専門コラム「指揮官の決断」
第339回なぜこの国は世界の二流国に転落したのか
ご意見があれば伺います
若干ショッキングなテーマですね。
ただし、このテーマに違和感を持つ方、「そんなことはない、いまだに先進国の一つである。」とお考えの方に申し上げます。
顔を洗って出直してください。
日本は清潔で治安がいい、地下鉄やバスなどのインフラが整備されているし、スーパーマーケットには何でもあって住み心地がいい、日本食は世界に誇れるものであるし、おもてなしは超一流で世界の追随を許さない、などと謳いあげていくと日本は世界に誇れる素晴らしい国であると信じたくなる気持ちは理解できます。
それは否定しません。確かに素晴らしい国です。
しかし二流国であることに変わりはありません。
どこが二流なのだろうか
GDPの伸び率はG7で最低で平均年率が日本だけ1%半ばですし、大胆なイノベーションが日本から生まれなくなって久しくなります。世界が注目する新しい企業はなくなり、かつては超一流であった半導体も液晶も見る影もありません。
日本の最難関大学である東京大学の世界ランキングは39位であり、京都大学の68位を除いて他に200位以内に入った大学がありません。
GDPや大学ランキングだけでこの国が一流ではないと主張するつもりはありません。
筆者が最も危惧しているのは、私たちが自分の頭で考えることを止めてしまったからです。
私たちは外国人がネットに書き込む日本の美点に自己陶酔して自分たちは世界一流だと思い込み、危機感を抱かずにぬるま湯に浸かっていい気持になっています。徐々に水温が上がって熱湯になるまで気付かず、気付いた時には逃げ出せなくなっている茹でカエルになっていることに気付いていません。つまり、二流どころか三流国に転落するのも時間の問題ということです。
ものを考えなくなってしまった
何を憂いているのかと言えば、この国の人々が自分の頭でものを考えることをしなくなったことを憂いているのです。
3年前、コロナ禍が始った頃、自粛警察なる連中が跋扈していたことがあります。
深夜営業している居酒屋に張り紙をしたり、公園で遊んでいる子供に嫌がらせをしたり、筆者の住む湘南では都内ナンバーの車両を傷つけたりしていました。
彼らは感染に関する何の知識もないのに報道される感染対策を鵜呑みにして、頼まれもしないのに自粛を強要して歩きました。自分の頭で考えないから、報道が出鱈目であることなどに気付きもしないのです。
彼らは社会の同調圧力を体現することにより自らの存在を誇示しようとする、いわゆる虎の威を借りるブタに過ぎません。
もともとこの国では同調圧力が強烈に威力を持っています。和をもって貴しとなした昔から、空気を読み、大勢と同様の行動を取ることにより全体の調和を保とうする気質が特徴です。この国民性が協調性豊かで、外国人から見ても住み心地の良い国を作ってきたということは言えるのかもしれません。
しかし、その美徳であるはずの協調性が強要されるようになると、それは美徳でも何でもありません。
マスクの付け方すら自分では決められない
3月13日、マスクの着用が政府の推奨から自己判断によると変更されました。
事前のインタビューでマスクの着用をどうするかを聞かれた多くの人々は、他の人が外すようなら自分も外すという回答でした。
さて、それから 半月が経ちましたが、街にはマスクをしている人が圧倒的多数です。
皆、他の人々がどうするかを様子見の状態なのです。
自分はどうすべきかなど誰も考えないのです。
これが強要された協調性の結果です。自分がどうすべきかを考えることなく、周囲がどうするかを見て、それに従っていれば「非常識な人」というレッテルを張られずに済むということです。
それが不自由であることは皆さん理解しているはずです。”TopGun Maverick””がヒットするのも、主人公ピート・ミッチェル大佐の生き方にちょっとした憧れがあるからです。Maverickというコールサインはもともとは烙印を押されていない羊を意味しますが、転じて独自路線を行く一匹狼を意味しています。
しかし、私たちの社会はTopGunには憧れるが、実際にピート・ミッチェル大佐のような人物が出てくると変人扱いし、空気が読めないと非難するのです。
私たちの社会は他人の真似しかできないと「猿真似」と呼んで馬鹿にしますが、しかし自分では猿真似しかできないのです。
よく言われるのですが、女性はパーティや会合に出る際、一緒に行く人たちがどのような服装をしていくのかを情報交換するそうです。
同じことは米国の女性もするようです。
ただ、日米両国で異なるのは、日本の女性は、他の女性が「私は〇×を着ていく。」と言うの聞いて、自分もそれに合わせるのに対して、米国の女性は「彼女が〇×なら、私は□△にする。」と反応することだそうです。
この国では個性的であることよりも全体との調和に溶け込むことが重要であるとされているようです。その証拠に、入社試験の面接では100人が100人まったく同じ服装をして臨みます。精一杯個性を主張して、他の受験者との違いを強調させるべき試験会場において、まったく同じ服装をしてくることが期待されているというのはどういうことでしょうか。
結論から申し上げるなら、それが楽だからです。自分で考えず、皆と一緒になっているのが楽なのです。
