専門コラム「指揮官の決断」
第400回規律の弛緩
軍事組織であってはならない事態
防衛省は7月12日、服務規律違反や不正があったとして218人の懲戒処分を行いました。その中で最も多くの処分者を出した海上自衛隊は、酒井海上幕僚長が引責辞任することとなりました。
事務次官が処分の対象となったのは、200人以上の処分者を出した防衛省全体の責任を背負ったものであり、他の内部部局職員の3人は課長級以上のパワーハラスメントであるということですが、役人がどう処分されようと当コラムで特に取り上げる問題ではありません。
ただ、海上自衛隊において、秘密の扱いの不適切と潜水手当の不正受給、不正飲食で多くの処分者を出していることについては、当コラムでも注目すべき事案です。
軍事組織ではあってはならない事態だからです。
ただ、報道とは異なり、内情を聞くといろいろなことが分かってきます。
このコラムでは、この事案の背景及び今後に及ぼす影響について綴ってまいります。
潜水手当不正受給
この事案で問題となっている「潜水」とは、ダイバーが潜水作業を行った際に時間当たりで支給される手当です。
筆者もダイバーのカードを持ってはいますが、彼らの潜水は筆者たちのように深くても水深40m程度というようなものではなく、400mくらいの潜水をこなしています。
40m程度のファンダイビングであっても、一挙に浮上すると危険なので、時間をかけて徐々に浮上してくる必要があります。どの深さにどのくらいの時間とどまり、次にどの深さまで浮上し、そこにどのくらいの時間とどまるべきかはダイバーとしてしっかりと計算できなければならず、必ず減圧表をもって入ることが必要です。
40mの水深の潜水を行った日は、航空機に乗ったりすることは危険ですし、20m程度でも長い時間そこにいた場合には、注意が必要です。
例えば、西伊豆で40mの潜水を行った日や、20m程度でもボンベ何本も潜ったり、長時間その推進にいた日は、東名高速で東京に帰ることはできません。足柄サービスエリアが400mを超える標高で、気圧が若干低いからです。400m程度と言っても、敏感な人なら耳に異変を感じますし、唾を飲んで耳抜きをする人もいます。
それを海上自衛隊の潜水員たちは400m超える水深で作業するための準備をしているのです。
これは飽和潜水と呼ばれ、あらかじめ特殊な区画に入り、徐々に気圧を高めていき、所要の水深の気圧に体を慣らしておきます。
そして、潜水艦が事故で浮上できないという場合などには、彼らが入っている容器ごと潜水艦救難艦に積み込み、潜水艦の潜没現場で容器を下ろし、そこから出て作業を行い、海面に戻ると危険なので彼らはその容器内に留まって、必要な日数をそこで生活しながら作業をすることになります。
潜水艦乗員も、いきなり海中に出ると水圧の変化に耐えられないので、DSRVという特殊な潜水艇が潜水艦のハッチと繋がって、内部に少人数ずつ収容し、海上の救難艦に収容するという作業を延々と繰り返すのです。そのサポートに当たるのが潜水員たちです。
彼らは潜水医学実験隊という部隊で研究された飽和潜水の理論に従って体を慣らしていくのですが、この分野はまだよく分からないことが多く、そのような水圧のもとで行動することの人体に与える影響には未知のものだらけです。彼らの平均寿命もまだ計算できるほどのデータがなく、凄まじい危険な任務に文字通り体を張って臨んでいることになります。
筆者は海幕監査官だったことがありますが、この時、この潜水手当の実態を監査したことがあります。
それは不正受給を疑ったのではなく、その危険な任務に臨む隊員たちの手当てが妥当なのかどうかという観点でした。少なすぎれば志願者がいなくなり、また不正受給の温床になりかねないという問題があったからです。
論点を絞った監査官の眼をごまかすことはできません。狙いさえ絞れば必ず不正は見抜くことができます。この時の筆者たちが監査を行った潜水手当は、自信を持って申し上げますが、不正受給はありません。
しかし、この度、この不正が過去6年に渡り行われていたことが明るみに出ました。
明るみに出たのは過去6年ということですが、実際にはもっと長く行われていたのではないかと考えます。
ただ、会計書類の保存期間が5年なので、それ以上前の書類が廃棄されて確認できないというだけでしょう。
つまり、現在処分の対象となった潜水員たちは、そのような処理が行われることが普通だと思い込んでいる連中なのかもしれません。自分たちが潜水員になったときにはそのような潜水記録の処理が行われており、自分が悪いことをしているという意識がなかったはずです。
これはある意味で始末に負えない事態です。
そのような不正が平気で行われる風土が醸成されてしまったということです。
軍隊にあってはならない風土です。
そのような風土を醸成するのが、今回の表題である「規律の弛緩」です。
無銭飲食
とてもスキャンダラスな事案です。
自衛隊では基地内に隊員食堂があり、隊員はそこで食事が支給されています。
