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専門コラム「指揮官の決断」

第255回 

堕落・怠慢・無責任と退化

カテゴリ:危機管理

危機管理の専門コラムが抱える問題

当コラムは危機管理の専門コラムですが、危機が生じている領域そのものについては専門外であることが多いため、コラムの執筆に関しても注意を払わなければなりません。筆者は経済学研究科で学んでいたことがありますが、経済学そのものについては学部で学んだだけであり、研究室で学んでいたのは組織論でした。したがって経済学に関しては専門外ですのでこのコラムのように読む気さえあれば世界中の誰でも読むことができる場における発言には慎重である必要があります。

さらに筆者はかつて30年間海上自衛隊に籍を置きましたが、軍事や安全保障問題の専門家を名乗ったこともありません。10年前に退官した後、商社に再就職し、不慣れな営業などをやっていたため、ビジネスに関する勉強が忙しく、安全保障分野についてのフォローが疎かになっているからでもありますが、そもそも元々自衛隊の制服を着ていたからと言って安全保障問題の専門家の要件を満たすかどうかは別問題だからです。軍人というのは戦場で戦うことの専門家ではありますが、それが世界の安全保障問題を俯瞰できるかと言えば必ずしもそうではありません。文民統制が必要な理由がそこにあります。

つまり、危機管理の専門コラムというものの不自由さがそこにあるということです。危機管理を専門としていても危機の生ずる分野についての専門性を持っていないとなかなか深層に迫ることができないという根本的な問題を内包しています。

例えば現在世界を襲っている新型コロナによる騒動についても、筆者に医学の専門知識がないことから問題の核心に迫ることができていません。危機管理の専門コラムとしては、その原因がコロナウイルスであろうとインフルエンザウイルスであろうと、あるいはエボラ出血熱ウイルスであろうと感染症がもたらした危機という対応でもいいのですが、コロナとエボラではその感染の広がり方や社会に与えるダメージの大きさがまったく違いますので、やはりある程度ウイルス別の考察が必要となります。

当コラムがそのウイルス別の検討を行う際に手段とするのが統計学であり数理社会学の分析手法です。当コラムはデータから分かる現象に議論の根本を置いてこの事態を観察しています。

それでは専門家に訊いてみましょうか

当コラムを続けてお読みの方にはご理解いただけるかと存じますが、当コラムは方法論にはかなり厳しい態度で臨んでおり、自身の言論についても同様の基準を適用しておりますが、当コラムなりの方法論をとっていても分かることは多々あります。しかし、それは当コラムの方法論から導き出した結論であり、その分野の専門家が見ると必ずしもそうではないのかもしれないという疑念を自ら持たざるを得ないのも現実です。

したがって当コラムでは可能な限りその分野に専門的知見のある方々からご意見を頂いて参考としています。

そこでこのところ当コラムで取り扱う分野の専門家というものを考えざるを得ない仕儀となっていることも事実です。

ちなみに、弊社がご意見を伺うのは学者・研究者、弁護士や会計士などの専門家あるいは行政やビジネス分野でそれなりの仕事をされてきた方々などに限られ、専門ジャーナリストに参考意見を求めることはありません。彼らは当方がどういう答えを求めているのかを推測してそのような反応をするのが常套手段だからです。彼らがメディアの世界で生き残っていくため仕方のない生存本能なのだと思われます。

ただ、直接ご意見を伺う方々からは極めて重要な示唆を頂くことが多いのに対して、メディアに登場する様々な人々からそのような示唆に富む見解を得ることがほとんどなく、それどころか、その人が本当にその分野の専門家なのかどうか疑いたくなることばかりです。

特に目に付くのが今回のタイトルである堕落・怠慢・無責任と退化です。

堕落

まず目につくのが学者・研究者の堕落です。と言うと語弊がありますので、メディアに登場する多くの学者・研究者の堕落です。しかも、ひょっとするとある特定の学問領域に限ってのことかもしれず、さらにはその学問領域においては堕落したのではなく、元々そうだったのかもしれません。

