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専門コラム「指揮官の決断」

第312回 

ソリテス・パラドックス

カテゴリ:意思決定

砂山問題

前回、マガーク効果について言及しました。相手の表情を見ることの聴覚コミュニケーションにおける問題がテーマでした。

なぜ当コラムでこのような問題を取り上げているかといえば、危機管理上の事態において、情報や意思が誤りなく伝達されることが極めて重要だからです。

今回取り上げる「ソリテス・パラドックス」も、コミュニケーションにおける一つの課題を提示しています。

このパラドックスは、紀元前4世紀ころのミレトス出身の哲学者エウブゥリデスによって指摘されたものです。(少なくとも、筆者が大学で哲学史の講義でそう教わりました。)

砂浜に出かけて砂山を築きます。

筆者が小学生の頃は、近くの海岸で大きな砂山を作り、その側面に小さなボールが転がることのできるスロープを作り、頂上から下まで、砂山の周囲を何周もしながら転がり落ちてくるという遊びが大好きでした。トンネルを作ってみたり、結構凝ったものを作っていたように記憶しています。

その砂山から1粒の砂を取り除いてみます。

しかし、依然としてそこに砂山は残っています。

さらに1粒の砂を取り除いても、やはり砂山は消失せずにそこに残っています。

この作業を延々と繰り返していくと、最後に1粒の砂が残されることになります。

さぁ問題は、残った1粒の砂を砂山と呼べるかどうかということです。

1粒の砂では、山をなしていないので「砂山」とは呼ばないと考える方もいらっしゃるでしょう。

しかし、岩1個で山になっていることだってあります。西オーストラリア州にあるマウントオーガスタスは世界最大の一枚岩ですが、標高715mもある山になっています。

同じことは握り飯ついても言えます。

コンビニでいろいろ売っているお握りから適当なものを一つ選んで買ってきます。

米を一粒食べてもお握りは残っています。これを繰り返すと、最後の一粒になってしまいますが、一粒の米を握り飯と呼ぶことには抵抗があるでしょう。

それではいつからそれは握り飯ではなくなったのでしょうか?

何故パラドックスになるのだろうか?

この問題は何がおかしいかというと、意味が必ずしも明確ではない語に明らかに正しい議論を適用していることです。砂山とか握り飯というのは、砂粒や米粒の集合体を表しているのですが、何粒が合わさればいいのかの定義がなされていません。

この場合は笑い話で済まされますが、一般的な議論では、定義が曖昧な言葉を使うことによって問題がこじれることがあります。

意味が必ずしも明確に定義されていない言葉を使う時には、少なくともボーダーラインの状況をどうとらえるかは共通認識として持っておく必要があります。

言葉の共通理解を

例えば、「最近の」という言葉を考えてみます。

「最近の若者」という言葉で連想する年代は、その連想者の年齢に大きな関係があります。自分の世代をそうであると考える人たちもいれば、自分の息子や娘の世代をそう認識する世代もあります。

海外でいろいろな人たちと話をしていると「あの戦争 “The War”」というときに指している戦争が人によって全く異なることにびっくりすることがあります。

日本では多分、第二次世界大戦を指すでしょう。それが日本が経験した最大で最後の戦争だからです。

米国では、普通の人々では「南北戦争」を指しているようです。米国人同士が戦ったため、米国史上最大の犠牲者を出した戦争が南北戦争だからです。

米国の軍人たちと話をしていると、筆者より年配の方々にとってはベトナム戦争ですし、若い世代では湾岸戦争を指すことが多いようです。

ヨーロッパでは第一次世界大戦を指すことはほぼ間違いないかもしれません。ヨーロッパでは第二次世界大戦よりも第一次世界大戦の死者の方が多いからです。

同じ言葉でも人によって受け取り方が異なったりしますから、情報や意思の伝達を正確に行うためには細心の注意が必要です。

「現在」「現代」「近代」「最近」などの言葉が何を示しているのか、それを曖昧にした議論はひょっとすると同床異夢を引き起こすかもしれないのです。

一方で、日本的な社会では、その曖昧さを解決しないことによって、意見の真っ向からの衝突を避け、どこかで折り合いをつけるという裏技が用いられることがあります。

私たち日本人が、様々な問題に対する中国政府報道官の発言に違和感を覚えるのは、同じ東洋人として同じ論理を彼らに期待してしまうからでしょう。

日韓問題についても同様です。

私たちは欧米的合理主義に慣れているので、情のぶつかり合いが解決できない場合には法による解決で決着させますが、韓国では情は法より上位にあるので、いくら私たちが「国際法を遵守せよ。」と主張しても彼らには通じないのです。

様々な議論は言葉の曖昧さを解決しておかないと、誤解を生み、問題をこじれさせることになることを銘記すべきです。