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専門コラム「指揮官の決断」

第370回 

自衛隊記念日

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11月1日は自衛隊記念日

11月1日は自衛隊記念日です。

自衛隊は1954年7月1日に防衛庁設置法と自衛隊法が施行されて発足したので、自衛隊が創設された日という意味では7月1日なのですが、隊員の士気の高揚、国民の理解と信頼を深めるという意味での自衛隊記念日が11月1日とされたのが1966年でした。

何故かというと、記念日行事を行うために、7月から10月であると台風などの災害での出動が予想されるので、天候が安定する11月が選ばれたようです。

この記念日に際し、かつては三自衛隊がそれぞれ記念日行事を行っていました。

陸上自衛隊を中心とする観閲行進などは、かつては神宮外苑絵画館前などで行われたり、式典が国立競技場で行われたりしました。駐屯地へ帰還する際、戦車が日比谷通りを走り抜けたりしていたこともありました。

それがある時から朝霞駐屯地で行われるようになり、市内で戦車を見かけるということがほとんどなくなりました。

特に統合運用が意識され始めた1996年以降は、陸・海・空自衛隊が持ち回りで行うようになり、陸上自衛隊が担当するのが中央観閲式、海上自衛隊担当が自衛隊観艦式、航空自衛隊担当は航空観閲式と呼ばれ、それぞれに三自衛隊が参加しています。

中央観閲式は、各自衛隊の部隊が徒歩行進などで参加しますから分かりやすいのですが、観艦式に陸上自衛隊や航空自衛隊がどう参加するか、ご覧になったことのない方には分かりにくいかもしれません。

観艦式では、艦艇部隊の観閲が終わると、入れ替わりに航空部隊の観閲が始まります。海上自衛隊の哨戒機や飛行艇、ヘリコプターなどが観閲官坐乗の護衛艦に対して受閲飛行を行うのですが、ここに航空自衛隊機が参加するのです。

陸上自衛隊は、輸送艦の甲板上に装備品を載せ、陸上自衛官が甲板上に並んで、観閲官に対して敬礼をするという形で参加します。

憲法改正だぁ?

さて、自衛隊に関しては、岸田政権はその公約として「憲法改正」を掲げており、憲法第9条に自衛隊を明記するつもりでいるようです。

この憲法改正問題に対して、当コラムでは反対の意思表明をしてまいりました。

筆者が政治家を信じていないからです。

かつて、筆者が海上自衛隊に在職していたころ、政治家たちの改憲論議を聞いているとバカバカしくてついて行けないという想いをしたことが何度もありました。

「君たちは、本当は海軍なんだ。」「自衛艦旗ではなく、軍艦旗なんだよ。」と言う政治家もおり、1等海佐だった私に、「君はさっき1等海佐と自己紹介したけど、海軍大佐なんだ。それがワールドスタンダードなんだ。」という政治家もいました。

安全保障を真剣に考えるという論点がありません。

1等海佐相当の海軍士官を「大佐」と呼ぶのは、かつての中華人民解放軍だけです。今の中国は確か「大佐」とは呼んでいないはずです。

米海軍、英海軍はCaptainですし、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドも同様です。ドイツはKapitanと呼びます。筆者も海外で自己紹介するときにはCaptain Hayashi と名乗っていましたし、現在の名刺の裏の英文にはRear Admiral Hayashi(Ret)と綴っています。

しかし、元海将補ということはあっても、元海軍少将と名乗ることはありません。

なぜ、わざわざ中国海軍と同じ階級呼称をしなければならないのか意味が分かりません。

かつて安倍元首相が、海外の危険な任務に出発する自衛官たちに「君たちは違憲かもしれないけど、頑張ってきてくれ」とはとても言えないと改憲理由を述べたことがありました。

これも政治家の勘違いです。

出発する自衛官たちは、政治家の激励などまったく聞いてはいません。ただひたすら早く終わってくれないかなと思いながら聞いているだけです。彼らは家族や同僚たちと話をしたいのです。

違憲なの?

