専門コラム「指揮官の決断」
第264回説明責任
よく聞きますね
国会の論戦の中で説明責任を求める声をよく聞きます。
これはaccountability を訳したものであり、アカウンタビリティというくらいですから元々は会計用語です。つまり政府機関が納税者に対して公金の使用用途についてしっかりと説明することを要求する概念でした。
それが株式会社において出資者に資産の用途について説明することにも拡大されてきたものです。
さらに現在においては金銭等の資産の使用用途に留まらず、行った行為や権限行使の合理的理由の説明についても拡大されてきています。
危機管理においても重要
当コラムは危機管理の専門コラムですが、この説明責任という概念については重大な関心を持っています。
何故なら、危機管理においては意思決定、リーダーシップ、プロトコールという三つの概念が重要ですが、その中でも意思決定及びリーダーシップに関し説明責任は大きな役割を持つからです。
危機管理において説明責任とは意思決定に関する責任を理解し引き受けることを意味します。つまり、自分が問題の当事者であるという意識を持ち、その責任から逃れようとしない態度を取ることが重要なのです。
自らその責任を負うことを回避していると問題の本質を見失う恐れがあります。本当の責任は自分にあるにもかかわらず、他にその責任を押し付けようとすると、意思決定を誤った理由があいまいとなり、同じ失敗を繰り返すことになりかねないのです。
堂々と自らの責任を認めることによってのみ過ちは繰り返さなくなります。責任逃れをするトップは同じ過ちを繰り返す恐れがあるのです。
当コラムでは自民党の総裁選前に岸田首相が事あるごとに繰り返していた「危機管理とは最悪の事態を想定し備えること。」という言葉をとらえて、危機管理を理解していないと批判しました。(専門コラム「指揮官の決断」第261回 「危機管理の要諦は最悪の事態に備えること」? https://aegis-cms.co.jp/2510 )
危機管理とは予期しえなかった事態に対応するマネジメントであり、想定した事態に対応するものではないからですが、批判した理由はそれだけではありません。
「最悪の事態を想定し、」という言葉の裏には政治家独特の逃げ道が用意されているからです。つまり、想定外の事態が起きた際にはそれを免罪符にするという意図が透けて見えるのです。
東日本大震災の際、当時の民主党政権は二言目には「想定外の出来事」と繰り返していましたが、彼らはそれが危機管理がうまくできないことの免罪符になると思っていたようでした。
トップは想定外であろうが何であろうが自らの責任を回避してはなりません。
責任から逃げないこと、それがリーダーシップの基本です。
いつ頃から使い始めたのだろう
さて、この説明責任という言葉はいつ頃から使わてきたのでしょうか。
筆者が大学の研究室にいた頃にはあまりお目にかからなかった言葉です。
実はこの言葉が使われ始めたのは1990年代です。
オランダ人ジャーナリストのカレル・バン・ウォルフレンが特派員として日本に滞在して発表した『日本 権力構造の謎』『人間を幸福にしない日本というシステム』などの書物で用いた言葉が説明責任と訳されて脚光を浴び、新たな言葉が出てくるとやたらに使いたがるメディアが乱発した結果、いろいろな意味に拡大されて使われてきたように思います。
このジャーナリストは当時かなり話題になったので覚えておられる方も多いかと拝察いたします。筆者も連絡官として駐在していた米国で拾い読みをしましたが、「こんな皮相な見方しかできずに、よくジャーナリストと名乗れるな。」と思った程度でした。
今ならその類のジャーナリストは別に珍しくも何ともないのですが、当時のジャーナリストたちはそれなりの見識を持った人々が多かったように思います。
それが帰国して見ると実はベストセラーにもなっていてびっくりしたものでした。
当時、エズラ・ヴォーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などの日本礼賛の反動から日本バッシングの書物が人気で、このウォルフレンの書物もその一つですし、湾岸戦争後は”Coming War with Japan” などという物騒な本も発刊されていました。
このウォルフレンの書物の底の浅さは読むに堪えないものでしたが、なぜか日本ではベストセラーになったようです。このジャーナリストは昨年、「新型コロナウイルスに感染しても多くは症状がない。本当は危険ではないのに人為的に恐怖の風潮が作られている」「ビル・ゲイツはワクチンで我々に微粒子を注入し、全世界の70億人を監視するつもりだ」などという陰謀説をYoutube上で展開したのでビックリしました。
当コラムでも新型コロナは2018年のインフルエンザの方が怖いくらいのウイルスであり、テレビが視聴率稼ぎのために不安を煽り、英語も数字も読めない新聞記者たちやろくにファクトチェックもしない専門家たちが誤った情報を垂れ流した結果大騒ぎになったという見方を何度か表明していますが、さすがにウォルフレンの陰謀論に与するつもりはまったくありません。
しかし、日本で「説明責任」という言葉が使われるようになったことに彼が大きく関係していたことは異論の余地がないようです。
責任の範囲は?
