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専門コラム「指揮官の決断」

第313回 

論点が安直すぎないか?

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国葬儀が執行されました

安倍元首相の国葬儀が日本武道館で行われました。結局は国論を二分する出来事になってしまいました。

安倍元首相に対する評価は人それぞれでしょうから、岸田首相が弔意を示すことを強制しないという方針を出したことに異論を唱えるつもりはありません。

しかし、国の予算を使って行われる儀式とするなら、「弔意を強制しない。」とするだけでなく、全国民を挙げて元首相をお見送りしましょうというアピールをもっとすべきだったと考えます。説明責任を果たせと言われて、毎回同じ要件を呪文のごとく唱えただけで、国民の心に何も刺さらなかったのでしょう。

結局は岸田首相が安倍元首相の威光を借りて弔問外交をやりたかっただけであり、残念ながら安倍元首相の業績を踏みにじるようなやり方になってしまいました。

一方で、安倍元首相に対する狙撃事件を巡って旧統一教会に関する問題が脚光を浴びています。この件を巡る報道を見ていると、旧統一教会に対する批判ではなく、それに関係を持っていた自民党議員に対する批判が主なものになっています。

曰く、選挙の応援をしてもらっていた、パーティに祝電を送っていた、会合で講演をしていた云々です。

この問題を扱うメディアの論点が安直すぎるのが気になります。

宗教はどう扱うべきなのか

筆者は旧統一教会による霊感商法の被害者が多数出ていることの問題は当然に解決しなければならないものと考えておりますが、しかし、宗教的な集団においてはこのようなことは別に珍しくなく生じており、旧統一教会だけが問題だとは考えていません。

宗教団体についてはマインドコントロールの影響を無視できません。

オーム真理教もそうでしたし、そもそも宗教というのは多かれ少なかれマインドコントロールの側面を持ちます。

さて、旧統一教会の問題ですが、確かに霊感商法による被害者が多数生じており、彼らの卑劣な資金集めの手法については何とか解決されることが望まれます。しかし、彼らは宗教法人であり、反社会的勢力ではありません。純粋にその教義を信じて、信仰生活を送っている人々もいるはずです。

また、現在は世界平和統一家庭連合という団体であり、統一教会ではありません。

立憲民主党は旧民主党がやってのけた様々な無様な政策について蓮舫議員が、「立憲と民主は異なる。」という理屈をつけていますが、そうであれば、立憲民主党が世界平和統一家庭連合を批判することはできないはずです。しかし、そのような論点をメディアで見ることはありません。

また、日本テレビが先に放映した「24時間テレビ」では世界平和統一家庭連合から、かつて7年間にわたり女性信者がボランティアとして活動していたと公表されたにもかかわらず、ボランティアについては「一般的に、参加される方の個人的な思想・信条について確認することはいたしません」として、無視する態勢です。メディアは自分たちは治外法権なのでしょう。

何が問題なのか

政治と宗教の関わりを問題とするのであれば、公明党は存立の危機を迎えることになります。

しかし、問題は社会的問題を惹起している宗教団体との関わりであるということなので、それではその観点から見ると果たして問題が生じているのかどうかが疑わしくなります。

何をもって社会的問題というかです。

多額の寄付金の要求や霊感商法まがいの高額商品の売り付けなどが問題のようですが、どこで線引きをするのかは簡単な問題ではありません。

筆者は、正月だろうが神社へのお参りをするという習慣がないのですが、多くの方が毎年初詣を欠かさず、賽銭を投げ込んだり、神官に多額のお金を払って祝詞を上げてもらったりしています。

当コラムでは、コロナ禍において全国の様々な神社が「感染防止のため参詣を控え、賽銭はクレジットカードで払ってくれ」と言い出すに及び、「無病息災を祈りに行くと感染するというのはどういうことか。コロナ禍の速やかな終息のために皆で集まって祈りましょうとなぜ言えないのか?」と批判しています。

しかし、家の新築や船の進水に際しては神事が行われることは珍しくなく、それなりのお金がかかっています。

一般的にそれらの神事は神社から言われて行うものではなく、こちらからお願いして神官に来てもらったり、祈祷を上げてもらったりしているのだから、霊感商法とは異なるでしょう。

しかし、筆者には信じられない高額のお札や塩を買ってきて部屋の四隅に置いたりする人もこの社会には多々います。筆者はそのようなことが大嫌いなので御守りを持ったことも破魔矢を買ったりしたこともありませんが、知人には高僧に高額の謝礼を払ってそのような霊験あらたかな品物をもらってくる人もいます。

