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専門コラム「指揮官の決断」

第378回 

危機管理の視座

カテゴリ:危機管理

2023年の結びにあたって

2023年最後のコラムとなりました。

取りまとめとして、このコラムの基本的な姿勢を確認しなおし、新しい年への覚悟を固めていきたいと考えております。

危機管理という考え方は、いろいろな場面に適用して初めて活きる考え方であり、ある意味で、それは道具としての本質を持つと言ってもいいかもしれません。

例えば、刃物を思い浮かべてください。

刃物は、それを作る職人さんがいて世に出てきます。

しかし、刃物は切れるだけでは意味をなしません。

使ってこそ初めて本来の意義を果たします。

したがって、使う用途によって作られる刃物は異なります。

料理に使う場合も、中華料理などは大きな中華包丁ですべて料理してしまうという見事な技を見せますが、和食では刺身包丁、出刃包丁など、切るものによって包丁を変えて調理します。

木を削るナイフも、草を刈る鎌も、材木を切るのこぎりも用途の異なる刃物類です。

刀剣類では、実際に武器として使わなくとも美術品としての価値を持つものがありますが、、しかし、それはやはり武器としての価値が基本にあるはずです。

つまり、刃物は存在すること自体に価値があるのではなく、用途があって初めて意味を持ちます。

危機管理という考え方も、概念や理論があるだけでは何の意味もなく、様々な場面における危機的状況に対応できて初めて意味を持ちます。

「危機管理」は、その考え方や理論を実践して、現実の危機を乗り越えることができなければならないのです。それがマネジメントです。

一方で、「危機管理論」は、マネジメントの理論ですから、即実用的であることは要求されません。

それはちょうど医学で、基礎生理学的議論があったり、臨床医学的議論があったりするのと同じで、どちらも必要なのです。

危機管理論で言えば、極めて社会学的であったり、心理学的であったり、あるいは法律的であったり、経済学的であったりする議論が底辺にあり、それらの議論を踏まえて、現実の危機に対応していくためのマネジメント論が語られるべきだと考えています。

そのような認識に立って、それでは当専門コラムはどうしていくべきかを考えます。

弊社は、危機管理は現実の問題への対応が使命だと考えておりますし、危機管理論は実学であると考えております。

しかも、対応しなければならない分野が極めて広大です。自然災害や戦争、疫病など専門分野の全く異なる分野での対応が必要であり、さらに対応する主体も、国家や自治体、企業、個人と視座がまったく異なる主体を考えなければなりません。

それぞれの分野が異なる専門的知見が必要であり、それらをすべてカバーすることは不可能なので、危機管理の視点から観察するとどうなるかという見方をせざるを得ないのですが、しかし、それぞれの分野についてもある程度の基礎的な知識は必要です。

さらにそれらを危機管理の視点から観察するということは、学問的に表現すると、危機管理というパラダイムで事実を斬るということですので、各々の分野に適した概念的枠組みを用いる必要があります。

コロナ禍を観察するのに医学を専門としない弊社が用いた手法は数理社会学的な手法でしたが、国際紛争を対象とする際に、安全保障を専門としない弊社がその事態を観察するのに用いる枠組みは、おそらく国際法だろうと考えます。

つまり、危機管理上の事態を観察して分析する際には、そのような様々なパラダイムで危機管理を見るとどのように見えるかという議論を展開していきます。

一方で、危機管理論については、その理論を構成する様々な要素を考えなければなりません。

上述した戦時国際法もそうですし、統計学もしかりです。意思決定の問題を扱うためには心理学の知識も必要ですし、企業の戦略策定を考えるならば、マーケティングに関する知識も必要でしょう。

したがって、危機管理論を語るとすれば、恐ろしく広大な領域に関する議論をしなければならないのですが、筆者が語ることのできる領域は極めて狭く、限られた分野です。

しかし、その限られた分野かもしれませんが、それを起点として危機管理論を展開していくことも必要だと考えております。

これを要するに、この専門コラムは、専門コラムの名に恥じないよう、危機管理論に関する理論的な枠組みを提供し、その危機管理の視座に立って現実の状況を解釈していくというスタンスに立っていこうと考えております。

