専門コラム「指揮官の決断」
第388回目的は何か その3
目的論再考
前2回にわたって意思決定の目的は何かを考えるという、一見して当たり前のようなことの重要性について語ってきました。
何も考えないと、何を当たり前のことを言ってんだ!ということになりますが、世の中ではその当たり前のことが理解されていないことがびっくりするほど多いのも事実です。
ビジネスマン必読の書と言われた『失敗の本質』という書物は、経営学者と戦史研究の専門家たちによって執筆されていますが、この執筆陣がそれを理解していません。
この「目的は何か」というコラムの第一回で言及していますが、太平洋戦争冒頭における日本海軍艦載機によるハワイ真珠湾の米国海軍太平洋艦隊に対する奇襲攻撃などはその典型例です。
『失敗の本質』ではこれが成功例として挙げられています。果たしてそうでしょうか。
作戦目的は、開戦劈頭において米海軍に痛烈な打撃を与え、米国をして日本と戦う気力を喪失させることにあったのですが、” Remember Pearl Harbor ”として米国世論は舞い上がってしまいました。作戦目的を達成していません。つまり、失敗した作戦です。
逆に沖縄戦は、民間人を多数巻き込んだ悲惨な戦いが続き、結果的に沖縄守備に当たっていた陸軍の第32軍は牛島司令官以下が自決することによって戦いを終わり、米軍の占領下に墜ちたため失敗した作戦として『失敗の本質』では取り上げられていますが、これは犠牲は大きかったものの、作戦目的を達成しています。
第32軍に課せられた任務は結局のところ本土決戦の準備のための時間稼ぎでした。
当初米軍は攻略に必要な時間を1か月と見積もったのに対して3か月間持久し、本島のなかを転々と移動したため、地元住民の被害が非常に大きくなってしまいましたが、かなりの打撃を米軍に与えました。米軍は攻略の総指揮官であったバックナー陸軍中将も戦死しています。
沖縄には日本の海軍部隊も守備に当たっていましたが、島内を転々とすると住民の被害が増大することを恐れ、本島最南部の洞窟に潜んで動かず、指揮官の太田海軍少将は沖縄住民に対する後世の特別の措置を願う電報を決別電として送信して自決しています。
いずれにせよ、米軍の本土進攻を大きく遅らせた沖縄戦は、作戦としては必ずしも失敗ではありません。ただ、極端に多数の地元住民を巻き込んだことを合わせて評価すると成功した作戦と評価することには抵抗がありますが、作戦目的を達成していることは事実です。
払った代償と比較すると、成功と評価することをためらいますが、『失敗の本質』には同意できません。
意思決定論から見る帝国海軍
さて、意思決定の問題として考えると、海軍が主体となって行った所謂「特別攻撃」こそを問題にせざるを得ません。
本稿は歴史や社会学の専門コラムではなく、危機管理の専門コラムとして、意思決定論の立場からこの問題を扱おうとしておりますので、特攻の非人間性などについての評価は差し控えます。
筆者は、海上自衛隊の幹部候補生学校に入校の翌日に教育参考館で特攻隊員たちの遺書を読み、当時の自分よりも若い特攻隊員たちの思いを想像し、同じ軍に籍を置く者としていろいろ考えることがありましたが、その思いに触れるつもりはありません。
今回は海軍が行った航空機や小型の潜水艇、あるいは魚雷を改造した兵器などによる特別攻撃について、意思決定の問題として考えます。
単純に効率から考えると、人間が操縦して体当たりをする兵器というのは効果的な兵器ではあります。誘導武器がなかった当時、最後の瞬間まで人間が操縦することによる命中率の向上に対する期待は高かったかと思われます。
実際に、特別攻撃が開始された最初の数か月は大きな戦果を挙げているようです。
しかし、米軍は特攻機の攻撃に対する対空射撃の方法を、各砲の射撃指揮官が指揮して狙うのではなく、Operations Research という科学的な手法を用いて命中率を向上させようとして効果を発揮させたため、特攻機の命中率は次第に低下していきました。
さらに、日本の工業力の低下に伴い、特別攻撃に出撃させる航空機の不足をきたし、最後には、翼を合板で張った機上で航法作業などを行うための練習機なども特別攻撃に使っています。この飛行機は固定脚で速力も100ノット程度しか出せませんでした。
何よりも不足したのは搭乗員でした。
誰もが自家用車の運転ができる米国と比べ、地方では馬車や牛車しかみたことのない日本の若者に飛行機の操縦を教えるのには時間がかかりました。
さらに、日本の軍用機は燃料タンクに被弾するとすぐに発火し、鎮火することができず、また、搭乗員を守る防弾板も薄かったため、搭乗員の機上戦死が多く、さらに搭乗員は撃墜されても脱出せずにそのまま殉職してしまうため、熟練者が育たず、開戦当初高練度を誇った日本の搭乗員たちも急速に練度が低下していきました。