しかし、幹部自衛官には支給されませんし、基地外に住むことを許可されている隊員たちにも支給されません。
艦艇乗組みの場合は、幹部自衛官であっても食事は支給されます。
これは諸外国の海軍と異なっています。米海軍や英海軍は士官は有料です。その代わり、彼らは下士官以下の乗組員が食べている食事とは異なる食事を取っています。
米海軍の場合などでは、毎回、メニューから好きなものをオーダーして食べることができます。
海上自衛隊は幹部にも食事を支給する代わりに、幹部であろうと海曹であろうと海士であろうと同じ食事を食べています。
陸上部隊においては特殊な事情がある場合には、料金を支払うことにより隊内で食事をすることができる制度もあります。
今回はその手続きを踏まずに資格のない幹部自衛官などが食堂で喫食していたようです。
実態は、ほとんどが隊員食堂の運営・維持にあたる担当者たちで、かつてなら自分たちが作ったものを自分たちで食べていたのであって、食数にカウントされることがなかったのですが、近年は陸上部隊のほとんどが業務委託で、食数にカウントされていたようです。
これも新しい態勢になっていることの自覚がなく、旧来のやり方を漫然と踏襲してきた規律の弛緩が原因でしょう。
しかも、幹部自衛官の無銭飲食というのは破廉恥だという意識もなかったようです。規律弛緩も極まれりというところです。
特定秘密
護衛艦の内部において、特定区画で勤務する乗員が、秘密を扱う資格がないのにも関わらず、それを扱わせていたということが問題になっている案件です。
これは筆者に言わせると、法律の不備であり、総務省の役人意識の結果です。
護衛艦の戦闘指揮所や射撃管制室などで勤務する際には、「特定防衛秘密」に関与する資格を持っている必要があります。
この資格は海上自衛隊の幹部自衛官はほとんどが取得していますし、海曹士隊員もそれらの部署で勤務する隊員たちは取得しています。
一方で、政府機関で秘密を扱うために「特定秘密」という資格が作られました。
この「特定秘密」の要件は「特定防衛秘密」に比べるとかなり緩いものであり、特定防衛秘密に関与する資格を持っていれば本来必要はないはずのものです。
そこで、この「特定秘密」の資格ができた時に「特定防衛秘密」の関与資格を持っている者には免除するという規定を設ければよかったのですが、総務省の反対でそれが適用除外にならなかったのです。そのあたりの認識が部隊内に徹底されず、戦闘指揮所に出入りする者は「特定防衛秘密」の資格を持っていなければならないという認識はあっても、「特定秘密」という一般行政府の秘密取扱資格がなければならないことの認識がなかったようです。
総務省の理屈は典型的な役人の論理です。
曰く、「大型船舶の船長資格を持っていても、小型船舶操縦士は別でしょ?」「四輪の免許を持っていても二輪は乗れないでしょ?」なのだそうです。
自動二輪で限定解除の免許を持っていれば、中型でも原付でも乗れるという理屈は通じないのだそうです。都合の悪いことを聞く耳は持ち合わせないようです。
しかし、このことが報道で取り上げられると、「海上自衛隊の保全意識の希薄さ」という論点にすり替えられていきます。
脇が甘いと言われても仕方ない状況です。
接待
さらには、川崎重工が神戸の造船所で、修理中の潜水艦乗員が会社から接待を受け、金品を受け取っており、その資金を会社が架空取引で処理していた疑いが浮上しています。
修理中の船は造船所で乗員が従業員たちと一緒に作業したりすることが多く、また、意思疎通のための会食なども行われているようで、そのような接待の温床になりやすいことは事実です。
しかし、それを必要悪だと考えてはなりません。一緒に飲まなければ円滑なコミュニケーションが取れないというのは、言い訳に過ぎず、昼食に幕の内弁当程度を取ってもらって会食をするのは常識的な接待の範囲内です。
筆者は任官して最初に乗組んだ船が定期整備に入り、機関士だったので蒸気タービン機関のオーバーホールで凄まじく忙しい思いをしたことはありますが、造船所との会食などの経験はありませんでした。下っ端の初任幹部だったので呼ばれなかったのかもしれません。
その後は常に稼働艦に乗っていたので、造船所との付き合いはありませんでした。
それがかなりディープな付き合いをしなければならなくなったのが呉地方隊の造修補給所長という配置の時でした。
呉を母港とする艦艇の整備と補給を担当する部隊の指揮官でしたので、護衛艦、潜水艦、補給艦、輸送艦などのオーバーホールなどで、呉のIHI,神戸の三菱重工、川崎重工、玉野の三井などの造船所と頻繁にやり取りをしなければなりませんでした。
しかし、筆者は業者との会食はおろか、地元業者の団体(商工会や各種組合、経団連支部など)やロータリークラブ、ライオンズクラブなどの団体でも業者や政治家が入っていることが多いので、それら主催の新年会などには一切顔を出しませんでした。
また、うっかり地元で飲んでいると業者と出くわすことがあるので、できるだけ海上自衛隊幹部がよく行く店を避けて出かけていました。店でうっかり出会うと、いつの間にか勘定を支払われて、結果的に接待になることがあるからです。
