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専門コラム「指揮官の決断」

第265回 

二分法の誤謬

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エビデンスで語ってくれ

当コラムは危機管理の専門コラムであるということは事あるごとにお伝えしており、また、専門コラムであるがゆえに単なる評論やエッセイではないため、その議論には一定の原則を設けて、極力社会科学の方法論から外れないことを旨としております。つまり、エピソードで語るのではなく、エビデンスで語るという態度に努めています。

逆に申し上げれば、一定の方法論から逸脱した議論はあっさりと切り捨てて顧みることをしませんし、学者や評論家でそのような態度を取る言論人の主張については厳しく批判をしてきました。

要するに、ファクトに基づかない議論や論理的な誤りのある議論を相手にしないという態度が当コラムの基本にあります。科学的な議論には事実による検証または論理的な一貫性が必要です。どちらもない議論を当コラムでは相手にしません。

レベルが低すぎる

そのような基本的な態度を持つ当コラムとしては正視に耐えないのが国会の論戦です。

そこで戦われているのが論理的な論戦であればそれなりに聴くのですが、当コラムの基準から見るに呆れてものが言えない低レベルの論理で戦われているからです。

筆者は長らく国家公務員としての勤務を続けてきました。

国家公務員にとっては国会議員というのは絶対的な存在です。主権者たる国民の代表だからです。

日本国憲法は前文において「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、・・・」と宣言しています。

つまり、国政を担当する国家公務員にとって国民の代表者である国会議員の前にはひれ伏すしかないのです。

ところが、その国会議員たちが国会で繰り広げる論戦のレベルの低さに官僚たちは実は呆れています。

政治主導を掲げた政党が政権を取ったことがありましたが、官僚たちがお手並み拝見という態度でしたので、結局素人の政策しか打ち出せず、次の選挙であっさりと政権の座を奪われてしまいました。

正論に意味があるか

さて、それでは国会議員の論戦の何が低レベルだと言っているのでしょうか。

それは、彼らの議論が論理的に見て噴飯物のレベルにあるからです。

たとえば、ある問題に対して政権が素早く対応すると、「もっと議論を尽くすべきだ。」と批判し、現実の問題に対応しようとすると「長期的な戦略がない。」と批判します。

国会だけではなく、新聞各紙の論説も似たようなものです。

これらの意見は正しいのですが、国会で内外の問題を議論するにあたって役に立つ議論ではありません。正論とは必ずしも現実的ではありませんし、後半で述べますが、一見して正論であっても論理的に間違った議論も多く見受けられます。

国会開催要求の狙い

この夏、立憲民主党は再三にわたって国会を開催し、早く補正予算を作り、コロナ対策を国会で議論すべきだと主張しました。

これはこのコロナ禍において真っ当な意見です。

これに対して政府はノラリクラリとして応じず、ついに国会は開催されず、何の根拠もなく飲食店に営業の自粛を強要するという、論理的にも不思議な憲法違反の施策が延々と取られることになりました。

政府の思惑は簡単に透けて見えます。

当面の財政措置は終わっているので補正予算を新たに編成しなければならない緊急の要請はないというのが表向きの議論ですが、多分、国会を開けば、いろいろな施策を国会に諮らなければならなくなり、しかしその国会では「桜」や「森友」の問題で引っ張られて肝心の施策の議論が進まず、結果的に対応が遅れた責任だけを取らされると思っているはずです。

野党の狙いがそこにあったことも明らかでしょう。彼らは対案を持っていないので、まともにコロナ対応の議論を国会で行うつもりなど当然ないはずです。だからと言って座して見ていて、政府が有効なコロナ対策などを打ち出そうものなら政権支持率が高くなってしまうので、何とかそれだけは阻止しなければなりません。足を引っ張る必要があります。

と言っても、党首自ら「ゼロコロナを目指すべき。」などという驚くべき素人の議論しかできない政党です。

国会での質問の陰では・・・

昨年、10兆円の予備費が補正予算に計上されて国会で審議した時、彼らは「予備費の10兆円は多すぎるので、執行に当たっては事前に使い道と計算根拠を国会に示して承認を得るべき」と主張しました。

この政党は「立憲主義」を掲げ、党首は弁護士出身のはずですが、憲法の規定がどうなっていたのかを忘れてしまったようです。日本国憲法はその87条において、「予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基いて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。

2 すべて予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。」と定めています。事前に国会の承認を得なければならない予備費というものは聞いたことがありません。

この程度の議論を繰り返す国会のために、その会期中は各省庁で多くの官僚たちが夜遅くまでの勤務を強いられています。

ビジネスの世界の方々には信じられないかもしれませんが、国会会期中、質問に立つ議員は、その質問の骨子を前日までに国会に送ってくるのですが、夕方までに提出する議員などほとんどおらず、夜9時を過ぎて送ってくる議員も珍しくありません。その骨子を受けた国会では、各大臣や首相に応えさせるために、各省庁に質問を振り分けます。それから担当する省内での答弁資料の作成が始ります。

