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専門コラム「指揮官の決断」

第210回 

危機管理の新たな視点

カテゴリ:危機管理

危機管理が対象とする事態とは

当コラムは危機管理の専門コラムです。専門コラムである以上、専門以外の領域に踏み出す際は極めて慎重な態度を取っています。これは当コラムで何度も申し上げてきたことです。

専門コラムが専門以外の領域について語る場合、その内容に責任を持てないことがあり、それは広く世間に何らかの主張をする者として無責任だということになるからです。

一方で、自らの発言に責任を持つ以上、匿名による誹謗中傷とは根本的に質が違いますので、かなり厳しい意見を表明することがあります。扱っているテーマが危機管理であり、それは国家の命運から個人の生命に至る重要な問題について言及する以上、やむをえないことかと考えています。

危機にはいろいろな性格のものがあります。

国家の安全保障上の危機、社会秩序の危機、会社などの存続の危機、私たち一人一人の生命・財産への危機など、その種類も規模も様々です。

今回取り上げるのは、通常は危機管理論が取り上げることがあまりない論点です。それは私たち国民の自由権に対する危機です。

学術会議において生じた問題の性格は

日本学術会議がその会員の任命に関し、法に基づき内閣総理大臣に対して推薦を行ったところ、菅総理大臣はそのうちの6人について任命を拒否しました。

学術会議は定員が210名であり、任期が6年と定められています。再任はされず、3年ごとに半数が交代することになります。その新たな会員候補は、学術会議が推薦することが法により定められています。

この推薦による任命は歴代首相によって行われ、これまで推薦されて任命が拒否された事例はありませんでした。しかしその前例を破って菅首相は6人の任命を拒否したのです。

学術会議は一斉に反発しました。また、立憲民主党を中心とする野党もその問題を取り上げて、任命を拒否された学者を呼んで事情を確認しました。

そこで持ち上がったのが、「学問の自由」に対する侵害という議論です。

任命を見送られた学者のうち3人は法律の専門家であり、その方々が学問の自由に対する侵害であると訴えています。学術会議のメンバーとして推薦されるようなレベルの研究者の方々で、かつ、法律の専門家です。しかも、そのお一人は憲法学がご専門です。それは説得力を持つでしょう。

当コラムは法律の専門コラムではありませんので、法的な問題についての専門的議論をしようとは考えておりません。

しかし、危機管理の専門コラムとして考えることがあります。

つまり、危機とは何かということです。

危機を定義していると学問体系ごとに凄まじい議論が起こりますので、ごく一般的に定義したいと思いますが、それは「人類、社会、組織、あるいは個人に具体的な危害を与えるもの」と言うのがもっとも分かりやすいかもしれません。

何が起きても具体的な危害が及ばなければ危機であると考える必要はないからです。

そこで、今回の事件を考えてみます。

学問の自由に対する危機とは

学問の自由が侵される事態というのは、間違いなく私たちの社会に具体的な危害を与えます。つまりそれが危機を招くことは確かでしょう。したがって、危機管理論がそれを避けて通らなければならないという理由はなく、むしろ避けて通ってはならない分野かもしれません。

危機の性格は様々ですので、それぞれの専門的見地から研究がなされる必要があるとは考えますが、しかし、専門ではないから黙っていなければならないかというとそうでもありません。現に、当コラムでは感染症については専門的知見を持ちませんでしたが、統計学やORについては若干の経験を有していたため、その見地から新型コロナウイルスを観察してきました。

学術会議の問題についても、一般常識の範囲で解釈し、それがいかなる危機を惹起するのかについて危機管理の専門コラムがテーマとして取り上げることは必要であると考えています。

これは危機管理論の新しい視点かもしれません。これまで法律論争を取り上げた危機管理論はあまり見たことがありません。

まず、学問の自由という自由権の法的性格を考えます。

学問の自由という自由権を構成するものは、学問研究の自由、研究発表の自由、そしてその研究成果の教授の自由及び大学の自治です。

学術会議に入れないとどの自由が侵されるのかを検討します。

批判している方々の言い分を聞いていると、反政府的な言動があると学術会議に入ることができなくなるということが委縮効果を産むということのようです。

しかし、反政府的な言動があると学術会議のメンバーになれないということが事実であったとしても、研究者の言論に制限が加えられているわけではありません。

学術会議会員という肩書や名誉が欲しい研究者にとっては委縮効果を産むのでしょうが、その程度の研究者の自由を大騒ぎしてまで守ってやる必要はないでしょう。自らの信念に従った言論を行う場はいくらでもあるのですから。

