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専門コラム「指揮官の決断」

第259回 

危機管理ができないトップの一つの形

カテゴリ:危機管理

危機管理というものは

当コラムでは再三にわたり危機管理というマネジメント活動について語ってきましたが、圧倒的に多い誤解が、リスクマネジメントを危機管理だと思っているということです。

リスクとは「危険性」を意味しており「危機」を意味していません。

危険性はある程度覚悟して受け入れなければならないことが多いものです。スリルを求めるレジャーはたくさんありますが、それらのほとんどは危険性を伴うものであり、それが余計にそのレジャーを魅力的にしていることすら稀ではありません。

また、ビジネスの世界においてはチャンスとリスクは常にセットです。リスクのないところに利益が生まれることはほとんどなく、むしろ競合がリスクを恐れて参入してこないところでは利益を独占することができます。

したがって、その意思決定に伴うリスクを的確に評価し、その対応を万全に準備することにより敵のないマーケットを独占することすらできるマネジメントです。

つまり、リスクマネジメントという経営活動は、そのリスクをいかにうまくコントロールし、あるいは回避して利益につなげていくかということをテーマとする極めて重要な役割を担っています。

一方の危機はクライシスの訳ですが、これは想定外の出来事であることが普通です。想定されていれば、その事象に伴って発生するダメージが評価され、その対応が検討されるはずです。それはリスクマネジメントです。

クライシスマネジメントは事前に想定されずに評価が行われず、したがって対応策も準備されていない事態に対応するマネジメントです。

つまり、危機管理というものは想定外の事態への対応をテーマとしています。したがって、過去に事例がないような事態も珍しくありません。実に様々な事態に対応しなければならないのです。

危機管理の教科書がほとんどないのは危機管理という活動の本質がこのようなものであるからです。

毎回何が起こるか分からず、したがってその対応も状況次第で様々であるようなマネジメントについての教科書など書きようがないというところなのです。

したがって、危機管理上の事態においてしっかりと対応できるトップの性格も様々であり、危機管理上の事態においてどう指揮していくかという指揮官像を一枚の絵で描くことはできません。戦史を読むと、様々な戦場で様々なタイプの指揮官が勝利を収め、また様々なタイプの指揮官が見るも無残な敗北を喫しています。

このように指揮官のタイプやそのマネジメント方式を類型化し、どのような状況においてはどのようなタイプが有効なのかというリーダーシップ論の研究が盛んだった頃もありました。

筆者はその頃、大学院の研究室でそれらの論文を読んでいましたが、どれもうんざりするような論文で、専制君主型のリーダーよりも民主的リーダーの方が大きな成果を上げているだとか、カリスマ的リーダーよりも意思決定にメンバーの参加を求める参加型リーダーシップの有効性が高いなどと、結論ありきの実証研究もどきが横行していて、研究室にいるのが嫌になったのが自衛隊に入隊する一つのきっかけであったかもしれません。

さすがに学問の世界もそのままだったということでもなく、結局リーダーシップの有効性は状況次第だという状況依存理論という考え方が現れて落ち着いていったのですが、結局、これは何も言っていないのと同じであり、当たり前のことなのですが、経営学はうんざりするほどの時間と議論を費やしてやっとその程度のことに気が付いたのです。

危機を乗り切ることのできないトップとは

さて、危機を乗り越えることのできるトップにはもちろんいろいろなタイプの方がいます。どれか一つの性格でなければダメということではありません。

ただ、間違いなく言えるのは、こういうトップは危機を乗り越えられないという類型があるということです。

それはものごとの一面しか見ることのできないトップです。

危機は様々な様相をもって襲い掛かってきます。自分の目の前に現れている表面的な現象のみに捕らわれるトップには、危機の本質が読めず、したがってしっかりと対応することはできません。

例えば、敵の奇襲が自分の部隊の左翼に対して行われている時、右翼への警戒を怠ると、左翼への攻撃が陽動であった場合には対応できません。

と言って左右だけを見ていると中央を突破されて左翼の後ろに回り込まれ、左半分が総崩れになります。しかし、敵の圧力が加わっているのは左翼なのです。

これを総合的に判断できない指揮官は戦いを勝ち抜いていくことができません。

ものごとには表と裏があることは誰でも知っていますが、しかし両面をしっかりと観ようとするトップは意外に少なく、対応していない面の情勢が悪化して、気付いた時には手遅れということが多くの企業の倒産原因です。

