専門コラム「指揮官の決断」
第211回今こそ危機管理を
的中した予言
昨年末、当コラムは「不吉な予言」をしています。( 専門コラム「指揮官の決断」
第167回 危機管理とはそもそも何をするマネジメントなのだろうか https://aegis-cms.co.jp/1825 )
そこには次のような記載があります。
「この社会は近い将来またとてつもない被害を受けて右往左往し、国の対応の遅れなどと責任の転嫁が図られるでしょう。私たちの社会はリスクマネジメントとクライシスマネジメントの違いすら理解できていないのです。危機への備えを真剣に行わない者が手痛い仕打ちを受けるのは当然のことです。私たちの社会は危機管理ができるような社会ではないのです。」
この不吉な予言はその一月後に的中することになります。私自身、このコラムを執筆した際に、翌年早々からコロナ禍に見舞われるという予感があったわけではありません。
ただ、危機にはいつ襲われても不思議はないし、その結果、この社会は大変な思いをするだろうと考えていました。
なぜそう考えていたかというと、この国では危機管理というものが理解されていないからです。
このコラムをお読みの方々はまたその話かとうんざりされるかもしれませんが、世の中の実相はそうなのです。
リスクマネジメントを危機管理だと思い込んでいる方がほとんどです。
「危機管理」「リスクマネジメント」「クライシスマネジメント」の概念を簡単に説明せよと言われて説明できる人はそう多くはないと思われますし、中には「クライシスマネジメント」という言葉を知らない方もいます。
そのような国で危機管理がしっかりとできるはずはありません。
やはり学者は危機管理を知らない
ちなみに、最近行われた民間の大学教授など有識者と呼ばれる人々が政府関係者83人に聞き取りを行った結果では、「戦略的な政策パッケージではなく、場当たり的な判断の積み重ねだった」と結論されていますが、この有識者と呼ばれる方々も危機管理がどういうものかを理解していません。
理論上はともかく、実際の危機管理で「戦略的な政策パッケージ」を淡々と実施に移すなどということはまず不可能であり、その場その場で対応していかなければならないのが危機管理です。戦略的パッケージをあらかじめ準備できるのはリスクマネジメントであり、危機管理ではありません。
危機に際して戦略的なパッケージで淡々と対応するなどと言うのは学者の机の上だけで行えることであって、実務の世界でそのようなことを行うべきと考えるのは学者だけでしょう。
台湾を引き合いに出す評論家がたくさんいます。たしかに台湾の対応は見事でした。ただ、私たちが忘れてはならないのは、オードリー・タンという優れた能力と実行力のある人物がデジタル担当大臣であったことです。タン大臣がいなかったらそれほどうまくいったかどうかは疑問です。もちろん、そのような人物を登用していた台湾総統の人事も評価されるべきですが、しかし、そのオードリー・タン大臣も台湾のインフラ整備が日本並みであったら実力を発揮できなかったでしょう。
日本では恐るべきことにマイナンバーと住民票が紐づけられていません。プライバシーの保護という観点なのだそうですが、マイナンバーがまったく活用できないのです。そのため、一人10万円の一律給付金の支給にもおそろしく時間がかかりました。
また台湾は毎年防空演習が行われる国であり、警報が鳴り響いたら直ちに憲兵や警察の指示に従って避難しなければならず、その指示に従わない者には罰金が科せられます。
マイナンバーで一人一人が把握され、防空演習などで軍や警察が国民を統制できる国なのです。そうでなければタン大臣も実力を発揮するのにもっと手間がかかったでしょう。
日本の感染症対策は失敗だったのか
日テレNEWS24は「新型コロナ対策をめぐる政府の対応について、菅総理や安倍元総理ら83人に聞き取りを行った有識者らが会見しました。感染拡大を阻止できなかった原因などを分析しています。」と報道していますが、そもそも日本は感染拡大阻止に失敗したのでしょうか。
米国は760万人の陽性判定者を出しています。スペインは86万人、フランスは73万人、英国が57万人、イタリアが34万人、ドイツが32万人です。これに対して日本は8万人です。これで感染を阻止していないというのでしょうか。対人口比で計算したら、日本の割合はさらに劇的に小さくなっていきます。
岡田晴恵教授が「今日のニューヨークは来週の東京です」と言おうが、東大の児玉龍彦教授が「東京はミラノやニューヨークのようになる」と予言しようが、そういうことには全くならず、むしろ彼らの予言と正反対に重篤者と死亡者は減り続けたのです。
現時点でのコロナウイルス関連死亡者は1700人に達していません。例年、インフルエンザでは3000人が亡くなっています。何をもって日テレは失敗と決めつけているのでしょうか。
