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専門コラム「指揮官の決断」

第150回 

「表現の不自由展・その後」を危機管理の視点から見ると

カテゴリ:コラム

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表現の自由に危機管理のメスを入れると

愛知県で開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」という企画展が75日間開催の予定を3日で中止したことは皆様記憶に新しいことと存じます。

当コラムは危機管理をメインテーマとする専門コラムですので、政治問題や憲法論の問題は筆者の専門外であるということもあってなるべく避けております。例外は参議院選挙において争点となりかけた憲法改正問題において政権があまりにも自衛官を侮った発言を繰り返すことに我慢ならずに一度だけ憲法論を展開したことがあるのみです。

その他、政治家などを取り上げる際にも、危機管理の観点から取り上げており、一般的な政治的な話題に触れたいとは思っていません。

したがって、今回の「表現の不自由展・その後」に関しても、これを憲法論の観点からではなく、危機管理の観点から考えてみようと思っています。

「表現の不自由展」とは、公的施設において出展を拒否されたり、主催者の自粛判断によって出展ができなくなった芸術作品をあえて出展して、表現の自由の価値を考え直そうという発想から始まった企画展ですが、そもそもこの発想が表現の自由を取り違えています。

公的施設が出展を拒否したからと言って表現の自由が侵されたことにはなりません。自粛においてはなおさらです。

公的施設は税金によって運営されており、芸術と名がつけば何でも展示しなければならないものではありません。施設ごとにポリシーがあり、また優先順位があります。そこには社会的コンセンサスであったり、公共の福祉であったり、教育的配慮であったりと様々な理由が存在します。

その公的施設で展示できなかったといってそれが直ちに表現の自由の侵害とならないことは議論の余地はありません。

私的な施設やその他の媒体においての表現が可能だからです。

日本は表現の自由がかなり高度に保証されている国なので、「表現の不自由展」と言われても何が論点なのか正直なところよく理解できません。

しかし一方で表現の自由は極めて脆い、壊れやすい性質をもった自由であり、これを守り抜くことをおろそかにしてはならないのであって、世界ではこの自由をめぐって多くの血が流されたことも事実です。

つまり、多くの人々がこの自由を守り抜く、あるいは勝ち取るために命を懸けて戦ったということであり、そのような性格を持った自由権であることを私たちは片時も忘れてはならないと思います。

愛知県知事の覚悟

愛知県が自らが主宰する国際的な芸術祭において、この「表現の不自由展・その後」を企画したということは、自治体として表現の自由を守ることの重要性を県民に深く知らしめることに価値を見出したということでしょう。

その企画において慰安婦像が展示されることにより、大きな議論が巻き起こることは当然予測されたことです。それをあえて公費をもって主催するというのは県にはそれなりの覚悟があったはずです。

それは表現の自由を守ることの意義について、大きな議論が巻き起こることを覚悟で県が公費支弁を適当と判断したということであり、それほどその重要性を県が認識していたということに他なりません。

しかしながら、開催してすぐ、抗議の電話で回線がパンク状態になり、かつ、その中には京都アニメーションで起きた悲惨な事件を思わせるような脅迫もあり、愛知県知事は「安心、安全の確保が難しい。総合的な判断だ。」としてわずか3日での中止を決めてしまいました。

大変な議論が起きることは覚悟していたはずです。

しかも電話で「ガソリン缶を持って行く。」などと脅しをかけてくるのはプロのテロリストではありません。

一方の県知事は県警の最高指揮官です。警察はテロ対策のプロです。県警本部長に何があっても芸術祭を守り抜けと指示すればいいだけのことです。

会場全体を県警機動隊で封鎖し、一人一人身体検査をして入場させるなど、どのような圧力に屈せず、表現の自由を守り抜くという決意を示すことで、より県としての表現の自由に対する態度を明確に打ち出すことができるはずです。

表現の自由を守っていくということはそれほど大変かつ重要なことなのです。

それを素人の脅しに屈し、あっさりと中止してしまうということは、大村愛知県知事が表現の自由はその程度のものだと考えていることを披歴したに過ぎません。

この安直な決断には指揮官としての覚悟がまったく見えません。

もし開催されているのが愛知国体で、その国体の中止を要求する脅迫であったら県知事はどう対応したでしょうか。

電話での脅迫に屈して国体を中止にするという判断はしないはずです。

つまり、大村愛知県知事にとっては表現の自由は体育よりも価値がないものなのでしょう。

要するに、表現の自由をめぐって公費を支出するということがどういう意味があることなのかを理解できず、どのような影響が生ずるのかの先見性もなく、その表現の自由を守っていく気概すらない腰抜けが大見得を切って見せたに過ぎません。

そもそも緊急避難ではない

さらに驚いたことに大村知事は中止を決断した理由を「緊急避難的措置」と説明しています。

大村知事は「緊急避難」という言葉の意味をまったく理解していません。

緊急避難とは窮迫な危険を避けるためにやむを得ず他者の権利を侵害することであり、本来であれば法的責任を問われるが一定の条件の下でその責任を免除されるもので、刑法、民法、国際法でそれぞれ微妙に意味が異なるのですが、この企画展の中止はそのどれにも該当しません。大村知事の言葉の誤用です。法学部で刑法を学んだことのある学生なら誰でも知っていることです。

表現の自由はそんな軽いものではない

この大村知事の決断がもたらしたものは、表現の自由などと言うものは所詮その程度のものかという認識を世間に与えただけのことであり、むしろこの企画展の目指す方向とは全く反対の結果でしかありません。

私は当コラムでことあるごとにトップの覚悟について言及していますが、危機管理に何よりも大切なのはトップのゆるぎない信念に裏付けられた覚悟であり、この覚悟のないものはトップの地位に就いてはなりません。

覚悟も何も無いのに単に大見得を切って見せるだけの政治家にそのような覚悟など最初から期待しない方が賢いのかもしれません。