くのヨット乗りが反対の声を上げました。彼らは諸外国の制度をよく知っており、自分のヨットに乗るのに免許や検査が必要という先進国は無いとして反対していました。まだ学生だった私は「そういうものかな」などとうっすらと思っていた程度でしたが、免許が無ければ外洋ヨットの艇長になれないために仕方なく資格を取得していました。
今になって思いますが、ヨット乗りの先輩たちのご意見はやはり誤りだったのでしょう。
彼らが見ていたのは米国や英国などヨット先進国でしたが、アングロサクソンやスカンジナビア半島の人々には海洋の文化が根付いています。DNAに書きこまれていると言っても過言ではないでしょう。
それに比べて私たち日本人のDNAにあるのは農耕民族の文化であり、海洋文化は微塵も根付いていません。小学唱歌で歌われた「我は海の子」は7番まで聴いて頂ければ分かりますが、海洋防衛の重要性を鼓舞する歌であり、私たちの国民性に根付いた歌詞とは言えません。
このように主張すると海上自衛隊の先輩から怒られるのですが、あえて申し上げると私たちの血には海洋民族の血は流れていません。日本には海洋文化がないことは書店に行けば一目瞭然です。
そのような国民には基本的なところから指導をしなければ理解できません。その指導が業界の圧力に簡単に屈するというのもバックグランドに海洋に関する文化が根付いていないことの証左でしょう。
何でも先進国の制度を真似をすればいいというものではありません。国民性、文化などへの理解なしに制度だけ作ると破たんしてしまいます。
明治初期、信じられないくらい急速に欧米の制度を模倣して国家の仕組みを作ってきた日本ですが、この時は制度だけを作ったのではありませんでした。鹿鳴館のような施設を作り、海軍も兵学校でナイフとフォークで食事をさせたり、文化や国民性についての大改革も同時並行で行っていました。やるのであればそれくらい徹底した覚悟で臨まねばなりません。
単に業界の圧力で制度を変えたため、まったく予想通りの事故が多発し、多くの人命が失われ、貴重な税金が使われていくことになります。
だからと言って、これらの犠牲の責任が国の施策にあると主張しているのではありません。海で命を失うのは自分の責任です。誰のせいでもありません。これを法律や制度の責任するというのであれば、それこそ海洋民族ではないと言わねばなりませんから。