自分の本来行いたい研究を自粛してまで会員という肩書が欲しい研究者が基本的人権を振りかざすのはいかがなものかです。

学術会議会員でなくとも研究はできますし、研究発表も自由にできます。まして学術会議会員でなければその成果を学生に教えることができなくなるということもありません。

学術会議会員になれなかったことにより、どのような権利が奪われたのか不明です。

つまり、具体的にどのような危機が及ぼされるのかが曖昧なのです。

誰の誰に対する自由権の侵害なのだろうか

マスコミも学術会議も野党も勘違いしているようですが、首相は国会で選ばれてその地位にあります。国会は間接民主制により選ばれた議員で構成されています。ということは、首相は国民の民意を代表しているはずです。

つまり、6名の学者の任命を拒否したのは理論的には国民の意思なのです。

そこが野党が理解できていない点であり、野党は国民を代表して政府に意見するのが任務だと思い込んでいますが、国民が選んだのは与党であり、野党は国民の意思を代表するものとして相応しくないという評価を国民から下された結果として野党の地位にいるということが理解されていません。

つまり、この度の決定を批判するのは国民を批判しているのと同じことになります。

たしかに、与党の政策がすべて正しいわけでも、すべてが民意を反映しているわけでもありません。国民は様々な局面で不満を持ちます。しかし、それはその政権を選択した国民の責任なのです。

それは私たちが米国を見ていて、トランプ大統領がまた無茶なことをしているなと思っても、それが米国民の選択だったのだから仕方ない、米国民は自業自得と思うべきだと考えるのと同じです。

東日本大震災で政府の対応が後手後手に回ったのは当時の政権を選んだ国民の責任であり、それでも何とかやってこられたのは、消防・警察・海保・自衛隊・米軍などの訓練された組織のメンバーたちの使命感と全国から駆け付けた数多くのボランティアや社会福祉協議会の人々の信じられないような努力があったからです。

メディアが気付かない論点

また、メディアが論評しませんが、もし、学術会議への任命が拒否されたことをもって学問の自由に対する侵害という議論が成り立つのであれば、日本学術会議法そのものが学問の自由を侵していることになります。

テレビのコメンテーターはこれまでの経緯からも明らかですが、多分その法律を読まずに発言しているのでしょうから気付いていないのかもしれませんが、学術会議法には会員は70歳に達したら退職しなければならないという規定があります。つまり、批判が正当なら70歳以上の研究者には学問の自由がないということになります。

そんなバカげた理論はないはずです。

自由権は侵されてはならない

学問の自由は思想及び良心の自由につながる内心の自由を含む重要な権利です。この権利の保護は絶対的に守られなければなりません。特に学問研究の自由は内心の自由ですので、公共の福祉の制約も受けることはありません。

その至上の価値を持つ自由権は軽々しく扱ってはなりません。学術会議に入れなかったらと言って権利侵害だと錦の御旗を振りかざすような性質の権利ではないはずです。

逆にその程度の権利であれば、簡単に圧迫や弾圧の対象になってしまいます。このような重要な権利は伝家の宝刀として抜きどころを考えないと、権利そのものの価値を低めてしまいます。

この任命拒否を学問の自由に対する侵害であると批判するのであれば、法律の専門家ではない一般国民に対して、その何が学問の自由のどの部分を侵害しているかを明確に説明すべきです。学問の自由の法的性格などを到底理解しているとは思えないテレビ局などはまだしも、任命を拒否された法律の専門家たちは感情論ではなく法的な議論として何故学問の自由の侵害になるのかを論証すべきです。ただ学問の自由の侵害だという抽象的な主張では何を言っているのか理解できません。しかもそれを主張している本人が憲法論の専門家なのですから。

自由を勝ち取るための闘いとは

そうでなければ、この権利の法的価値に対する評価が下がってしまいます。それこそ学問の自由の危機です。自由を求めるための闘いとはそのような安直なものではありません。血の海を渡り、多くの屍を乗り越えて獲得してきたものであり、政府御用達の組織に入れなかったら失われるような安い権利ではないのです。そのような自由獲得の凄まじい歴史をもたない私たちの社会ではそれが理解されておらず、安直に「権利侵害」だと言えば済んでしまうようなものと認識されているようです。

自由権が侵されるという危機は何としても避けなければなりません。

危機管理は防災のためだけの議論ではなく、安全保障上だけの議論でもありません。また経済的危機に対抗するためだけの議論でもなく、それらを全て含む私たちの穏やかな日常を脅かすあらゆる危機を乗り越えるための議論です。

したがって、それが自由権に対する侵害であろうと相手を選びません。

これからも当コラムは、専門的な議論は専門家の知見を待ちつつ、危機管理論から考えるとどうなるのかという視点から様々な問題と取り組んでまいります。