彼らは、そのようなことをしないと災いに見舞われると思い込んでいるのでしょう。一種のマインドコントロールです。

宗教団体への寄付とそれらがどう違うのか、いくらで線引きがされるのかが明らかではありません。

純粋に寄付したいと考えている信者だっているはずですし、金額が高いか安いかの基準は相対的であり、線引きはできないでしょう。

筆者は宗教と政治がまったく分離されるべきだとも思っていません。ヨーロッパの先進国にはキリスト教を党名に掲げる政党も珍しくなく、一定の価値を実現するために政党を作るのであれば、宗教的色彩をまったくなくするという必要もないでしょう。ただ、国民に一定の宗教を強要するようなことは論外であることは言うまでもありません。

メディアは何を主張したいのだろうか

これらを総合して考えると、メディアは何を根拠に何を批判したいのか、つまり論点がどこにあるのかよく分からないのです。

日本は「法の支配」が徹底されている国家です。この「法の支配」という概念をメディアは理解していないのかもしれません。

「法の支配」とは「政治権力といえども法 に従い、法の枠内で行使されなければならない。」という原則を指していますが、メディアの理解は「政治権力は法に従い、法の枠内で行使すべき」であるが、「言論の自由を持つメディアはその限りではない。」ということのようです。

その証拠に、先に行われた世界平和統一家庭連合の記者会見における記者の質問の多くは、「質問」ではなく「糾弾」でした。あたかも自分たちが正義の味方として社会悪を正すと言わんばかりでした。

反社会的団体だという指定がなされているのでもない団体に対し、記者会見であたかも検察官が被告人を糾弾するかのごとき質問を記者がしているのを見るたびに、一連のコロナ禍騒動において不安を煽り続けたメディアとどちらが罪が大きいのかを考えます。

しかも彼らの報道は「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」と( )付で行われるのはまだいい方で、「旧統一教会」という名称で行われることも珍しくありません。

一方で、彼らは「立憲民主党(旧民主党)」という呼称を用いることはまずありません。

蓮舫議員と同じ発想です。

コロナ禍を巡るメディアの報道ぶりを見ていると、報道にはしっかりとした根拠など必要はなく、煽る材料であれさえすれば何でもいいのでしょう。

真実どころか事実すら見えないメディア

報道でまず重要なことは「事実」を誤りなく伝えることです。

そのうえで、「事実」だけでなく「真実」を伝えることができればなお良いのですが、これは彼らにとってはきわめて難しい課題です。

特に日本のテレビや新聞は「事実」ですらまともに伝えることができないことが一連のコロナ禍騒動で明らかです。

何が起きているのかという「事実」すら見ることができないメディアに、「真実」を追及することは不可能でしょう。

9月25日、TBSで放送された「サンデーモーニング」という番組において、9月21日にニューヨークで岸田首相と韓国の尹錫悦大統領の首脳会談が行われたと報道しました。日韓首脳会談は2年10か月ぶりということだそうです。

しかし、これを「会談」と呼んでいるのは韓国側であり、外務省の公式発表は「懇談」と称しています。両者に厳密な定義はありませんが、会談は公式に行われるものであり、そこで交わされた内容には一定の拘束力が生じます。一方の懇談は非公式にも行われることがあり、内容は厳密なアジェンダに基づいているとは限らず、事前の事務方の調整も公式の会見に比べれば本格的なものではありません。したがって拘束力も会談に比べて劣るでしょう。

TBSは外務省が公式に「懇談」と呼んでいるものを、わざわざ「会談」と報道しています。彼らには日本の外務省と韓国政府が異なる呼び方をしているという認識がないのか、あるいは両者のニュアンスの違いについて理解できないのか、あるいは韓国側の発表の方が正しいと思っているのかのいずれかだと考えられますが、事実を伝えるという着意があるのであれば、日韓政府において、「会談」と「懇談」と呼び方が異なっているという事実に触れるべきでしょう。

たしかにジャーナリズムは死んでまった

安倍元首相狙撃事件において、警備責任をとって辞職を表明した鬼塚前奈良県警本部長の会見を見ましたが、「いつ辞めることを決めたのか?」とか「今後どうするつもりか?」などいう芸能人のゴシップ取材レベルの質問ばかりで、追及すべき論点についての疑問が発出されなかったことを見ても、この国のジャーナリズムは死に絶えているのかもしれません。

ジャーナリズムは死んだと言われて久しいのですが、筆者はそれでも希望を持っていました。しかし、この2年半、コロナ禍を巡る報道を見ていて、確かにその通りと確信を持つようになりました。

私たちは様々な情勢を判断する際に、独自のソースを持っていない分野の情報については、どうしてもメディアを頼らざるを得ません。

そのメディアが事実すら伝えることができない媒体であることをしっかりと認識しておかないと、意思決定を誤ることになります。

メディアの本質についての見極めが重要です。