その学問領域とは「感染症学」です。

この1年半にわたり、多くの感染症の専門家がテレビに登場し、様々なコメントを残しています。しかしながら、連日テレビに出演してコメントを述べている感染症の専門家でグラフを用いて説明している人をほとんど見かけません。

これがまず研究者にとっては信じがたいことです。

文学や芸術などの人文系の学問領域やあるいは法律学などではデータにものを言わせるということはあまりないのかもしれませんが、筆者が専門とする組織論をはじめとする社会科学の分野ではエビデンスを提示することが常識となっています。自然科学ではもちろんそれが徹底されているはずです。しかしながら感染症の専門家と称してテレビに出てくるいろいろな大学の先生たちがグラフを提示しているのをほとんど見かけません。

感染症専門の医師ならばまだ理解できます。医師は目の前の患者を診察するのが仕事ですので、社会全般における蔓延状況などに関心なくとも立派に仕事はできるはずです。

しかし、感染症学の専門家はそうはいきません。感染症学や公衆衛生学の分野ではデータが必須のはずです。

何人かの感染症の専門家の方々からいろいろな話を伺っていますが、気が付くのは彼らが統計を理解していないことです。ウイルスの性質などについては詳しくご教示いただけるのですが、一方でデータの見方になるとごく初歩的な統計学上の話が通じません。統計学の入門的講義を受講された方なら、「その検定は両側ですか?片側ですか?」と尋ねてその問いの意味が理解されなかったら、相手は統計学を学んだことがないということをお分かりかと思います。

ある自治体のアドバイザリーボードに名前を連ねる感染症の専門家でもその程度の方がいます。

つまり、感染症学というのはその程度の学問なのかもしれません。

因みに、筆者の専門とする組織論がいまだに組織学ではなく「論」に留まっているのには理由があります。学問としての体系が整理されておらず、何を対象とする学問領域なのかも定かではないため、「学」の体裁をなしていないからです。論者が100人いれば100種類の組織論があるということではまともな議論ができるはずもなく、学会が発行する論文誌も毎回何をテーマに研究しているのだろうとしばらく考えないと分からないような研究者の書きなぐりに終始しています。感染症学は一応「学」と名乗っているので、それなりのコンセンサスがあるはずなのですが、門外漢の筆者から見てもお粗末極まる研究者が多すぎます。

まぁ、あえて学会の名誉を考えると、テレビに出演してくる感染症の専門家たちは、ひょっとすると学会では相手にされずにテレビに出ているのかもしれず、感染症学の代表選手ではないのかもしれません。

昨年の第1回の緊急事態宣言の頃、このまま何の措置もしなければ42万人が死亡するとして、8割の接触減が必要と主張して「8割オジサン」なるあだ名がつけられた専門家がいます。

筆者は医学論文ではあるものの統計学の話なら少しは分かるかもしれないと思ってその論文を読んでみましたが、「ふ~ん。医学統計というのはこういう考え方をするのか。」と思った程度でとくに感心することもありませんでした。なぜなら、そんな論文を今時発表することに何の意味があるのだろうという思いの方が強かったからです。

この論文は、まだ日本に於いてデータの少なかったためドイツのデータから割り出したものを援用したり、武漢から報告された致死率を計算に用いたりしたあげく、日本が何の対応もとらないという仮定において計算されたものですが、そのような計算は仮定が正しいことが前提となります。仮定が誤っていれば、いくら精緻な計算をしても導き出される結論は誤りです。つまり、この論文は仮定した前提が極端だったので、話題にはなりましたが現実を全く説明できませんでした。

しかし、この論文が話題を呼び、執筆者が有名になったことから、雨後の竹の子のように似たような論文が排出されてきました。前提条件が如何なものかという論文が多く、いくつかの論文については執筆者に質問を送ったこともあります。