筆者が子供の頃、自衛隊は違憲の存在でした。海上自衛官の息子であった筆者は、普通の小学校では官舎地区から通っている級友が多かったため言われたことがありませんでしたが、ある事情があって官舎の子供が筆者しかいない小学校に通っていた時には「お前のオヤジは税金泥棒」と言われたことがあります。

また中学・高校では歴史や地理の教師が授業中に自衛隊は違憲だと教えていました。

しかし、令和の現在、自衛隊を違憲だと主張する政党は僅かですし、その政党の支持率も一桁前半にとどまっています。

また、国民世論も自衛隊を違憲とする人は朝日新聞の調査によれば14%しかいません。

つまり、現在、自衛隊を違憲と主張するのは憲法学者くらいのものになっています。

憲法学者の立場は微妙で、現在の憲法上は違憲なので、これを改正すべきという学者もいれば、あくまでも日本は武装すべきではないという立場から憲法を解釈する学者もいます。

反対!

筆者が当コラムで9条の改正に反対する理由は次のとおりです。

まず、改正して自衛隊を明記しなくても国民は自衛隊を支持し、信頼してくれている。

そして、9条を明記すべきという憲法改正への議論が本格的に国会で始まり、それが国会で否決されたり、国民投票までこぎつけて否決されたりしようもなら、自衛隊が受けるダメージは半端ではないが、現政権にそんなことが出来るとは思えない。

また、海上自衛隊ではなく海軍であるべきとか、1等海佐ではなく海軍大佐と名乗れというような政治家のノスタルジーに迎合する必要などまったくない、ということです。

さらに申し上げれば、憲法を改正して自衛隊を明記しなければならないとすれば、これまでの自衛官たちは違憲の集団で仕事をしてきたのか、ということになりかねません。

かつて自衛隊を作った吉田茂首相は防衛大学校一期生たちに「君たちは自衛隊在職中決して国民から感謝されたり、歓迎されたりすることなく自衛隊を終わるかも知れない。非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎されチヤホヤされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡のときとか、災害派遣のときとか、国民が困窮し国家が混乱に直面しているときだけなのだ。言葉を換えれば、君たちが日陰者であるときのほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。自衛隊の将来は君たちの双肩にかかっている。しっかり頼むよ」と語ったと伝えられています。

自衛隊を創ってきた防衛大学校一期生をはじめとする先人たちは、この思いを胸にボーイスカウトや海洋少年団レベルの集団から必死になって現在の自衛隊を創ってきたのです。

筆者たちは、その先人たちが培ってきた伝統を継承し、冷戦後の世界における海上防衛力とはどうあるべきかを模索し、自分たちが受け継いだものをさらに強力にして次世代に引き継いできました。

筆者の父親も含め、先人たちが「違憲集団」「税金泥棒」と呼ばれながらも耐え、忍び、日々努力してきた結果、現在では米軍も大きな信頼を寄せる世界有数の軍隊に育ってきました。

だから、「君たちを合憲の存在にしてやるよ。」という政治家のお節介など必要は無いのです。

むしろ、政治家が自衛隊を私兵化するのを何とかしてやめさせなければなりません。

9月15日、木原稔防衛相が長崎県佐世保市で開かれた衆院長崎4区補欠選挙の自民党候補の集会で、「しっかり応援していただくことが自衛隊ならびにそのご家族に対してのご苦労に報いることになる」と発言しました。

かつて、稲田朋美防衛相(当時)が都議選の自民党候補の応援で「防衛省・自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」と述べたのと同じです。

中国の人民解放軍は中国共産党の軍隊ですが、自衛隊は自民党の軍隊ではありません。

このような勘違いをしている政治家がウヨウヨしている政党から改憲論議が起こされること自体に違和感をぬぐい切れないのです。

改正議論よりやるべきことがあるだろう

やらなければならないのは憲法改正ではなく、まともな安全保障に関する議論です。

長年、自衛隊は防衛予算対GNP比1%の枠に締め上げられてきました。

その中で、目まぐるしく変わる世界の安全保障環境に対応するための正面装備の充実に追われ、継戦能力を犠牲にしてきました。また、大きく遅れているのがロジスティックスです。

第2次世界大戦で日本が敗れた原因を、ミッドウェイ海戦の敗退やガダルカナル島での戦いにスポットを当てる研究者もいますが、これはロジが原因です。

戦うための弾や燃料、修理するための部品が枯渇していたことが主原因です。自衛隊の防衛力整備にはその観点が抜けています。

とにかく正面装備を当面の防衛環境に対応できるものに育てなければならなかった創隊時の発想が数十年経っても抜けず、1%枠の中でもがき続けてきたからです。

それが、ある日突然、防衛省が独自の積み上げをしていないのに、対米追従外交の結果、いきなり2%とされてしまいました。

2%とされたならば、何としても2%の買い物をしなければなりません。

しかし、燃料の備蓄や弾薬の備蓄はそう簡単にできるものではありません。容れ物が必要だからです。ほとんどが旧軍の施設を使っている弾薬庫などは火薬類取締法によって増設などできるものではなく、燃料タンクを作るのにも消防法が立ち塞がります。

結局アメリカの言いなりの兵器を買うしかなく、今後、日本の防衛力整備は果てしなく太った張り子のブタにならざるを得ません。対米ポチ外交のつけはいずれ払うことになります。

シン・ゴジラを笑えるか?

