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専門コラム「指揮官の決断」

第177回 

覚悟を持つということ

カテゴリ:リーダーシップ

覚悟を持つとは遺書を書くこと

当コラムでは経営トップが覚悟を持たねばならないと度々主張しております。

ところが、先日ある方と話をしていて、林さんの著書の中にあるトップの覚悟というのは確かにそうだと思うんだけど、それでは具体的にどうすればいいのかがよく分からない、との疑問が投げかけられてきました。

たしかに私たちのように自衛隊で仕事をしていたりすると、候補生の頃から二言目には「覚悟を持て」と言われますので、当然のことのように思っているのですが、具体的にどうすることが覚悟を持つということなのかというのは難しい問題かもしれません。

その時私は極めて端的に一言でお答えしました。

「遺書を書けということです。」

これはちゃんと説明しないと誤解されそうです。

指揮官としての覚悟をもつということは、指揮官としての自覚を持つということとは若干異なります。もちろん覚悟なしに自覚することはできませんが、覚悟をもつということはより始原的な意味を持っています。

それは端的に申し上げると、結果を受容する勇気を持つということです。

指揮官として様々な決断を下します。その決断の結果、いい結果が生まれることも悪い結果になることもあります。

また決断をしなかったことによりとんでもないことになることだってあります。

その結果を自分の責任として受容する。責任から逃げない。

それが指揮官としての覚悟です。

それには自分の命が無くなるかもしれないということも含まれます。

だから「遺書を書く」と申し上げたのです。

特攻隊員たちに想いを馳せると

私たちが広島県江田島にある海上自衛隊幹部候補生学校に着校した翌日、支給されたばかりの制服を着て最初に連れていかれたのが教育参考館でした。

これはギリシャの宮殿を思わせる大理石の建物で、玄関を入ると正面に赤いカーペットを中央に敷いた階段があり、その階段の頂きには東郷平八郎提督の遺髪を収めた重厚な扉があります。両サイドには東郷提督と並び世界三大提督と崇拝される英国のネルソン、米国のジョン・ポール・ジョーンズの肖像画が掲げられています。

そこから資料室に入っていくと、勝海舟の海軍建設に関する建白書に始まる海軍の歴史を一覧することのできる様々な資料や絵画が展示されています。

そしてその最後の方には特攻隊員の名前が刻まれた大きな石板のある部屋があり、数多くの特攻隊員の遺書が展示されています。

遺書の中には学徒出陣で海軍士官となり特攻隊員となった若い少尉や中尉が書いたものもあり、私たち一般大学出身者にとっては大学の先輩がいたりします。

当時の大学生は現代の大学生とはずいぶん意識が違います。

当時の大学生というのは、極めて限られた少数の知的エリートでした。いろいろな文学書を読み哲学を語ってきた方々です。

時代とはいえ、特別攻撃という理不尽な作戦に駆り出されることに対する疑問はすさまじいものだったと思います。それは海軍兵学校出身の士官たちよりもはるかに強かったはずです。

しかし悩みに悩んだ末に透徹した心境に達し、澄み切った心で遺書を書いて出撃していったことがわかります。

国家や家族のために自分が捨て石になることをむしろ喜んでいると書かれている遺書が多いのに心が痛みます。

それが「覚悟」です。

トップの覚悟とは

トップとしていろいろな決断に迫られ、決断をしたり回避したりするのですが、その結果についての責任から逃げない、ということがトップとしての覚悟だと考えます。

それをいろいろな言葉を弄して説明するのではなく、端的に表現すると「遺書を書け」となるのです。

日露戦争を予見した日本海軍の建設者山本権兵衛は、ロシア海軍と戦うための戦艦が少ないことを憂慮し、時の海軍大臣西郷従道にどうしてもあと二隻必要であることを訴えました。

ことの重要性を見抜いた西郷従道は「それは造らねばなりません。造りましょう。もちろん予算はないので流用です。流用を咎められて国会が許してくれなかったら、二人で二重橋へ行って腹を切りましょう。それでその戦艦ができるのならいいでしょう。」と言ったと伝えられています。

この二人の透徹した覚悟により「三笠」が誕生しました。

トップの覚悟とはそのようなものなのでしょう。

前都知事は、公用車を使って別荘に行っていたとか、公費で家族でホテルで泊まった、中国風のナイトガウンを買った、国外出張に際し極めて高額な宿泊費を使ったなどいろいろと報道され、小学生でもためらうような幼稚な言い訳をして反論していましたが、これは覚悟ができていない証左です。

