専門コラム「指揮官の決断」
第252回科学的証明とは
コンピューターを使って・・・
以下は、かつてメールマガジン「指揮官の休日」で配信した記事ですが、長くなりますので抜粋します。
「東京五輪の開会式で、主催者と観客が新型コロナウイルスの対策を徹底すれば、感染が広がるリスクは100分の1に減るとするコンピューターを使った予測結果を、東京大や福島県立医大などの研究チームが22日、発表した。」
これは3月23日火曜日の読売新聞に掲載された記事です。
中略
東大の研究チームが挙げた論文のタイトルは“Association between Participation in Government Subsidy Program for Domestic Travel and Symptoms Indicative of COVID-19 Infection”というものであり、タイトルが示しているように、関連性の研究であって相関関係や因果関係を研究したものではなく、つまり、統計学的に証明したものではなかったのです。
新聞はその論文を読まず、誤読した共同通信の配信をそのまま記事にしてしまったというお粗末なものでしたので、今回の記事もどうせその類かと思って読んでいました。
しかし、読んでいて何故かもの凄い違和感に襲われたので、もう一度読んでみました。
そこで私が何に引っかかったのかが分かりました。
「コンピューターを使った予測結果を・・・」という部分でした。
昭和も40年代くらいならまだしも、令和3年のこの時代に「コンピューターを使った」とわざわざ報じる意味がどこにあるのだろう・・・
これが算盤や計算尺を使って計算したというのであれば新聞記事にする価値は十分あります。今時、計算尺をそこまで使いこなせる人などそういませんからね。
しかし、この記事はあたかもコンピューターを使ったから正確だと言わんばかりです。
コンピューターのプログラムを扱ったことのない人には分からないかもしれませんが、コンピューターというのは、命ぜられた作業を文句を言わず愚直に延々と繰り返す機械に過ぎません。
中略
昨年の今頃だったと思いますが、「新型コロナウイルスに、次世代スパコン「富岳」が挑む」という記事を読んだことがあります。
何が書いてあるのかと興味を持って、改めて珈琲を淹れ直してコーヒーテーブルに向って読んでびっくりしました。飛沫の飛び方をシミュレーションしたのだそうです。
私はその手のグラフィックシミュレーションのプログラムを書いたことがないので分かりませんが、計算と描画に時間はかかるかもしれませんが、富岳を持ち出さなくとも、私たちのオフィスで机の上に乗っているPCでも十分にできるのではないでしょうか。
富岳を用いてやって欲しいのはワクチンや治療薬の開発です。これには膨大な量のデータの参照と無限に近い回数のシミュレーションが必要になりますので、短期間に開発しようとするとスーパーコンピューターが必要でしょう。
コンピューターのプログラムを書いたことのない人は、コンピューターが行うことは正しいと勘違いしているかもしれませんが、もしそれが正しいのであれば、そのプログラムを書いた奴が正しかっただけなのです。みずほ銀行のようにシステムがトラブルを起こすのは「コンピューターが間違った。」のではなく、システムをデザインした部門が様々な状況を予見していなかっただけなのです。
つまり、コンピューターを使ったら正しい結果が出るわけでもなんでもなく、たとえそれが「富岳」であっても同じことです。さらに、富岳をこのようなシミュレーションに使用することの利点は「画像処理が速い」という一点に尽きます。統計学的なシミュレーションだけなら富岳を持ち出すのは牛刀を持って狗肉を割くのと同じであり、皆様方が日常お使いのノートパソコンでエクセルを使えば問題ありません。
以上
長くなりましたが、以前メールマガジンで配信した記事です。
今時、様々な分析や予測に「コンピューターを使った」という表現がなされることへの違和感について語っています。極端な話ですが、このコラムだってPCのワードプロセッサーを使って書いています。「コンピューターを使って書いたコラム」なんです。
ところが、最近、NHKで驚愕すべきニュースを観てしまいました。
富岳を使ったシミュレーション
以下はそのニュースを書き起こしたものです。
『東京都内で新型コロナウイルスの感染状況が悪化する中、政府・与党内では、東京オリンピックは無観客とすることも含めて対応を検討すべきだという意見が出ています。
こうした中、萩生田文部科学大臣は閣議のあとの記者会見で、国立競技場での感染リスクを、スーパーコンピューター「富岳」を使って試算した結果を公表しました。