たしかに政府の対応は反省すべきことも多々ありそうです。弊社は感染症を専門としていないため、データの解析からしか状況を見定めることができませんが、それだけでも、中国からの入国制限の時期などには疑問が残ります。
また専門家会議は小学校の休校要請は必要が無いという意見だったようですが、弊社の見解としては、諸外国の事例から見れば日本での感染などは比較にならないほど小規模であり、その中で最もきつかったのが5月で、ピークは7月に終わっていたはずです。
8月にもテレビで報道される感染者は増加し続けましたが、これはメディアが視聴率稼ぎに行った操作であり、感染者は増えておらず、検査結果の陽性判定者が増えただけでした。つまり、7月にはこの社会は免疫を獲得しつつあったので、自粛要請の解除はもっと早くても良かったはずです。
現に、GoToトラベルにより旅行をした多くの人の中で陽性判定された人数は驚くほど少数です。
このように政府の施策においても錯誤の連続ではあったものの、結果的にこの国は見事に感染を阻止したと言ってもいいかと考えます。
危機管理というものはそういうものです。戦略的なパッケージなど用意されているような事態への対応なら、そもそも危機管理上の事態になりません。予測不能の事態に対応しなければならないので、周到な準備などができるはずはなく、その結果場当たりになり、錯誤の連続となります。
戦場においては錯誤の少ない方が勝つと言われるのはそのためです。
それを「戦略的パッケージではなく、場当たり的な判断の積み重ね」と批判するのは、危機管理がどのようなマネジメントであるのかを理解できない机上でものを考える学者の特徴でしょう。
問題は場当たり的な判断を如何に的確に行うかという意思決定能力とその判断の下にメンバーを一致団結させるかというリーダーシップにあります。
その観点から評価すると、先進国ではけた違いの重篤者数と死亡者数の少なさに抑え込み、かつ、緊急事態宣言では接触を70%削減して欲しいと要請したら、その意味を理解しないテレビの報道によって人出が70%以上減ってしまうというくらい国民は従順に従いました。政権が交代した際に行われた世論調査では、もっとも批判的な新聞の調査でさえ前政権を支持した人が70%以上いたことを発表せざえるを得ませんでした。
その観点から見れば、政権は優れたリーダーシップを発揮したのでしょう。
私たちの社会の対応は?
政治の世界における危機管理がどうだったのかは、もう少し沈静化したのちに今回の事態を教訓として残すための活動が始まるはずですので、その時点で様々な反省点などが挙げられてくるでしょう。
一方で私たちの社会の危機管理はどうだったでしょう。
危機管理という観点からは褒められたものではありませんでした。しかし、この国は本来の美徳を最大限に発揮してこの危機を乗り切りつつあるように思います。
それは公衆道徳への従順さです。それぞれが大変な思いをしているのに、辛いのは自分たちだけではないという思いで耐え、政府や自治体の自粛要請に粛々と従いました。
視聴率稼ぎに奔走するテレビが必死になって煽った恐怖感のために大きな不安を抱えつつ耐えたのです。
ただ、そもそも危機管理を理解していなかった企業や個人事業主たちは軒並み大きなダメージの直撃を受けました。
リスクマネジメントを危機管理だと思い込んでいた企業は対応が取れなかったのです。
リスクマネジメントはその文字通り「リスク」を管理するマネジメントです。つまり「危険性」のマネジメントであり、「危機」に対応するものではありません。辞書を引いて頂ければ分りますが、riskに「危機」という意味はありません。
つまり、様々な危険性を認識し、その危険性が現実になった際にどう対応するのかをあらかじめ検討しておくのがリスクマネジメントです。
したがって、そのリスクマネジメントの成果としてコンサルタントたちが作るのがBCPですが、そのBCPに感染症対策が盛り込まれていたのであればその企業はビクともしなかったはずです。
しかし多くの企業のBCPには感染症対策が書き込まれていなかったらしく、テレワークへの転換への対応に各社ともバタバタせざるを得ませんでした。
この例が示すように、この社会では危機管理の概念が理解されていないため、この事態に対して済々粛々と対応ということにはなりませんでした。にもかかわらず先進国でけた違いに犠牲を少なく抑え込んだのは私たちの公衆道徳感と公衆衛生に関する習慣のなせる業ではなかったかと考えます。
しかし、その中で危うくこの社会を本当の危機的状況に落とし込みかねなかったのがテレビを中心とするメディアとそこに登場した評論家や専門家と称するコメンテーターたちです。
