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専門コラム「指揮官の決断」

第153回 

意思決定が行われる環境

カテゴリ:コラム

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グレアム・アリソン『決定の本質』

意思決定論や危機管理論を学ぶ者にとってバイブルのような書物があります。

グレアム・アリソン著の『決定の本質』がその書物です。

1971年に初版が発行された古い書物ですが、いまだに色褪せることなく、アメリカの大学では意思決定論や危機管理論の講義において教科書として用いられています。

キューバ危機を題材として行政府における外交政策の意思決定の概念モデルを提示したパラダイム論ですが、最初にこの本を手にしたとき、そこで示された第一から第三に至る三つの概念的枠組みによりキューバ危機を見るとどう見えるかという分析の切り口の鮮やかさには度肝を抜かれたものでした。

当コラムで度々批判してきたビジネスマン必読の書と言われる『失敗の本質』という書物のタイトルは多分にこのグレアム・アリソンの『決定の本質』の影響を受けているものと思われますが、分析の鮮やかさにおいては雲泥の差が出ています。せめて、アリソンの第一から第三のモデルで太平洋戦争の日本軍が犯した誤りを分析してみれば、もう少しましな分析になったろうにと思われます。

意思決定過程分析のパラダイム

この『決定の本質』は外交政策の意思決定問題という特殊なテーマを扱っていますので、専門以外の方はあまりお読みになっていないかと拝察いたします。ここで簡単に説明させて頂きます。

アリソンはキューバ事件に際してケネディ政権が海上封鎖という手段を選択した意思決定過程を三つのモデル(概念的枠組み)を使って分析しています。

第一は合理的行為者モデルと呼ばれていますが、これはモーゲンソウの現実主義によって説明されるモデルで、伝統的経済学の経済人仮説と考えて頂いて結構かと思います。(微妙に違うのですが、そう考えるのが一番簡単です。)

このモデルによれば意思決定者は問題を客観的に認識しており、国家目標について明確な優先順位を持ち、あらゆる代替的選択肢の比較衡量が可能であり、その中で最適な選択をするものと仮定されています。つまり、合理的経済人仮説とほぼ同じです。

このモデルによれば、キューバを海上封鎖するという戦略は、戦略爆撃機による爆撃や海兵隊の着上陸侵攻に比べて最適な選択肢であったということになります。

第二は組織過程モデルあるいは組織行動モデルと呼ばれ、外交政策を担当する様々な組織にスポットライトが当てられます。国務省や国防省、あるいはホワイトハウス、民主党など様々な組織において、その組織が持つ特異な受諾可能な行動の態様、目標達成に至る連続的な考慮への影響、組織の規範や標準的な手続き、問題指向や不確定性の回避に関する特徴などがそれらの組織の意思決定過程に影響を及ぼし、その結果として米国という国家の意思決定が形成されるというものであり、このモデルによればキューバの海上封鎖という選択は、各組織のルーティンによって形作られたと言えるということです。

第三のモデルは政府内政治モデルと呼ばれています。このモデルでは組織をさらに細分化し、それぞれの役割を担う人々相互間の駆け引きが分析されます。主要なアクター(キューバ事件に関しては、大統領、副大統領、国務長官、国防長官、統合参謀本部議長、CIA長官、大統領補佐官など30名近くが分析の対象となっています。)の価値観、宗教観その他さまざまな要因が分析され、その相互作用の結果として政策決定が行われるというものです。

用いるモデルによって見解の相違が存在することをアリソンは指摘し、これまでは第一モデルによる分析しかなされてこなかったが、第二、第三のモデルによる新たな視点により多様な解釈が可能であり、より現実をリアルに見ることができることを指摘しています。

『失敗の本質』の失敗

前掲のビジネスマン必読の書である『失敗の本質』という本は執筆者の半数が組織論の専門家であり、したがってその書名もアリソンに影響を受けたと察することができますが、しかし、肝心の中身が第一モデルによる分析に留まっており、結果的に学者の後知恵の範疇を出ない分析に終始してしまっています。

つまり、著者たちは戦史によって両軍の動きをつぶさに知っており、合理的選択ができ、そのうえで日米両軍の指揮官の判断を評価しているのです。

これは現場指揮官の経験のない学者でも簡単にできる作業のように見えます。しかし、現実はそう単純ではありません。

例えば、ミッドウェイ作戦で(前掲の拙稿を読んで頂ければどのような局面だったかお分かりいただけます。)、敵空母発見の報告を受けたならば、陸上攻撃用爆弾から艦艇攻撃用の魚雷に換装せずに、護衛の戦闘機の給油も待たずに直ちに出撃させるべきであったという指摘は、米海軍機の攻撃が切羽詰まっていた当時の実際の状況だけを考えると正しいのですが、果たしてそれで勝てたかというと全く別問題です。

なぜかと言うと、米海軍機動部隊側では日本海軍ほど搭乗員の練度が高くなっておらず、準備できた部隊から次々に攻撃に出たため、最初に日本艦隊に襲いかかってきた爆撃機の部隊には護衛の戦闘機が随伴していませんでした。つまり、戦闘機は米空母に残っていたのです。

この状況で日本海軍の攻撃隊が接近すれば、たちまちに残っていた戦闘機が発艦してきて日本側の爆撃機を撃墜できたはずです。いくら未熟な米搭乗員でも、爆撃機相手の空中戦で負けるはずはありません。