空中戦となって米軍が新たな戦法で挑んできて劣勢となっても、搭乗員が生還しないためにその情報が伝わらず、その対応策を訓練することもできず、いたずらに犠牲が増えていきました。
それらの日本軍が劣勢になっていった原因を挙げていくときりがないのですが、本稿は危機管理の専門コラムですので、意思決定論の立場から、この特別攻撃の問題を取り上げていきます。
意思決定論以前に指導層として最低
筆者が問題としているのは、特別攻撃に際し、その作戦を立案している司令部の幕僚が戦果を確認していないことです。
特別攻撃隊は、指揮官以下の数機に護衛戦闘機がついていきます。飛行機が足りなくなってきた頃からは護衛戦闘機なしで出発し、1機だけ戦果確認機が随伴していくようになりました。
ところが、この戦果を確認する機も同じ隊から選ばれて出撃していくのが問題なのです。
同じ隊の戦友が突っ込んでいくため、その攻撃が失敗であったとしたくないため、戦果確認機の確認する戦果は常に「命中」であり、敵艦に大きな被害を与えたことになっています。
そして、それらの戦果を打電したのちにその戦果確認機は帰投するのではなく、自分も戦友の後を追って突っ込んでしまうことが多かったようです。この戦果確認機は爆弾を搭載しておらず、護衛も兼ねていたので機関砲弾と帰投用の燃料は積んでいたので、機関砲を打ち続けながら自爆して航空燃料による火災を起こさせる効果はあったようです。
つまり、特別攻撃の戦果が現実のものとは全く異なっていたのですが、作戦立案をした司令部はその事実を認識していません。
なかには目標を発見する前に敵に発見されて全機が撃墜されてしまった部隊もあるのですが、それらの事実も作戦に反映されないのです。
毎回とは言いませんが、司令部参謀が自分の立案した作戦の戦果を確認するために一緒に出撃するということをしていれば、無駄な犠牲を少なくすることができたかもしれません。しかし、戦史を紐解いても、司令部参謀が戦果確認のために一緒に出撃した事実をほとんど見ることがありません。
筆者は幹部候補生学校で、海上自衛隊の基本的な方針として「帝国海軍の良き伝統を継承し、米海軍に学ぶ。」ということを教えられ、「負けた軍隊に学ぶことがあるとすれば、なぜ負けたかであり、その伝統を継承せよと言われたならば、何が良き伝統だったのかをまず検証すべきだ。」と主張して極左勢力扱いをされましたが、筆者が旧海軍に批判的だったのは、この特攻を巡る海軍の態度が気に入らなかったからです。
意思決定論の立場から見れば、自分の立案した計画の実効性を確認する着意のない意思決定者などは最低の存在です。
学ぶべきはリーダーシップ論
筆者が入隊したころの海上自衛隊においては、陸軍が強引に日本を戦争に引きずり込み、海軍は最後まで反対したが押し切られて仕方なく戦争を始めたとされ、陸上自衛隊が帝国陸軍を否定することからスタートしているのに対して、帝国海軍の伝統を継承することを躊躇わず、幹部候補生学校を海軍兵学校の跡地に開校するなど、旧海軍を賛美する傾向がありました。
筆者自身は、軍隊には伝統が必要だと考えていましたし、幹部候補生を江田島の地で鍛えるというのはとてもいい考えだと思っていました。いまだに江田島は懐かしいところですが、だからと言って旧海軍を無条件に賛美したいとも考えていません。やはり候補生の頃と同様に、旧海軍から学ぶべきところと、反面教師とすべきところがあると考えています。
意思決定論の立場から、旧海軍に学ぶものはほとんどありません。
真珠湾に対する奇襲作戦を考えたり、ミッドウェイ作戦に際して、事前に行われたインド洋での作戦やサンゴ海海戦からいくらでも教訓を得られたにも関わらず、それらを生かさなかったり、最後はやけになって特別攻撃をはじめ、戦艦大和まで特攻に駆り出すなど、意思決定論の立場からはその非合理性が目立ちます。
日露戦争を戦った帝国海軍が極めて合理的な考え方をしていたのに比べ、昭和の帝国海軍はお粗末すぎるのです。
帝国海軍に学ぶべきは、意思決定論ではなく、リーダーシップ論です。
これは現代社会においても通用する素晴らしい考え方が多々あり、特に現代の中堅管理職がメンタルダウンしてしまう多くの原因を見事に解決できるものを帝国海軍は持っていました。
危機管理の専門コラムとして、このところ意思決定の問題を主に考えていますが、そのうちにリーダーシップやプロトコールの問題を取り扱うようになると、帝国海軍の事例も扱っていくことになるかと考えていますが、意思決定の問題から考えると帝国海軍は反面教師にしかなりません。