当コラムでは事態のかなり初めのころから、むやみなPCR検査は意味がないどころか、本当に検査を必要とする重篤者の治療方針の速やかな策定を阻害するので行うべきではないということを数学的に論じてきましたが、そのような簡単な確率論すら理解できないテレビはむやみなPCR検査が必要であるとの批判を続け、危うくこの国の医療を崩壊に導くところでした。(専門コラム「指揮官の決断」第184回 論理性の問題:PCR検査を無駄に行ってはならない理由 https://aegis-cms.co.jp/1947 )
厚労省が出した通達を読むことすらせずにその内容を誤解したのかわざと曲解したのかは知りませんが、国は高熱が4日続かないと検査をしないという批判を繰り返し、さらに接触を70%、できれば80%減少させて欲しいという緊急事態宣言に伴う国民に対する養成の意味も理解できず、人出の数が70%減少したとか80%に達していないなどの無意味な報道を続けました。接触数を減らせばいいのに、人出の数をカウントするという見当違いに何の疑問も感じないというレベルの低さでした。
その挙句、某大学の女性教授を時代の寵児として「今日のニューヨークは来週の東京です。」などと人心の不安を煽りました。さらには東大の名誉教授を担ぎ出して「この勢いでいけば、来週の東京は大変なことになり、来月には目を覆う事態になる。」と社会を脅しました。
結果として重篤者、死亡者とも減少してしまったのですが、それではなぜそのような終末論的な予言がまったく正反対の結果に終わったのかという説明は一切なく、そのような報道は無かったの如く振舞っています。
しかし、それらの報道を通じて作られたこの社会の「空気」が行政の意思決定を大きく歪めたことも間違いないでしょう。山本七平氏が指摘するように、この国では論理ではなく「空気」が論理的でも科学的でもない意思決定を強要するので、危機管理を戦略的に行うことが難しい国でもあると言えます。
メディアが問題
本来の危機管理の概念はどういうものであるのかという議論はほとんどなされず、ただ「政府は危機管理ができていない。」などの批判だけはされていきます。しかし、その批判をする側も、それでは危機管理という概念を説明せよと言われて済々と説明できるかと言われれば怪しいものです。
この国の危機管理の概念の理解がいかに出鱈目かを示す例があります。
アメリカンフットボールの試合でルール違反で問題を起こした大学には危機管理学部がありますが、この事件の際にこの大学の危機管理ができていないと批判されました。危機管理学部を持っている大学が危機管理を出来ていないのです。
理由は明らかで、危機管理学部の教員の大半がリスクマネジメントを専門とする学者だからです。この大学はリスクマネジメントを危機管理だと認識しているのです。危機管理ができるわけがありません。
また、そのような学部の設置を認可した文科省も危機管理がどういうマネジメントなのかを理解していないということでしょう。獣医師しかいないのに医学部の設置を認可したようなものです。
今こそ危機管理を
実は今年度から私は母校上智大学で危機管理を教えています。学生に何故この講義を履修することを決めたのかとアンケートを取ったのですが、ほとんどの学生がコロナ禍で自分の生活が大きく変わって不安だったということを挙げたましたが、やはりリスクマネジメントという言葉を危機管理の同義語として認識していた学生が圧倒的に多数であり、私が危機管理の概念の解説をしたのを聴いて驚いたという学生がほとんどでした。
この国で危機管理がしっかりと理解されていないのには理由があります。
国際関係論において東西冷戦が第三次世界大戦に発展し核戦争が始まるのを何とか防ごうとクライシスマネジメントの議論が真剣になされ、それが危機管理論として日本でも紹介されていたのと同時に、金融論において保険などを活用して企業の資産をいかに守るかというリスクマネジメントの議論がなされていたのを、カタカナ英語をいい加減に使うのが得意なマスコミが混同したのが原因です。(メディアがコンプライアンスを法令遵守だと思い込んでいることは当コラムで何度も指摘してきています。)
しかし、このままクライシスマネジメントとリスクマネジメントの違いも理解できない状況が続くと、コロナ禍の後に来る危機を私たちの社会が乗り切ることができないかもしれません。
当コラムでは危機管理の概念について何度か記載してきていますが、次回から何回かに分けてその点について言及していきたいと思っています。
どうか、来る新たな危機に備え、この際、改めて危機管理の概念を整理しておいて頂きたいと思っています。
私たちは熱しやすく冷めやすい国民性を持っています。阪神淡路大震災の記憶が薄れかかった頃、東日本大震災で酷い目に遭いました。
コロナ禍にある今こそ危機管理について真剣に議論すべき時でしょう。
林修氏は私の弟でも何でもありませんが、危機管理をいつやるか?と問われれば、私だって答えます。
「今でしょう!」