逆に、これをしっかりと観ることのできる経営者は、危機の中に機会を見出します。

コロナ禍において収益を何倍にも拡大した経営者は数多くいますし、そうはならなかったが対前年度では増益を重ねている会社も珍しくありません。

危機というものが、単に恐ろしいどうしようもない事態ではなく、経営環境の変化であると認識した経営者たちは、業界を問わずこのコロナ禍で成長を続けています。

実際に緊急事態宣言下で予約が取れない宿すらあるくらいです。

繰り返しますが、物事の一面しか見ることのできない経営者は危機を乗り切ることはできません。

そのような経営者は危機を乗り切るだけでなく、危機が去って、すべてがもとに戻っても、多分、十分な成果を上げることが出来ないであろうことは想像に難くありません。

大臣の資質

9月14日、萩生田文部科学省大臣は閣議に記者団の質問に応じ、各自治体に大学入試などの受験生には優先接種するよう要請したことを明らかにしました。

そもそも萩生田大臣について当コラムは、この国の文部科学行政を引っ張っていく文科省大臣としての資質を疑う旨のコラムを掲載しています。(専門コラム「指揮官の決断」

第252回 科学的証明とは https://aegis-cms.co.jp/2454 ) 

しかし、この度のこの発言により、文部科学行政のみならず、組織のトップとしての資質を持たないと判断せざるを得なくなりました。

先に危機を切り抜けるためには、様々な事情について多面的に観察しなければならないと申し上げております。

現文科省大臣はそれが出来ていないのが問題です。

高校三年生は分け方によっては、二つのグループに分けることが出来ます。

一つは大学に進学するグループです。

このコラムを執筆するにあたり大学への進学率の推移を調べてみました。2007年に50%を超え、2018年には57.9%になったそうです。

筆者が大学へ進学した当時は10%でしたから、相当数の大学教育を受ける人が増えたことになります。

しかし、依然として4割強の高校生は大学には進学していません。将来進みたい道をしっかりと見定めて専門学校に行くことを決めている高校生も多いかとは思いますが、そもそも家庭環境から大学進学など考えていない高校生もいれば、様々な事情で大学へは行きたいけど行けないとあきらめている高校生も大勢いるはずです。

筆者が海上自衛隊に入隊した頃の防衛大学校にはそのような事情を抱えて入校してきた学生が多く在籍していました。社会に出て指導的な立場に立って活躍したいが、弟や妹を大学に進学させるために自分は学費が掛からず手当てももらえる防衛大学校を選んだという学生たちで、彼らは総じて優秀でした。

日本にはそのように経済的に恵まれなくとも高度な教育を受けることが出来る学校はいくつもあります。

防衛大学校、防衛医科大学校、海上保安大学校などは衣食住および学生手当などが支給されます。自治医大は定義上は私立大学になるそうですが、6年間にかかる教育費2200万円相当は貸与となり、へき地医療などにある一定の年限従事すると返還義務がなくなりますし、気象大学校、航空保安大学校などは他では受けることのできない高度に専門的な教育を受けることが出来ます。

しかし、防衛大学校・海上保安大学校などは知力・気力・体力のバランスが取れていないと学生生活を送っていくことが難しいですし、自治医大や気象大学校などは相当な秀才でなければ入学試験を戦うことが出来ず、ほんの一部の高校生しか目指すことはできないようです。

つまり、高等教育を受けたくても受けることが出来ずに社会に出ていくことになる高校三年生は極めて多数いるということです。

萩生田文科相大臣の発言を聞いて、その高校生たちはどう思うのでしょうか。

家庭環境に恵まれて大学受験をできる同級生たちはワクチンの優先接種を受けることが出来るのに、卒業したらすぐ働きに出る自分たちは後回しなのです。

文科省大臣は、教育を受ける子供たちしか見ていません。教育を受けることの出来ない子供たちがいるという視点を欠いています。

なぜ高校三年生全部という発想にならないのでしょうか。

教育をどうするのかを考えるのはもちろん文科省の使命ですが、教育を受けられない者をどうするのかを考えるのも文科省の使命のはずです。そこに想いが及ばない大臣や官僚たちしかいないとすれば、日本の文部科学教育の問題点がそこにあるのかもしれません。

かつて当コラムでは一定の能力を欠く者について、ハツカネズミに失礼にならないようにハツカネズミ以下の脳みそと称するとご紹介し、科学的証明ということがどういうことなのかすら理解していな文科省大臣を批判しましたが、今回もハツカネズミ以下と表現させて頂くしかありません。

当コラムで過去に指摘したことがありますが、文科省のホームページにはこの国の文部科学行政に関する理念が掲げられていません。

理念なき官庁をハツカネズミ以下の頭が率いているのです。

新たな内閣にはせめてハツカネズミ程度の頭を持った大臣の起用を期待するしかないのかもしれません。