北朝鮮のクルーズミサイルに関する質問であれば防衛大臣が答えることになるでしょうから、防衛省にその骨子が回ってきます。防衛省では関連部局の官僚たちがその質問に対する防衛大臣の答弁資料を作成します。

防衛省だけで答えることができるものであればいいのですが、予算が絡むものについては財務省の了解をとる必要があり、企業が絡むなら経産省、米国が絡むなら外務省にも了解を求める必要があります。

関係省庁との協議を終えて大臣答弁資料ができるのは深夜になるのが普通です。

開かれている委員会にもよりますが、予算委員会などが開かれている場合には、どの省に質問がいくか分かりませんので、各省庁で待機することになります。

その結果、待機が解除になると一斉にタクシーが呼ばれ、深夜割増料金での帰宅が始ります。

防衛省の場合、内局の官僚だけで答弁資料を書くことができない専門的な問題については陸・海・空の各幕僚監部に回ってくることもあります。

各幕僚監部で待機している制服の幕僚たちはタクシー代など公費で負担してもらえないのでオフィスのソファや床に敷いたマットで寝袋にくるまって寝ることになります。

筆者はかつて内局に出向していたこともあり答弁資料の作成に関わっていました。また海幕の防衛課にいたこともありますので、この国会待機は嫌になるほど経験しています。海幕防衛課員は月曜日に出勤すると金曜日に一週間分の洗濯物を手土産に帰宅するのが普通です。

そういう事情ですから、翌日の国会での間抜けな論戦を聴いていて虚しく思ったことも嫌になるほどあります。

二分法の誤謬とは

この国会での論戦が何故馬鹿馬鹿しく見えるのかについて考える必要があります。

論戦を行う議員たちの資質について云々することは唯々虚しいので控えますが、論理的な論戦が行われないということは指摘されるべきかと思料します。

どういうことかと言うと、多くの場合、彼らは「二分法の誤謬」と呼ばれる誤りを犯しているにもかかわらず、その過ちに気が付かないどころか、その誤りを得意げに振り回すからです。

例えば、オリンピックの開催に反対して「オリンピック開催か命か」と問いかけた政党があります。

このように、選択肢が二つしかないわけではなく、隠された選択肢がいくつもあるにもかかわらず、白か黒かのどちらかをはっきりするように選択を迫る議論を二分法の誤謬と呼びます。

野党や新聞がよく使う手法であり、選択肢の片方は、誰が見ても否定しがたい永遠の真理を持ってくるのが常です。

上記の例では誰も「オリンピック開催の方が国民の命より大切だ。」とは言えないはずだからです。

この議論に意味が無かったことは結果が示しています。オリンピック開催により陽性判定者が爆発的に増えたのかというとそうではなく、増加率に顕著な変化はありませんでした。パラリンピックに至ってはむしろ開催とともに陽性判定者は減少に転じました。因果関係はないはずですが、少なくとも相関関係だけは認められます。結果的にオリンピック・パラリンピックを開催しても現在では陽性判定者が激減し、緊急事態宣言はおろか自粛要請も解除されています。

もう一つ似たような例があります。

民主党が政権を取った際、事業仕分けなるものが行われました。

これはある意味で一種の政治ショーでしたが、そこに掲げられた標語は「コンクリートから人へ」というものでした。

その結果、数々の事業の見送り及び中止が決定されましたが、その中で建設が見送られたダムが少なくとも二つありました。

そのうちの一つは次の政権交代後に再開され、結果的に豪雨において見事にその役割を果たして下流域が災害に見舞われるのを防ぎましたが、もう一つのダム建設の事業には着手されなかったため、結果的に熊本県を襲った豪雨により多くの人命が失われました。

「コンクリートから人へ」の標語により人の命が奪われたのです。二分法の誤謬がいかに危険なものかがお分かりいただけるかと思います。

国会で行われている論戦というのは、せいぜいそのレベルです。

彼らの資質が低いのは我慢しましょう。レベルの低い議員を代表者として国会に送り込んだのは選挙民の責任であり、地元選挙民が恥じるべきだからです。

しかし、自分たちの議論が論理的におかしなものであることを意に介さない無神経さは許す気になりません。

生理的な嫌悪

筆者が政治や政治家を嫌うのは、その程度の議論しかできない連中が国家公務員の前では極端に横柄な振る舞いをするからであり、多くの官僚がそれをじっと耐えてうんざりするほど無駄な時間を過ごさなければならないからです。

先日ある地方議員と話をしていて、「貴方は政治と政治家が嫌いだと言うけど、何故だ?」と尋ねられました。

筆者はその議員に「マムシが好きですか?」と尋ねました。

彼は「大嫌いだ。」と答えました。

私が「何故?」と訊くと、「理由なんかない。誰でも嫌いだろう。」という答えです。

そこで筆者はニッコリ笑って「私も同じですよ。理由なんかありません。生理的に嫌いなだけなんです。」と答えて別れました。