映画「シン・ゴジラ」で、ゴジラを攻撃せよと命令された自衛隊がその根拠となる法律に悩む場面があります。自衛隊法における外国軍隊の攻撃ではないとか、動物虐待にならないのかなどの議論が展開されるのですが、これは笑えないのです。

筆者は、3等海佐のときに、内部部局に出向したことがあります。その時の最初の仕事がカンボジアPKOで使用したブルドーザーやジープを日本に持って帰るための調整作業でした。

カンボジアでそのまま使ってもらえるように現地においてくればいいと考えていたら、「それらの車両には小銃を立てて押さえておく留め金が付いている。それは民生用では必要のない装備であり、つまり武器に該当する。置いてくると武器輸出三原則に抵触する。」というのが通産省(当時)の見解で、持ち帰ることになったのですが、ジープのタイヤに砂粒が一粒でもついていてはならない、というのが農林省の見解でした。海外から土を持ち込んではいけないということなのです。洗浄だけで信じられない予算が必要でした。

その程度の議論は日常茶飯事に行われています。

カンボジアPKOでは部隊が持って行く機関銃の数が問題となりました。

陸上自衛隊がいろいろと譲歩して2丁まで要求を下げたのですが、土井たか子さんが率いる社会党は2丁は多すぎるので1丁にすべきと反対しました。

社会党は機関銃を部隊がどう使用するのかまったく知らなかったようです。

自動小銃と異なり、陸上の中隊が使う機関銃は狙って振りまわすような射撃ではなく、中隊の防御正面の両端におき、斜め45度くらいの角度で一方的に撃ち続けるのです。

そうすると中隊の中央正面くらいで両端から撃たれる弾がクロスして防御正面に大きなXの字が描かれることになります。

一方的にこの射撃が続くと、敵は正面から突撃してくることが出来ません。これを突撃破砕線と呼びます。その突撃破砕線で拒まれている敵を自動小銃で狙い撃つというのが基本的な防御戦法となります。つまり機関銃は両端に1丁ずつ必要なのです。

何をもって2丁は多すぎるから1丁にせよというのか意味が不明です。

まともに考えれば、機関銃は弾詰まりが起きるので、予備の銃が必要で、予備銃を入れると4丁必要なはずなのです。

このような不毛な防衛論議が国会で戦わされているのです。

改正なんかしなくても彼らは大丈夫

いくら憲法を改正して自衛隊が明記されても、このバカバカしさが解消されるものではないので、問題はまったく解決されません。

自衛隊の存在自体が憲法に記載されなくても、自衛隊員はやるべきことはやってくれるでしょう。東日本大震災の災害派遣を見れば分かります。

彼らは自分たちが屈したらこの災害はどうにもならないことを知っていたので、みぞれが降る東北で、避難所では暖かい食べ物を避難者に作りながら、自分たちは缶詰の携行食を食べ続けて作業を続けていました。彼らが調理した暖かい食事を食べ始めたのは5月になってからでした。(海上自衛隊は違いますよ。艦内では金曜日にはしっかりとカレーライスを食べていました。避難所で陸自が作るカレーなんか海自隊員は見向きもしません。しかし、避難所で避難生活をしている人たちには本当に凄いご馳走だったはずです。陸自隊員自身がそれらを食べ始めたのはGWの後です。彼らの努力には本当に頭が下がりました。)

自衛隊を憲法に明記するということよりも、大切なことがたくさんあります。

実戦を戦える制度、規則の整備、継戦能力の充実、定員の確保、戦場となる地域の住民保護対策の具体化など課題は山積みです。

憲法に自衛隊が明記されようとも、それらの検討なしは自衛隊はこの国を守ることが出来ないのです。

その意味で憲法改正などは本末転倒の末梢の問題でしかありません。

そんなものに、国会で馬鹿げた力を使うのは国損です。

さらに信頼が地に堕ちている現政権にそんなことが出来るとも思っていません。