研究者間においては発表された論文に対して質問を送ることは別に珍しいことではなく、疑問点を質問したり、分からないところを教えてくださいということはよく行われます。

筆者は医学的な内容については触れずに統計学上の問題についてのみ焦点を絞って質問したのですが、帰って来る返事には呆れかえるものがありました。

筆者の質問は大体が計算根拠となる前提条件について、そのような前提条件は現実的なのか、それはある特定の結論を導き出すための前提条件ではないのかということが主眼なのですが、回答はいずれも「しかし、その前提条件が成立する確率はゼロではないですよね。」なのです。

確かに、天変地異が起きてもそのような条件が揃うことはあり得ないと証明できない以上、確率はゼロとは言い切れないのですが、しかし天文学的確率でしかない前提条件の下で、結論だけやたらセンセーショナルな論文を世に問う意味がどこにあるのかということなのです。

研究者にとって、自分の論文が世の中にどういうインパクトを与えようと、それは自分の責任ではないのでしょう。仮説を証明し、論文が査読を通れば本人の実績となりますし、学問研究の目的は真実の探求ですから、それでいいのかもしれません。

何が堕落なのか

感染症の研究者たちの論文に対する態度を云々するつもりはないのですが、やはりメディアに露出する感染症の専門家たちは研究者の視点から見ると「堕落」した専門家たちであろうという思いを払しょくすることができません。

彼らが世論に迎合しているからです。あるいはテレビ局の要請を無批判に受け入れてその意図通りの発言を繰り返すからです。

典型的に表れているのは「感染者数」と言う言葉です。

毎日発表されているのは「感染者数」ではなく、「PCR検査陽性判定者数」に過ぎません。それらの陽性者が感染の段階にあるかどうかはPCR検査では分からないからです。

素人がその陽性判定者数を感染者数と言うのはまだ許せるとして、感染症の専門家が「感染者数」と呼ぶのは許せません。テレビに迎合して「陽性判定者」ではなく、「感染者」と言い換えて不安を煽っています。その用語の誤りがこの社会を混乱のどん底に落とし込んでいるという自覚さえ持っていません。

また彼らのろくにデータを確認もしない態度も彼らの堕落を示すものでしょう。

この度の騒動で有名になった某大学の女性教授が、昨年のいつだったか日本に於ける新型コロナの致死率を3%と言っていたことがありました。筆者はそんなに高いはずはないと直感的に思っていましたが、様々な専門家が3%とコメントするので、変だなとは思いつつ、そうなのかと思っていました。ところが今年になって、その女性の教授が「致死率が3%から1.5%に下がったとはいえ、依然として恐ろしい感染症なんです。」とテレビでコメントしているのを聞いて、明らかに誤りだと確信を持ちました。

そこで、彼女がなぜ3%という数字をはじき出したのかを考えてみたところびっくりすることが分かりました。昨年の発言当時のコロナ死と認定された人数を分子とし、その時の累積陽性判定者数を母数にして致死率を計算すると3%となり、今年の発言当時の数字で計算すると1.5%になるのです。これは致死率の計算方法を知らない素人の誤りです。

コロナ死と認定された人数を分子とするなら、分母は日本国民全体における陽性者数の推定値でなければなりません。もしPCR検査の陽性判定者の累計を分母とするなら、分子はその検査を受けてから亡くなった人数でなければなりません。後者は追跡データがないので計算できませんが、前者については推定することができるため計算し直すと0.15%程度となり、概ね私の直感通りの割合になりました。

つまり、その女性教授は致死率の計算すらまともにできないのですが、何が堕落かと言えば、テレビに出演する多くの専門家が致死率を3%と言い続けていたことです。彼らはその女性教授の言うことを真に受けて、自分で計算もせず、致死率が3%に達する恐ろしい感染症だと主張し続けたのです。0.15%では例年のインフルエンザと同等になってしまいます。

その程度のファクトもチェックしないというのは専門家としての堕落以外の何物でもありません。

私たちが連日テレビで観かけている感染症の専門家というのはその程度の専門家たちが多いのです。

私たちが自分が詳しく承知していない領域で生ずる問題について理解しようとするときには、専門家の意見に頼らざるを得ないのですが、それを果たして信頼していいのかという問題を考えています。今回はメディアに登場する学者・研究者の堕落という問題を取り上げました。次回に続きます。