筆者が大学に入学した頃、学生運動はピークを過ぎており、残滓がはびこっている程度でしたが、それらの連中と話をしているとある特徴があることに気が付きます。彼らは自分の意見ではなく、自分が信ずる主義からの意見しか述べないのです。曰く「弁証法的に言えば・・・・」「マルクス主義の立場からは・・・」
これも自分の頭で考えるより楽なのです。
人は簡単にマインドコントロールされる
自分の頭で一生懸命に考えて、それなりの考え方をもつというのは苦しい作業です。頻繁に修正が必要であることに気付きますし、自信がないうちは、自分の考え方を貫くのには勇気を必要とします。
一方で、〇×主義者とか、□△教信者として教義にしたがってものを考えるのはとても楽です。というか、考えなくて済むから楽なのです。
それがあまりにも楽で心地よいので人は簡単にマインドコントロールに陥ります。
〇×師の教えに従った生き方などを選ぶ人は活き活きとしています。本当に幸せに包まれているように見えます。
一方で、自分の頭で必死になって自分の生き方を考え、追い求めている人々は時として苦悶の表情を浮かべ、あるいは解決できずに自らの命を絶つところへ追い込まれることもあります。
しかし、人はどれだけ悩もうと、正解が見つからずに苦しもうと自分の頭で考え、それなりの解答を見つけていくことが重要です。誰かの訓えにしたがって生きていくというのは、自分の人生を主体的に生きることにはなりません。
この国はその類の、自分で考えることを放棄してしまった人が多くなり過ぎたのです。マスクの着用が個人の判断に任されるというのに、どうするつもりかを尋ねられて、「ほかの人がどうするかを見て決めます。」などとテレビで平気で答える輩がゾッとするほど多いのです。
まともな国では、国がマスク着用を強要するとデモが起こり、法律を作ったら暴動まで起こりました。個人で判断すべきことに国が介入するなということです。
自分で考え、それに基づいて行動し、その結果については自分が責任を負うというのがまともな大人の対応でしょう。
この国では、基準を誰かに決めてもらい、それに従って行動し、結果については基準を決めた者に責任を負わせるのです。みんなと一緒じゃなくては嫌なのです。
このような幼稚な発想なので、まともな文化が育つはずもありません。
まともな文化が育たたない国は間違いなく三流国です。
なぜ一流ではなくなったのか
なぜ、この国が一流国から転落したのかについて、よく考えます。
社会学の専門家であれば様々な分析をするのでしょうが、筆者にとっては残念ながら専門外です。
しかし、自分の頭で考える習慣を失った原因について、筆者は二つの仮説を持っています。
一つは憲法です。
前文には次の記述があります。
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
外国を信じて安全と生存を保とうというのです。安全に生きていくことさえできればよく、自由も独立も尊厳も考えていません。自分たちでこの国を守っていく覚悟をするのではなく、あくまでも諸外国を信頼していくのです。
道理でこの国の人々は、どうやってこの国を守っていくかということに頭を使いません。平和のうちに惰眠を貪り、何か起きるとブタのようにヒーヒー泣き喚くだけなのです。
もう一つの仮説は戦後教育です。
国民、社会、文化、歴史その他その国固有のものを大切にする気持ちを愛国心と呼びますが、その愛国心を持つことが悪いことのように取り扱ってきたのがこの国の戦後教育です。
その結果、自分のことしか考えない習慣がついてしまったのですが、それを個人主義と勘違いしているのです。個人主義ならば個性が尊重されるはずですが、この国では全体との調和が優先され、個性は押し込められてしまいます。
その結果、天下・国家の行く末を考えることもなく、また、自分の生き方すら自分の頭で一生懸命考えるというつらい作業から逃げ出して、大勢の向かうところに従うか、あるいは誰かの訓えにしたがうという安楽な途を選んでいます。
戦後の日教組の教育とも相まって、この国の人々は自分の国を誇りに思うことすらできません。ネット上で外国人が日本を賛美するのを(本当に外国の人々が賛美しているのかどうかも怪しいのですが)観て、となりの韓国をボロクソにしてわずかな優越感を感じて快感を覚えてはいるのですが、国旗や国歌にどう対応すればいいのかも知りません。
米国に育てば、幼稚園の園児ですら「国旗への忠誠」という誓いの言葉を暗唱しているのにです。
若い人たちが国旗や国歌にどう対応すべきかを知らないという状況が生じているのに、それを問題とも恥ずかしいとも思わない大人たちがこの国を動かしているのです。
危機管理以前の問題
この状況を見て、なおこの国が一流国であるとお考えの方がおられるのであれば、是非ご意見を伺いたいと存じます。
これは危機管理以前の問題です。
危機管理は自分の頭で考える人間にしかできません。
刻々と変わっていく情勢に対応していかなければならない時、いちいち教えを乞う余裕はないからです。
危機管理がしっかりできるためには、自分の頭で考えることができるということが条件になります。
自分の頭で考え、自分の責任において行動できる者のみが危機管理の先頭に立つことができるのです。