もし日本の機動部隊が陸上用爆弾のみで護衛の戦闘機も随伴せずに出撃して、米艦隊上空で米軍戦闘機によって全滅させられたとしたら、今度は護衛も付けずに発艦させるとは航空戦の原則に反する(拙稿でも述べていますが、ミッドウェイ作戦の時点で艦隊航空戦の原則が確立されていたとは言えません。)と述べるであろうことは想像に難くありません。

意思決定が行われる環境とは

私は大学院の研究室でこの『決定の本質』を読みふけり(翻訳が出ているのを知らず、この本を読めと言って貸してくれた方の原書と格闘をしていました。)、この三つのモデルを使って様々な事例の分析を試みていました。

ただ、アリソンのモデルをそのまま使って分析するのも面白くないので、アリソンの第一モデルにある条件を加えて二つのモデルに分割して分析のツールとしてみました。

それが今日のテーマである意思決定が行われる環境です。

これはちょっと考えると誰にでも分かるモデルなのですが、不思議とこの環境を考慮に入れた分析をあまり見ることがありません。誰でも意識しているはずなのに明文で示されないのです。『失敗の本質』もこの視点を考慮に入れれば、もう少し読むに足る分析になったものと思われます。

それは意思決定が行われる環境には主観的環境と客観的環境があるだろうという単純なモデル化です。

意思決定事態は決定者の主観的環境の中で行われます。それが組織過程であろうと政府内政治であろうと、各アクターはその主観的環境の中で思考し、決定を下します。

しかし、主観的環境の外側には客観的環境が広がっています。あるいは得た情報が誤っていたり、解釈にバイアスがかかったりして主観的環境と客観的環境に乖離が生じている場合もあります。

どのように優れた指揮官であっても、主観的環境と客観的環境が大きく異なっている場合、正しい意思決定はできません。結果的に正しかったとすれば偶然か幸運かのどちらかです。

具体的に説明します。

1941年12月7日早朝(ハワイ時間)、米太平洋艦隊司令長官キンメル大将の客観的環境の中には、ハワイに襲いかかろうとしている日本海軍の航空部隊が存在するのですが、彼の主観的環境の中には存在していないために、彼は通常の日曜日の朝のように礼拝に行く準備で髭などを剃っていたのです。

オアフ島の山頂に設置されていた陸軍のレーダーには、日本海軍の航空機の編隊のエコーが映っていたのですが、主観的環境の中ではその日に本土から移駐することになっていたB-17爆撃機の編隊として映し出されていました。

一方、翌年6月、日本海軍機動部隊指揮官南雲司令長官の客観的環境には同機動部隊に襲いかかろうとしていた米海軍の極めて少数の爆撃機がいたのですが、彼の主観的環境の中にいる米海軍部隊はまだ航空機を発艦させていなかったので、正攻法での攻撃を決断し、米軍機がまさに襲いかかろうとする際に陸上用爆弾を魚雷に換装するという作業を命じたのです。

戦史を分析するとき、私たちがよく犯す過ちの原因がここにあります。『失敗の本質』の著者たちが失敗した本質です。つまり、分析者は当時の客観的環境を理解しているのですが、意思決定者の主観的環境を理解していないのです。

数万人の部下と虎の子の機動部隊を率いて太平洋の真ん中にある指揮官の思いを学者は理解できません。

日本の国力を知っている彼は、ミッドウェイ作戦だけではなく、その後のあらゆる作戦を手持ちの兵力で戦わなければならないことも承知していました。目の前で護衛の戦闘機をつけずに来襲してきた米軍機が上空で警戒に当たっているゼロ戦に片っ端から撃墜されるのを見てもいます。

その彼が、腹一杯の弾薬を積んだ爆撃機や雷撃機を護衛の戦闘機をつけずに出撃させられるかどうか、私たち国防の最前線にいた者と机上で議論していればいい学者との解釈が異なるのは仕方ないかもしれません。

しかし、客観的環境を知っている者がアクターの心理的葛藤などを理解せずに議論しても教訓など導き出せるはずはありません。

手品のトリックを説明されてからの解説は誰にでもできるのですが、自分でトリックを考え出すことはできないのと同じです。

アゴニーを理解できるか

聖書に「アゴニ―」という言葉が出てきます。

これは「苦痛」「苦悩」「苦悶」などと訳されますが、聖書においては特別な意味を持ちます。

それはイエス・キリストが神から与えられる様々な試練のなかで、「何故神は自分をこうまで苦しめるのだろう。」と疑問を持つ瞬間があり、その疑問と信仰の狭間で揺れ動く苦悩を指しています。

軍隊では指揮官が正解のない問題と戦う際に感ずる恐怖や苦悩を指して「アゴニ―」ということがあります。つまり、自分の判断が誤れば大勢の部下を失い、国家の命運も危うくなるという瀬戸際で、しかし、どう考えてもその問題に正解がなく、結果でしか評価されないという局面に味わう苦悶です。

この「アゴニ―」の理解なしに指揮官の決断を評価しても意味がありません。

学者や評論家は論文や解説が批判されるかどうか程度の結果しかありませんので、この「アゴニ―」という感情を経験せずに済むため気楽に議論ができるのですが、実務家はそうはいきません。

私が意思決定の環境の問題を考え始めたのは大学院の研究室ですが、その後、その仮説を検証するための論文等を書いたことはありません。

アリソンモデルに意思決定の環境モデルを導入した場合に、様々な事例をどのように切ってみることができのか、ライフワークとして取り組むのも面白いかと考えています。