専門コラム「指揮官の決断」
第332回危機管理入門 危機管理とは その2
危機管理論入門1-1-2
はじめに
当危機管理入門の議論においては、危機管理を「想定外の事態に毅然と対応し、その事態に踏み潰されるのではなく、組織が一丸となって踏みとどまり、激変する環境の中に機会を見出して組織を飛躍させるためのマネジメント」と定義し、端的に申し上げれば「危機を機会に変えるマネジメント」であるとお伝えしました。
そのうえで、筆者がセミナーで「リスクマネジメントの専門家」と紹介されて狼狽えていると申し上げました。
何故かというと、危機管理とリスクマネジメントは異なる範疇の議論を展開するからです。
このことが、特に日本では理解されておらず、「リスクマネジメント=危機管理」と考えている方が非常に多いので困るのです。
筆者にコンサルティングの基礎を指導してくださった株式会社ドラゴンコンサルティングの五藤万晶氏の表現をお借りすると、両者の関係は「イルカとサメ」に当たります。
つまり「似て非なるもの」ということです。
同じく海に住み、海中を素早く泳ぎ回るイルカとサメですが、一方は哺乳類、もう一方は魚類です。
危機管理論への道程
筆者は大学で経済学と経営学を学び、大学院経済学研究科に進学して組織論・意思決定論を学んでいました。
組織における意思決定を研究するうちに外交政策の意思決定に関心を持ち、そこから危機管理論に分け入っていきました。国際関係論を意思決定論の立場から学んでいったということです。
その後海上自衛隊に入隊し、初任幹部のうちは航海・機関・射撃・通信など目の前の任務を果たすための術力を身に付けるのに必死でしたが、1等海尉になって術科学校の幹部中級課程で1年間の教育を受けたのちは海軍戦略や国際関係論を学ぶ機会に恵まれ、さらに連絡官として米国に派遣されていた2年間の間に湾岸戦争を経験し、居住国が戦争に突入していく様子を渦中にいて観察するという機会を得ました。
その後、海上自衛隊幹部学校の指揮幕僚課程と高級課程でそれぞれ1年間、隊務を離れて研究に集中できる時間と環境を与えられ、外交政策における意思決定過程の分析について学ぶことができるようになりました。必然的にベルリン危機やキューバ危機などの事例を研究することになり、結果的に核抑止論をはじめとする危機管理論の研究に実務家の立場から入っていくことになりました。
つまり、危機管理論は大学院での勉強の延長上に学ぶことを続けてきましたし、海上自衛隊の勤務そのものも危機管理上の事態に対応するためのものでしたので、危機管理についてはそれなりの知識・経験を持つことができるようになったかと考えます。
あらゆるリスクを回避することはできない
私が専門を間違えられて困るリスクマネジメントは、実は危機管理とは根本的な発想が異なります。
そもそも「リスク」という言葉は「危険」または「危険性」という意味を持っていますが、試しに英語の辞書を引いていただければ分かりますが、“risk”に「危機」という意味はありません。何故かというと、危険性と危機は意味が違うからです。
一方で「危機」を辞書で引いていただければ”crisis”と出てきます。”risk”とは出てきませんし、”crisis”と言う言葉の訳にも「危険」という言葉はありません。
皆様も”No risk , no return. High risk , high return.”という言葉は聞いた経験をお持ちだと存じます。
事業経営にはリスクは付き物です。新製品の開発や新たなマーケットへの展開などには大きなリスクが伴います。
また、スリルを求めるスポーツや趣味なども、実はリスクがあるから人気があるのでしょう。スキーやオートバイによるツーリングなども、ある一定のスリルを楽しむ行為なのだと思われます。筆者が学生時代から親しんできた外洋ヨットもそのうちのひとつかもしれません。大型のクルーズシップでは味わえないものが小型の外洋艇にはあるからです。
つまり、リスクはある程度甘受することが必要なのです。
リスクがまったくなければスポーツなどもそれほど面白くなく、また、リスクを取らなければ事業において競合と戦うことができません。
リスクはある程度覚悟しなければならず、そのリスクを取らなければ得られないものを目的とします。
つまり、何かを行う際に、その行為に伴うリスクを評価し、そのリスクを取ってもなお行う価値のある行為を行うという決断をするのが通常の意思決定です。
あらゆるリスクを回避するとなると、何の行動もできなくなります。
リスクマネジメントとは
経営者が何か新規事業を起こそうとしているとします。
その経営者は、新規事業に伴う様々なリスクを評価しなければなりません。
そして、新規事業によって得られる利益とリスクとの評価の双方を勘案し、その新規事業に乗り出すかどうかの意思決定を行います。
そして、リスクが大きすぎると判断したならば撤退、リスクをとってもなお乗り出す価値があると判断したならば、そのリスクが現実になった場合の対応策を準備することになります。
それがリスクマネジメントです。
つまり、意思決定に先立ち、リスクを評価してそのリスクを取るか取らないかを判断し、リスクを取ってでも実施する価値があると判断されたならば、そのリスクが現実化した場合の対応を準備するのがリスクマネジメントの使命です。
先に筆者は、危機管理とは「想定外の事態に対応するための・・・」と述べています。つまり、事前に評価できなかった事態が生じた際のマネジメントが危機管理です。
一方、事前に評価している場合の対応を検討するマネジメントがリスクマネジメントです。
このように、危機管理(クライシスマネジメント)とリスクマネジメントは根本的な発想が異なるのです。
このため、危機管理を専門としている筆者が「リスクマネジメントの専門家」と紹介されると困るのです。
リスクマネジメントは危機管理ではない?
筆者は「リスクマネジメントは危機管理ではない。」とよく主張しますが、これはリスクマネジメントがクライシスマネジメントと同一ではないと言っているに過ぎず、クライシスマネジメントの方がリスクマネジメントより大事だと言っているのではありません。
両者はあまりにも異なるので、これを同一視することが危険だと述べているに過ぎません。
先に、リスクマネジメントは事前に危険性を評価する必要があると述べました。
この評価には様々な要素があります。経済的な評価、技術的な評価、法的な評価など様々な専門分野からの多角的な評価が必要です。技術的にいくら問題がなくとも、法的に問題があるような製品を作ることはできませんし、開発能力は持っていても製品化した場合に高価になりすぎて売ることができないようなものは作っても仕方ありません。
これらのリスクの評価には様々な分野の専門家の知見が必要です。したがって、世間ではリーガルリスク、ファイナンシャルリスクなど様々な専門家が活躍しています。
一方で危機管理(クライシスマネジメント)は想定外の事態への対応が課題ですので、専門家を揃えておくことはできません。
何が起きるか分からないので、何の専門家が控えていればいいのか分からないからです。
結局、危機管理上の事態とは、生じて初めてどのような専門家の知識や経験が生かせるのかが分かってくるという性格を持ちますので、最初の一撃を耐えるためには特別なマネジメントが必要なのです。
その特別なマネジメントがクライシスマネジメント:危機管理です。
以後、しばらくの間、このクライシスマネジメントの基本的な性格についての議論を深めてまいります。