もちろん、自らの発言や行動について責任を持つということは非常に重要なことであり、危機管理のみならず、あらゆる場面において、組織のトップや社会に大きな影響を与える人々にはこの責任を自覚したうえでの行動と発言をお願いしたいと思っています。
ただ、問題はどこまで説明すればその説明責任を果たしたことになるのかです。
森友学園を巡る問題における野党の説明責任追及などはいささかうんざりしてきました。国会の予算委員会という重要な席で、延々と時間をかけるほどの問題かどうかは別として、検察が不起訴とし、検察審査会を経て再捜査しても不起訴とせざるを得ず、国会で野党がろくな調査もせずにダラダラと同じ質疑を繰り返すだけの論戦にもかかわらず、「説明責任を果たしていない。」と非難だけしている状態では、何をもって説明責任というのかがよく分かりません。
元々は国有地の払い下げ価格が適正であったかどうかの問題であったはずなのですが、会計検査院の検査報告が出ても納得しない野党は問題を「公文書の改ざん」という論点にすり替えています。
説明責任を果たせと要求するのであれば、それなりの論点を明らかにして、一発で急所を射抜く質問に答えさせるくらいの迫力が必要ですが、それがまったくできていません。
ここにも働くマーフィーの法則
政治家や社会的に大きな影響力を持つ人々が説明責任を意識することはもちろん極めて重要です。
しかし、マーフィーの法則ではありませんが、「説明責任」はそれを口にする人ほど果たさない責任のようです。
事例を挙げましょう。
オリンピックの開催に際し、様々な人々が反対意見を唱えました。多くは国民の命よりも経済が重要なのかという議論でした。
世界中から選手や報道陣が来日することによりコロナで大変なことになると唱えた政治家や専門家も数多くいます。
そのほとんどの人々は当コラムから見れば数字の読み方を知らない人々なのですが、彼らが常日頃主張している論法から結論を出すと、オリンピックの開催により我が国の第5波は収束しつつあるということになります。彼らは相関関係と因果関係の両方を見なければならないことを理解できないので、その彼らの見方からするとオリンピックにより緊急事態宣言が解除できたことになるはずです。
当然当コラムは別の結論を持っていますが、医学の専門家ではないという事実をわきまえておりますので、危機管理の専門コラムとしてその結論を申し上げることは控えます。
ただし、オリンピック・パラリンピックの開催がほとんどの会場で無観客であったことと、この度の急激な陽性判定者の減少は関係がないことは統計学的に証明ができます。
さて、説明責任です。オリンピックの開催に強力に反対した人々、野党党首などからこの事態に対する説明は聞いたことがありません。
ちなみに反対していた著名人の発言を確認しようとネットを検索しましたが、ものの見事に削除されており、あたかもそんな発言はしなかったかのようです。
しかし、当オフィスには多くの著名人や専門家、政治家たちの反対意見のダウンロードがアーカイブされていますので、誰が責任逃れをして二枚舌を使っているかが分かります。
ネットの時代は怖ろしいですね。
説明責任を要求するなら自らもその責任を果たせ
衆議院議員選挙も公示され各地で激戦が繰り広げられています。
かつて政権交代を成し遂げた人々が作った最大野党が自民党のコロナ対策の失策を非難する論争を行っていますが、世界を見ると日本ほど陽性判定者や死者を少なく抑えた国は珍しいことが分かりますが、彼らにはそれが見えないようです。
さらに説明責任という観点から物申すなら、その政党が「コンクリートから人へ」の合言葉の下に事業仕分けなる政治ショーを繰り広げて建設を中止した大きな治水用のダムが二つありました。
一つはその政党が再度野に下った後に建設が再開され、一昨年の豪雨被害に際して見事に流域の住民を守りましたが、熊本で建設が中止されたダムは、その政党の息のかかった知事の無作為により建設は再開されず、他の手段も講じられなかったため多くの住民の命が奪われました。
この災害に関する説明も聞いたことがありません。
説明責任を果たせと要求する者は自らの説明責任から逃れることはできないはずなのですが、それさえも理解できない人々によってこの「説明責任」という言葉が乱発されていくと、その概念が捻じ曲げられてしまう恐れがあります。
重要な概念ですので、この言葉が正しく解釈され、正しく運用されていくことを祈るのみです。