また、隊へ業者が訪問してくる際には、担当幹部を同席させ、手土産の銘菓などを頂いた場合には、その場で総務課長を呼んで、「今、こちらから銘菓を頂いたので、皆で分けるように。」と指示をすることを常としていました。
そのような態度をとると、業者も付け届けなどをあきらめ、また、接待もしなくなります。
その代わり、筆者がそれらの造船所などに施設に出向いたときに、会議室で仕出し弁当などで昼食を出されるときには、高価な特性のものでない限り頂戴していました。
業者側も心得るようになり、筆者はその会社の社員食堂に案内されることもよくあり、また、仕出しにしても、ごく普通にオフィスで取っているような仕出しが出されることが多くなっていきました。高価なものを出されると、露骨に嫌な顔をして見せていたからです。
多分、業者にとっては扱いにくい所長だったのかもしれません。
しかし、当時は筆者だけでなく、そのような態度をとる指揮官は珍しくはありませんでした。特に造修補給所長などのような調達関係職員は、その倫理がうるさく問われますので、李下に冠を正さずという態度を求められたのです。
筆者たちは、そのようにして海上自衛隊の伝統を作ってきたという自負を持っています。
それが、神戸では脆く崩れ、隊内では無銭飲食はするし、潜水手当の水増しはするし、という筆者たちがもっとも忌み嫌った事態に陥っています。
今後に与える影響
筆者は現役を離れて久しいので、海上自衛隊が今後どうなっていくのかはよく分かりません。しかし、本当に反省して立て直そうとするなら、大変な努力をしなければなりません。
一度染みついた風土を書き換えるのは並みのことではありません。
かつて、イージス艦あたごが漁船と衝突した頃、海上自衛隊では不祥事が相次ぎ、隊を挙げて改革に取り組んだことがありました。「抜本的改革」と言われて、全体で狂ったような改革を行ったのですが、それから20年も経っていません。そこで体質を問われるような不祥事を起こしたとなると、今のうちに徹底的に膿を出し切っておく必要があります。
ハインリッヒの法則を持ち出すまでもなく、このままの海上自衛隊は戦えないどころか、大事故を引き起こしかねないからです。
この改革には大きな痛みを伴います。その間、海上自衛隊は改革以外のものに消極的になるかもしれません。
東シナ海を巡る情勢などを見るとき、海上自衛隊が消極的になっている場合ではないのですが、しかし、根本的な改革を行い膿を出し切ることが必要です。
背 景
このような海上自衛隊になってしまったのには理由があるかと考えています。
海上自衛隊の任務が大きすぎるのです。
アデン湾ソマリア沖の海賊対処行動はまだまだ続きます。
北朝鮮の弾道ミサイル対処は、統合指揮官は航空自衛隊の航空総隊司令官ですが、最初に対応するのは海上自衛隊のイージス艦です。それだけではなく、日本海上空で24時間態勢で北朝鮮を赤外線で監視している航空機を飛ばしているのも海上自衛隊です。
東シナ海の情勢はまったく予断を許しませんが、外務省が腰抜け、というより対中媚び諂い外交を続けるため、尖閣諸島をめぐる不法行動には歯止めがかからず、いつ海上保安庁の手に負えない事態になるか分かりません。
そのような事態において海上自衛隊の負担を軽減するはずだったイージスアショアが政治的に放棄され、しかしロッキード・マーチン社に違約金の支払いをしたくないがためにイージスシステム搭載艦という護衛艦ですらないブタのような恥ずかしい船を二隻も作らなければならないという一方的な負担を海上自衛隊だけが負っています。(この件については、そう単純ではない、恐ろしく政治的な駆け引きが裏にあります。)
そこへ、現政権の対米ポチの尻尾振り外交のために積み上げなしの対GDP比2%への増額のための予算を編成しなければならないという多重苦を背負わされているのが現在の海上自衛隊です。
それでいて定員は任務に見合う増員が認められず、また、仮に認められても、洋上に出ることが多い海上自衛隊の入隊希望者は極めて少数です。
海上自衛隊の士気が上がるはずはありません。
誰もが、自分たちがぶくぶく太って肥満していく張り子のブタになりつつあることを実感しているはずです。
筆者たちは20世紀から21世紀に代わっていく時代に海上自衛隊をトレーニングネイビーからファイティングネイビーに作り替えていくという試練に挑戦してきました。
それは今、思い出しても凄まじい勤務でした。佐世保の護衛隊群司令部の幕僚であったときには、当時唯一だったイージス艦の戦力化のため、凄まじい作業が行われ、2年間の勤務で17日間しか休みがありませんでした。土日を含めてです。
筆者たちだけではなく、どこでもそうやって冷戦後の海上自衛隊をファイティングネイビーに作り替える作業をしていました。
それが今、急速に音を立てて崩れ去ろうとしています。
海上自衛隊が、国民の負託に応えるため、その真価を発揮して踏ん張るべき時なのです。
後輩たちが、死に物狂いでこの事態を乗り切ってくれると信じています。