さて、この視座に立って、今後の当コラムがどのように展開していくのか、その実例を示します。

当コラムが安全保障問題をあまり取り上げない理由

当コラムがウクライナ問題やハマスの問題をほとんど取り上げていないことにお気づきの方もいらっしゃるかと思います。

実は弊社の「危機管理論」に関するスタンスが、それらの問題を取り上げることを躊躇させているのです。

それが何なのかを説明します。

日本の現状なのですが、多分、戦時国際法の講義と言うのは大学では行われていないはずです。行っている大学もあるかもしれませんが、そもそも戦時国際法を専門とする学者というのを筆者は知りません。

そのためか、戦時国際法に関して、テレビでコメントを述べている国際関係論や中東問題の専門家はほとんど基本的な概念すら理解していません。

勉強したと言っても、グロチウスの『戦争と平和の法』を読んだ程度なのかと思われます。

ジュネーブ条約についても、つまみ食いしかしていないので論点が外れていることが多々あります。

例えば、イスラエルが病院を爆撃しているのは国際法違反だと述べる論者がいます。

たしかにジュネーブ条約では、攻撃してはならない目標がいくつも挙げられており、病院もその一つです。

しかし、その病院が軍事利用されている際には攻撃目標としても構いません。そして、それが軍事利用されていないことを証明する責任は、ジュネーブ条約上は攻撃される側にあります。

もちろん、病院と知っていて攻撃する側には、それが軍事利用されていることを証明する必要はあるのですが、その証明ができない限り攻撃してはならないということにはなっていません。証明に時間がかかると手遅れになって自軍が不利になる虞があるからです。

戦後になって、その攻撃が誤りであった場合に戦争犯罪が成立するのですが、戦争を行っている真っ最中にその証明はできず、攻撃する側に確証があり、一方の攻められる側が必要な証明を行っていない場合には非難できません。

一般に「ないことの証明」は「悪魔の証明」と言われて困難とされていますが、戦時国際法上の証明はそれほど論理学的な証明は求められません。大きく病院であることを示す赤十字の旗を掲げるとか、GPSの座標を相手側に通知するとか、国連や国際赤十字から査察をしてもらって、軍事施設でないことを見せればいいだけです。

ちなみに、戦場で傷ついた自軍兵士のみを収容している病院は攻撃対象となります。戦力の回復を企図しているからです。両軍の兵士を収容して治療していると単純な戦力の回復ではなく人道上の治療をしていることになります。

また、ガザ地区で爆撃に巻き込まれて亡くなった人数についての報道もなされ、泣き叫ぶ子供たちの姿に胸の痛む思いをしますが、自国民の保護はその国の義務であり、相手国の義務ではありません。

イスラエルはガザ地区に対して、3日後に北部に対して攻撃を開始するので南部に退避するように求めました。3日でどれだけの人数を移動させられるかという問題を提起する論者も多いのですが、1週間の猶予を与えても同じ議論が出てくるでしょうし、1ヵ月の猶予を認めると、今度は防御が完璧になってしまい、テロリストを利するだけになってしまいます。

しかも、戦時国際法では民間人を狙うことは違法とされますが、施設を目標とする攻撃で民間人が巻き込まれた場合、その保護に当たるべきはハマスです。

また、市街戦で民間人を攻撃することは違法ですが、ハマスは軍服を着用しないので、見分けがつきません。戦闘員は軍服を着用しなければなりません。

軍服を着用せずに戦闘行為を行う場合についても、国際法上の規定がありますが、民間人が戦闘員と見做され、非戦闘員との見分けがつかない以上、攻撃目標となります。

これをもって、ハマスは軍隊ではないので、戦時国際法は適用されないという論者もいますが、「事実上の戦争(de facto war)」として国際人道法を適用するのが国際法上の通説です。

以上の、初歩的な戦時国際法上の知識をもとに、現在生じている国際紛争を観察します。

現実にウクライナで起きたことは、ロシアがウクライナに武力を用いて侵入したということであり、中東で起きたのは、ハマスの武装勢力がイスラエル領内で1400名の人々を虐殺したということです。