自分はそれが公費の使い方として間違っていないと考えたが、もしそれを都民が許容しないというのであれば私の誤りであったと率直に認めれば辞職に追い込まれるところまで事態は悪化しなかったかもしれません。

森田健作千葉県知事は昨年の台風被害に際して県庁に登庁せず、東京で散髪に行っていたなどと非難されましたが、申し訳ないと謝罪を続け、現在も知事の椅子に座っています。彼が若かりし頃演じたドラマの主人公のような対応だったことが評価されているのでしょう。いわゆる潔さです。

この国のトップは?

現在、予算国会が開かれています。

この予算委員会での審議中、野党議員の「桜」関連の質疑にうんざりした安倍首相は、議員の質問最中に「意味のない質問だよ」という野次を飛ばし、議会が騒然となるという場面がありました。5日後、集中審議の冒頭において不規則発言を行ったことを謝罪し、以後慎むと述べましたが、これは行政府の長としての覚悟が中途半端であったことを物語っています。

予算国会とは、政府が提出した来年度予算案を国会で審議するものであって、政府は国会に審議をお願いしている立場です。

たとえそれがどのようなレベルの審議であったとしても、政府は議員の質問には誠意をもって対応しなければなりません。

レベルの低い質問が続くのは、議員のレベルが低いからであり、それはとりもなおさず国民の意識レベルが低いからなのですが、だからといって政府が勝手にことを進めていいということにはなっていません。それが議会制民主主義です。

行政府の長は、国会において、何を言われても耐えなければなりません。国権の最高機関である国会で行われる質問を「意味がない」などと野次るのはあってはならない行為です。

さらに小泉環境大臣が首相官邸で行われた新型ウィルスに関する対策本部の会合を地元の後援会が主催する新年会に出席するために政務官を代理出席させたことが国会で追及され、危機管理上のルールに従ったものだと弁明しましたが、このような危機管理上のルールが政府にあるはずはありません。

複数の公務がバッティングした場合や、病気や怪我などで本人が出席できないときに代理を立てることはルール上OKでしょう。しかし、私的会合への出席を公的会議への出席に優先させるときに適用できるルールだとは思えません。この人の言動には大臣としての覚悟を垣間見ることができません。

環境省の職員が育児休暇を取りやすくするためにもという理由で率先して育児休暇を取得することを宣言していましたが、環境省の職員と大臣では身分が違います。

国務大臣や自衛官は国家公務員法の適用を受けない特別職国家公務員です。自衛官は出動を命ぜられれば休暇中でも戻ってこなければなりません。休暇についての規定を見ると分かりますが、「休暇を取ることができる。」のではなく、「休暇を許可することができる。」となっており、必要があれば許可しないこともできるのです。

そのような特別職国家公務員が背負っている国民に対する責任を考えた場合、コロナウィルスの対策会議よりも地元後援会の新年会を優先させるという発想は私の理解を超えています。

また、代理出席を容認した現政権の覚悟もその程度のものかと思われます。私が官房長官であれば、小泉大臣に横須賀から直ちに戻るように指示を出したうえ、譴責処分としますが。

私心を捨てられないトップは覚悟を持つことができない

覚悟を持つということは私心を捨てるということです。私心があると覚悟はできません。保身を図る政治家が見苦しいのはそのためです。

私心のない政治家(もしいたらですが。ちなみにこのもしいたら、というのは英語では if any と表現されますが、これには多分ないだろうけど、万一あったら・・程度の意味に解すべきです。)なら、大きな責任を負わせてもとんでもない過ちは犯さないはずです。

余計なことを考えないからです。

つまり、覚悟を持つということは、決断に至る思考過程に余計な要素が入りこまないので、決断が早くかつ過ちのないものになっていきます。トップにとって覚悟を持つということが重要だと申し上げているのはそのためです。

組織のための意思決定に際して、自分の利益や保身を考えるようなトップにはそのような決断は期待できません。

遺書を書く覚悟のあるトップは書く必要はない

実際に書くか書かないかは別として遺書を粛々と書ける覚悟が必要なのです。そして、その覚悟が実際にあるのなら、本当に遺書を書く必要はありません。

その人の覚悟はその態度と所作に現れてくるからです。