試算では、国立競技場に観客1万人を入れて10人の感染者がいた場合でも、全員がマスクを着用し観客の間に空席を設けることで、感染リスクを下げられるとしています。
具体的には、客席の後方から風が吹いている条件では、感染リスクは限りなくゼロに近く、前方から風が吹いている条件では、感染リスクは少し上がるものの、新規感染者数は1人に満たない程度の結果になったということです。
萩生田大臣は「国立競技場にかぎっては感染拡大は抑えられることが、科学的にも証明できた」と述べ、安全・安心な大会運営に向けて大会の組織委員会と試算結果を共有する考えを示しました。』
これには本当に開いた口が塞がらないという思いでした。
この程度の頭の政治家が文科省を率いているのですから、この国の教育がまともになるはずはありません。大学入試改革は迷走を続け、日本語ですら怪しい小学生に英語を教えれば英語を使えるようになると勘違いし、現状は大学の工学部の学生に対して予備校から講師に来てもらって因数分解を教えなければならない程度の数学力しかないこの国において、小学生からプログラミング教育を行うなどの迷走が続く理由もここにあるのかと思います。
萩生田文科相大臣は「富岳」のシミュレーション結果が科学的証明だと思っているのです。
彼は「科学的証明」というものがどういうものなのか考えたことすらないのでしょう。
コンピューターのシミュレーションは、たとえそれが「富岳」が行ったものであっても「予測」に過ぎません。様々な仮定をおいて、その仮定のもとでどうなるのかを予測しているだけであり、科学的証明とはほど遠いのです。
科学的証明とは
科学における「証明」というのはある前提にもとづいて理論的に結論を導き出される過程を示すことにより行います。
「証明されている」といえば「正しい」とは限りません。前提が正しければ、という条件つきで正しいだけです。
前提が公理であれば、その正しさは絶対的ですが、多くの場合、科学的正しさは条件付きです。前提が正しくなければならないからです。
つまり、「富岳」のシミュレーションであろうが筆者が卓上のPCで行うシミュレーションだろうが、「科学的な正しさ」の本質は同じなのです。
昨年メディアを賑わせた北大(当時)の西浦教授は対策を取らない場合42万人が死亡するとして8割の接触を減らすことにより2週間後にはピークアウトさせ、1か月で流行を抑え込めると主張しました。42万人が死亡しなかったのは緊急事態宣言が発令されたからではありません。発令以前にピークアウトしており、事実、発令した日から陽性判定者が減り始めています。重篤者の45%が死亡したとする中国のデータなどを前提としていたため、そもそも前提が間違っていたので、科学的に過ちなのです。
新聞記者やテレビ局のディレクターたちはこの基本的な論理を理解していません。彼らは統計学的な証明や事実の認定ということがどういうことなのかを知らずに報道し番組を作ります。
学校教育に問題あり
学校教育で教えなければならないのは、そのような基本的なものの考え方です。
文科省大臣のような基本を理解していない大人を作らないようにすることの方が、英語やプログラミングよりも遥かに重要です。
極端な話、私は大学まではリベラルアーツを教えるべきだと考えています。実学としては外国語の文法程度を教えておけばいいでしょう。学問研究には語学が必要不可欠ですからね。
大学院の修士課程で学問的な方法論を教え、博士課程で初めて学問に貢献する研究をすればいいでしょう。応用や役に立つことなどは最後の最後でいいと考えています。
富士山が高く美しくそびえているのは広いすそ野を持っているからです。豊かな一般教養をバックグランドに持ち、その上で専門的な学びをしていくことが深い専門性を発揮するうえで大切だと考えています。
もちろん、極めて若い段階である一定の分野において天才的な才能を発揮する人もいます。しかしそのような人材は学校教育の中で生まれてくるのではありません。
学校教育ではやはり基礎的なものの考え方を教えるべきであり、文科省大臣にまでなってコンピューターの予測と科学的証明の違いも判らないような大人を育ててはならないのです。
表現には気を付けます
内閣官房参与が日本のコロナ禍の現状を欧米と比較して「さざ波」と表現して騒動が起こり辞任に追い込まれましたが、当コラムでもある一定の能力に達しない人について「ハツカネズミ程度の脳みそ」と表現することがあります。この表現が適切ではないというご指摘を頂くおそれがありますので、表現には気を付けたいと考えています。
今後は、ハツカネズミに失礼にならないように萩生田文科相大臣程度の頭の方々については「ハツカネズミ以下の脳みそ」という表現を取ることとさせていただきます。
ハツカネズミはしっかりと学習しますからね。