ウクライナで起きていることに関し、ロシア側に立つ論評はあまり見受けられないので、そこに疑義はないものと考えますが、中東での事件については、論者が二分されています。

国際法の枠組みから見ると

戦時国際法の観点からは、この戦争を行うことが正しいか正しくないかという評価がまずあり、次に、その戦い方についての評価があります。

前者はus ad bellum(ユス・アド・ベルム)と言われ、後者はjus in bello(ユス・イン・ベロ)と呼ばれる概念です。

前者について、戦争は一般に違法なのですが、違法ではない戦争が三種類あります。

国連制裁決議に基づく武力の行使、それが発動されるまでの間の国家の自衛権に基づく武力行使及び安全保障条約を締結している同盟国の防衛のための武力行使です。

イスラエルに関し、国際社会でその自衛権の行使に関する非難は行われていません。国連の安保理決議による非難もされていません。つまり、戦闘行為を行うことに対する非難は行われていません。

私たちが得ている情報について

しかし、後者の戦い方に関する非難は日に日に大きくなっています。

弊社コラムでこのテロ事件に対するイスラエルの攻撃を取り上げていないのは、この後者に関わる問題があるからです。

報道では、病院が爆撃され、新生児たちがもがいている様子や、爆撃でけがをしたり、親が亡くなって泣き叫んでいる子供たちの姿が繰り返し流されます。

しかし、最初にハマスがイスラエル領内で行った虐殺については映像があまりありません。

人質として連れ去られようとする女性が映されている映像がありましたが、その他の映像がありません。

現実には、乳児が目をえぐり取られたり、頭部を切り落とされたり、暴行を受けた女性が両ひざを折られたりしている映像があるのですが、それらがテレビで流されることがないので、ご覧になった方はほとんどいらっしゃらないと思います。

ウクライナでも、暴行を受けた女性が木に縛り付けられ、両ひざから下を切断されて失血死していく様を写した動画などがロシアで高く売られたりしています。

そのようなビデオはさすがにテレビでは流されないので、私たちの社会が観る映像は、ガザで泣き叫んでいる子供たちの映像ばかりなのです。それらは事実を伝えているのでしょうが、しかし反対側にある事実が伝えられていないという問題があります。

また、病院に軍事施設があるのかないのか、それは現場にいない私たちには分からないことであり、一方的な報道で判断することは、そのプロパガンダに乗せられるということでしかないので、当コラムでの取り扱いに慎重になっています。

私たちが遠く離れた日本で得ることのできる情報は、バイアスがかかり、偏り、あるいは誤っている情報がほとんどであり、肝心なことは分からないのです。

事後的にイスラエルの作戦が誤りであったのか、あるいは正当でやむを得ないものだったのかは判断されるでしょうが、それについても、弊社ではあまり期待をしていません。

戦争は勝った者が正義となるのは、極東軍事裁判を見れば分かります。

第二次大戦の最大の戦争犯罪は、二度に渡る米国の日本に対する核兵器の使用ですが、それが断罪されることはありませんでした。

前線指揮官の思いを考えると

つまり、理論として国際法に基づいて考え、それを危機管理の現実として眺めると、うっかりものを言えないという事実に突き当たるのです。

これは、筆者がかつて自衛官であったことも大きな影響を持っています。

自分がイスラエル軍の前線指揮官だったらどう判断するだろうか、と考えてしまうのです。

目の前に病院があり、そこには逃げることのできない未熟児の新生児がいるという現実の中で、その病院がテロリストの司令部になっているとしたら、身を切られるような決断をしなければなりません。前線指揮官だって人の子です。感情が無いわけではありません。

テロリストではない無垢の民間人が巻き込まれるかもしれない攻撃を命令しなければならない彼らの心中を想う時、この問題の難しさ、そして、軍服を着用せずに一般市民に紛れ込むテロリストの卑劣さをつくづく考えます。

当コラムでは、今後もこのように「危機管理論」の基礎と「危機管理」の現実とを峻別しつつ、コラムを構成していこうと考えています。

Youtuberになります

なお、2024年には、この危機管理論の基礎を分かりやすく解説するYoutubeチャンネルをオープンします。ご期待ください。

これで筆者もYoutuberとなるんですよ。